連載 ある学徒兵の戦後(1)

             上尾 龍介

2000.8.20 192


 徴兵制が敷かれていた戦前の日本では、二十歳に達した男子は軍隊に入ることになっており、そのため「徴兵検査」というものが行われていたのだが、これは体力の優劣を基準に判定するかなり厳しい検査であった。

 日本国内に戦争の匂いが立ちこめてくるまでの、まだ平和だった時代には、この検査に合格できるのはよほど立派な体格の持主でなければならず、これは「甲種合格」と称された。

 この規準に満たない者は「第一乙種」と呼ばれ、更に劣る者を「第二乙種」、これにも及ばぬ者を「丙種」と呼んだ。

 第二次世界大戦が長期化して太平洋戦争に突入すると、次第に兵士の数が不足するようになり、これまで召集が延期されていた大学等の学生も、卒業を待たずに在学のまま召集されることになった。当時の社会状況から見て、高等教育機関に進学する者は極めて少数のものに過ぎず、彼等は本来、それぞれの専門分野の教育を身に着け、一応、有用の人材となった後に徴兵検査を受け、適格者は入隊することになっていたのだが、戦線の拡大と戦況の逼迫は、それを許す余裕を失っていた。そこでいわば未完成の学生達をやむなく召集して戦線に送ったのだが、これは国家的に見てかなりの損失であったと考えられる。

 このような緊急体制が取られることになったのは昭和十八年(一九四三年)のことであったが、このような措置は国内の緊張を一挙に高め、それはまた同時に、国民感情に微妙な波紋を広げて戦争の行く末に一抹の不安を投げかけることにもなったように思われる。

 このような、当時の張りつめた社会的感情をもこめて、当時の社会は、彼らのことを「学徒兵」と呼んだのだった。

     *   *   *   

 昭和十八年十月二十一日には、明治神宮外苑陸上競技場で「文部省主催出陣学徒壮行会」が開かれているが、東京及びその近県の出陣学生は、制服制帽にゲートルを巻いた学校教練の服装で銃剣を持ち、東絛英機首相、岡部長景文相の閲兵を受けた。講談社『昭和二万日の全記録』によると、

 スタンドを埋めつくした見送りの人々の歓声拍手が重なり、神宮の杜(もり)は興奮の坩堝(るつぼ)と化した。

 「生等今や見敵必殺の銃剣を提(ひっさ)げ積年忍苦の精神研鑽を、挙げて悉(ことごと)く此の光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず」

 出陣学徒代表東京帝大の江橋慎四郎の答辞が述べられると、会場には「海ゆかば」「紅の血は燃ゆる」の大合唱が起こった。当時、駒沢高等女学校の生徒だった作家の杉本苑子もスタンドにいた一人だったが、びしょぬれの小旗が破れて棒だけになっているのを振り回して見送った。

 「ワアワア泣きながら隊列を乱して、その出て行く人たちの後を追って行った。『行ってらっしゃい。行ってらっしゃい』って」(『潮』昭和四十年七月号)と記録されている。

 この「出陣学徒壮行会」の開かれた翌年、昭和十九年に僕と同年令の者は徴兵検査を受けたのだが、この年から徴兵年令が一年早められて十九歳で入隊することになった。このことは国民一般にかなり悲壮な時局認識を強いることになったと思われるが、徴兵を受ける側の僕等の気持というものは、「ああ、やっぱり来たか」というような受け取りかたであった。

 というのも、旧制中学の四年生か五年生になった頃、今日で言えば高校の一年か二年になった頃の僕たち男子生徒の間では、

 「どうせ人生二十五年だからな」「いや下手すると二十三年ぐらいかも知れんぞ」

 などというような会話が何も特別なこととしてではなく、日常普通の感覚で交わされていたし、誰しもが自分の未来というものをそのように思い定めていたからだ。今日の常識的な目から見れば、早くから悟り切った不憫(ふびん)な若者たちにも見えるのだが、ほかに何の選択肢も与えられてはいなかった当時の若者にとっては、それは至極当たり前な、それ以外には考えようのない心の在りようでもあった。

     *   *   *

 旧制中学というのは、今日の中高一貫教育の男子校のようなものだが、僕等の同期生達の中には、四年生にもなると「海軍甲種飛行予科練習生」を志願して入隊して行く者が現れはじめた。これは一般に「予科練」という呼び名で知られているが、この予科練を志願して行った者たちの中から、戦死者が出はじめ、その公報が学校に届くようになったのである。

 多くの若者たちが、「人生二十三年」などと思い定めるようになったのも当然なことであった。

 このような一般的な状況の中でも、生徒達は、現代の生徒達と同じように学業に励んでいた。どうせ二十何歳かで死なねばならない者が、どうして学業に励んだりするのか、これは一見矛盾したことのように見えるが、当時の僕たちはその矛盾を、抗(あらが)うこともなく至って自然に受入れていた。

     *   *   *

 僕の卒業した学校は県立宮崎中学校といったが、ここでは朝と放課後に受験のための課外授業が依然として行われていたし、昼食時になると、学級担任だった熱心な先生が「一日一問」という形で黒板に問題を書いた。それは英語であったり数学であったり漢文であったりしたが、生徒達は昼休みの短い時間にその問題を互いに考え合った。

 当時の僕たちの頭の中には、志望校への進学という希望と、二十歳を過ぎれば死なねばならぬという絶望的な現実とが奇妙に混在していたようだ。

 このように、一方では学友の戦死の公報が相次ぐという緊張の中で、これは同様に進学のための緊張した勉学の日常があったのだった。これは思ってみれば奇妙な均衡だが、当時の僕たちの大多数の中には将来に対するはっきりとした自画像の描ける者など居なかったのではないかと思う。現代の平和な日常の中でならば技術者になりたいとか医者になりたいとか、かなりはっきりした将来の希望を抱くことが可能だが、僕らの頃は軍人になりたいと思う者以外は、それは不可能なことであった。

 では多くの若者たちはどのように考えていたのか。その一つは「戦場に出ても全員が死ぬとは限らない。」という思いであった。これは年ごとに戦局が悪化し、戦死者が増加していく中での、確率の低い僥倖(ぎょうこう)を願った祈るような心理である。

 この当時、南方戦線に送られる兵士を満載した輸送船が敵潜水艦に撃沈された、というようなニュースは、公には極めて少なかったと思うが、このようなニュースの殆どはどこからか洩れてきて、それは口から口へとひそかに伝えられ、知らぬ者のない公然の秘密となっていた。

 引上げられた輸送船は船艙が蚕棚のように作られていて、どの兵士も苦しげに畳に指を突き立てて目も口も開けて死んでいた。などという話が、まるで自分が見て来たように語られていた。僕はこの種の話を聞くたびに恐怖に駆られ、自分の乗る船が沈められぬことを祈った。そして南方戦線に送られるという不運が自分に訪れぬことを願った。

 だが、もし船艙で生き残ったからと言って、その先の自分の未来がどのように展開していくのか、というようなことを具体的に考えていたわけではない。そんな悠長なことを考えて居れるような日本国内の状況ではなかったし、自分自身にも、そのような余裕はなかった。心の中は、いつ兵隊に取られるか、という思いで常に一杯だったのだ。もし生きて帰れば、その時はその時のことだ、その時になって考えなおせばよい。というように思っていた。要するに自分一身のことを軸にして物が考えられるような状況の中には、日本中の誰もが置かれてはいなかったのだ。だから「進学」も或る意味では取りあえずの進学という気分もどこかにあった。

 だが別の考え方をする人もあった。僕らの中学に若いまじめな数学の先生があり、この人はどこかの女学校から転勤して来た熱心な親切な先生だったが、

 「君達は、いずれ軍隊に入らねばならないのだから、軍人の学校に進んだほうが好いんじゃないだろうか」

 というようなことを僕らに話したことがあった。この言葉を僕は妙に記憶しているのだが、考えてみれば彼の言葉は、軍隊に入って、いずれは戦死するだろうということが前提とされているようにも思われるし、戦死しなかったら、その時はそのまま軍隊に居ればよい。将校ならばそれなりに進級もしていくので、なまじほかの方面に進んで召集を受け、一兵卒となって苦労するよりましじゃないか、という判断も含まれているように思われる。

 要するにどう見ても彼の考えていることは、兵隊に取られる、ということがすべての前提になっているように見られるのだが、当時の逼迫した情況の下ではこういう風な考え方をする人も多かったと思われる。これらの人びとの思いの中には、「戦争は今後相当長期間にわたって続くもの」という漠然とした認識が当然のこととして存在していたのであろう。あの当時の情況下では戦争が終わった後のことを想像することは困難だったし、敗戦ということもあり得る、と考えた人は極めて少数だったに違いない。まして日本が経験したことのない敗戦という現実がいかなるものであるかを具体的に想像することのできた人は、当時の日本には、もしかすると一人も居なかったかも知れない。などと僕は今思っている。

     *   *   *

 この数学の先生は「陸士海兵進学クラス」の学級担任だったので、多数の者がその方面へ進学して行った。陸士とは陸軍士官学校、海兵とは海軍兵学校の略称であり、当時の難関校の一つであった。母校の卒業生名簿を開いてみて改めて気付いたのだが、このクラスから予科練を志願した者は極めて少数であった。

 ではこのクラスの生徒たちの意識はどんなものだったのだろうと思ってみるのだが、当時の学友達に尋ねてみても、「国家の危急を一身に担わねば」、などという切羽詰まった思いで陸士や海兵に進んだ者は特に居なかったようで、彼らの多くは陸海軍の将校というものに憧れるという軍国少年的な比較的単純な動機で志願したものが多かったようである。

 では予科練を志願した者はどうであったかと思い、親しい友人に尋ねてみた所、「飛行機乗りになりたい、という軍国少年的な動機で志願した者がかなり居たようだ」という答えが返って来た。「国家の危急」という思いで志願した少数の者が居たであろうことは当然想像出来るが、恐らく多くの者は、入隊後の教育と訓練の中で、次第に国防の意志を固めて行ったのではなかったろうか。

     *   *   *

 戦前の日本は朝鮮・台湾を植民地とし、中国大陸のかなりの部分に進出していたので、当時そこには小学校から大学までの各段階の学校が多数設けられていた。

 この中で、旧満州国以外の中国の都市に設立された学校を管理運営する団体に「東亜同文会」という組織があった。これは明治三十二年に近衛篤麿によって設立されたものであるが、この団体が管理運営する学校が上海・北京などに幾校かあった。僕が受験したのはこの東亜同文会諸学校である。

 僕は受験の結果、上海の「東亜同文書院」の合格通知を受け取ったが、それからずっと遅れて、北京の「興亜学院」に行け、という電報を受取った。

 この少し前、父親に、勤務先の会社から転勤命令が出ていて、三月から朝鮮の平壌支社に移ることになっていたので、僕が北京に行くことは一家にとっても好都合であった。

 新入生は下関の旅館に集められ、関釜連絡船で朝鮮の釜山に渡り、釜山←→北京を走る特急「興亜号」に乗った。これは昭和十九年三月のことで、この頃になると既に朝鮮海峡には敵潜水艦が出没していて、無事海峡を渡れるという保証はなかった。今から見ればあまり立派とは言えない救命具を緊張しながら着けたことと、日本内地では、既に眼にすることさえできなかったカレーライスが、船内食として出されたことを記憶している。そのころの日本列島はすでに飢餓列島と化しており、街のメインストリートでさえも、売る物の何もない商店が軒並み戸を閉じていて、どの町もゴーストタウンと化していたので、よほどカレーライスという御馳走の印象が強かったのであろう。
 列車が鴨緑江を渡って「満州国」に入り、更に山海関を通過して中国に入ると、夜が明けた朝の駅頭で、初めて見る中国人の物売りが、様々な物を呼び売りしていた。

 それは、ゆで卵や煙草や、何やら干した果物のような物や、黄色いパンのような物、平らに焼いたまるい団子のような物など、およそ初めて見る様ざまな食べ物であった。中でも飴色をした鶏の丸焼が無造作にブラ下げられているのに至っては、しんそこ、その豪勢さに驚嘆した。

 中学の制服を着た僕は、同級だった友人と窓から顔を出し、山海関の朝の冷えた大気の中で飽かずそれらを眺めていた。

 十八歳の僕が見るはじめての異国であった。

     *   *   *

 当時の北京は、壮大な城壁に囲まれたほぼ四角形の大都市で、碁盤目の街路が整然と走っていた。当時二百万人と言われた人口の中で、日本人の数は十万人に達し、街には北支派遣軍の司令部があった。人の波にまじって風を切って歩くカーキー色の軍服姿が、時に目に入ることがあった。半植民地状態の北京を、それは象徴するようであった。

 学校は東側の城壁の近くと、街の中央に広がる中南海の近くの二カ所にキャンパスがあったが、二年生以上の学生達は前年(昭和十八年)の一斉学徒出陣で入隊していて、体の弱い者などがわずかに残っているだけであった。

 授業課目は中国語の時間が圧倒的に多く、毎日、中国人の何人かの教授のきめ細かい高度な授業を受けることができた。そのほか経済学や法律や地政学、言語学など様々な課目を、これは日本人の教授から受けたが、授業を受けながら、ふと心のどこかを隙間風がすっと抜けて行くような思いになるのを禁じ得なかった。

 それは教室に座っている間も入隊の日が刻々と迫って来ることへの不安と恐れであったが、それでもこうして教室で学べることの幸せを時々思った。あと一年か二年もすれば、華北のどこかの黄土の丘で死ぬかも知れないのだが、それまでの平穏な静かな時間を大事にしようと、これは口癖のように自分の中で繰り返した言葉だった。

 あの当時僕が思っていたことは、あと何年かのわずかな命だから、できるだけ意識して、生きている時間を反芻するようにして生きて行こう、ということであった。そのため、僕は毎日時間さえあれば本を読んで過ごした。授業のない日は王府井(ワンフチン)をずっと北へのぼった近代科学図書館で一日を過ごしたし、図書館の行き帰りには胡同(横町)の静寂の中を一人で黙って歩いた。歩きながら親のことや兄弟のことを思う日もあった。

 このようにして僕の短い時間は少しずつ失われて行ったが、やがてめぐって来た徴兵検査の結果は「第一乙種合格」というものであった。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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