連載 ある学徒兵の戦後(2)

             上尾 龍介

2000.9.20 193 


 徴兵検査も終わった昭和十九年(一九四四)の寒くなり始める頃から、学生達は入隊の日や入隊地を気にし始めるようになった。

 当時は、すでに戦争も深みにはまり、北太平洋から印度洋におよぶアジアのほとんど全域に拡大された戦線が、次次に破局を迎えていた。

 牟田口中将ら主戦派に押し切られて開戦に踏み切ったビルマのインパール作戦が未曾有の大敗北に終わったのはこの時期で、これと前後して、サイパン島守備隊が玉砕し、グアム島守備隊も全滅するという悲報も相次いだのだが、これらはほとんど正確に報道されることはなかった。

 このように追いつめられた戦局であったため、兵士はますます不足し、これを早急に補充する必要に、軍部は迫られていた。「甲種合格」の基準も相当甘くなっていたと思われる。その甘い基準の中で、僕の受けた判定は「第一乙種合格」であった。

 こうした実情だったのだが、それでも「丙種」と判定されて不合格となった級友が一人居た。それは田中君という、背の低い学生であった。背は至って低いが、ガッシリした体つきの彼は、通知を受け取ると口惜しさの余り机を叩いて泣いたという。

 僕はこのことを、戦後早い頃の同窓会の折りに寮で同室だった者から聞いたのだったが、その時の複雑な思いを今も思い出す。

 彼は熊本の済済黌という古い中学の出身だと聞いていたが、この学校は、陸士入学者を毎年大量に出すことで全国に知られた男っぽい進学校だったので、彼が机を叩いて嘆いたのも無理はないと、その時思った。だが、刻刻と近づいてくる召集の日を、何とかして逃れるすべはないものかと、来る日も来る日も思いつめていたあの頃の自分と引き較べてみて、彼の尋常ではない落胆の激しさは、言い難い複雑な思いに僕を落としこんだのだった。

 大阪の中学で柔道の選手だったらしい小早川君は、彼と反対側に寝ていたが、彼も甲種合格であった。彼は話題が入隊のことに及ぶと、肉付きのいい腕を組んで、

 「没法子(メイファーズ)やな。しゃあないわ」

と色白の童顔を曇らせて言ったものだ。

 あの頃の学生言葉には、日常的に多くの中国語が紛れ込んでいたが、「しかたがない」というような意味を含んだ「没法子」も、常用語一つであった。東京育ちの、寮で同室だった矢幅君は、

 「死にたくなんかないけど、仕方がないよなあ」

というようなことを、寝床に横になったままの恰好で天井を見詰めて、ぽつりと言うことがあった。

 都会育ちにも似合わず、彼等は立派な甲種合格だったが、田舎育ちらしくもない自分の非力について僕は時に思いをめぐらすことがあった。

 性格的に、物ごとに逡巡(しゅんじゅん)する気持ちが元来、僕にはあって、学校の剣道の時間の時でさえ、それが災いして先に打ち込まれてしまうことがしばしばであったので、もしも白兵戦にでもなれば、敵を刺す前に、こちらが先に刺されてしまうかも知れない。というような気分がどこかに常にあった。

 そんなことで、戦場に出ることへの嫌悪感がいつもつき附きまとっていた。戦争が恐かったのである。だから何としても軍隊などには入りたくなかったのだ。

 この軍隊嫌い、戦争嫌いは、確乎とした思想的背景や社会的な、或いは宗教的な信念など、そんな立派なものの上に立つものでは僕の場合は毛頭なかった。ただ、戦争という残虐な現実が恐かったし、そんな場所で酷い死に方をせねばならぬことが嫌だったのである。

 夏休み、学生の帰省がはじまる頃になるとすでに米軍の潜水艦が日本近海に出没して、朝鮮海峡は相当に危険であったが、それを冒しても日本内地まで帰って行く者が相当数あった。それは入隊までに一度は親の元へ帰っておきたいという願望であったに違いないし、たっての親の希望であったのかも知れない。

 その頃、あまり親しくはしていなかった学生に錦織君という人があった。幾らか大人びた感じの大きな人で、喋り好きの僕などの眼からは、いつも重おもしく見えていた。

 その彼が、どうしたことか、夏休が終わっても帰って来なかったのである。いくら学校をサボっても徴兵検査までには帰ってくるのだろうと、誰もがたいして意には介していなかったのだが、検査の日になってもやはりその姿はなかった。

 彼の家は、満鉄関連の仕事をしているお父さんの関係で、満州の、つまり中国東北地方の或る都市に在った。彼は仙台一中の卒業生だったが、そんなわけで日本には帰らず、満州の自宅に帰省して行ったのだった。

 新学期も近くなった三月の半ば過ぎの或る日、一斉に入隊通知が届いた。寮の内外では学生の動きが急に慌ただしくなった。上海や青島や満州方面など、中国の各地に家族のある学生達の間からは両親との別れのための一時帰省を願い出る動きが起こったが、学校当局は拒否した。

 その頃まで、寮の三階の或る班に、キチンと整理して置かれていた錦織君の荷物が、ある日どこかへ取り片附けられていた、というひそひそとした話を聞いたのは、入隊通知が届いた何日か後のことだった。それを聞いた時、反射的に「やっぱり逃げたな」と僕は思った。そして急に動悸が打ってくるのを覚えた。

 その頃までに僕の意識の中には漠とした逃亡の思いがあって、その暗い誘惑は、時に目を覚ましては日常を悩ませ、一つの思いは次の思いを誘って、あれへこれへと拡がっていたので、錦織君のことは、まるで尖った錐のように脳を貫いたのだった。

 徴兵を逃れて、中国人の雑踏の中に紛れこんで、もしそのまま中国人になってしまえたら、戦争などとかかわりのない、どんなにか安らかな日常が待っているだろう。などと、あの頃の僕は思いつめていたのだった。だが当時の僕には、侵略下に置かれた中国人の悲惨な実態を推測できるだけの体験も、歴史認識も、まるで欠落していたようだ。だから中国人になってしまいさえすれば、などという一人よがりの安直な思いが僕を支配していたのだった。

 ほとんどの者が入隊していく部隊は、北支派遣軍第五十九師団という山東省の各地に展開する大部隊だったが、どうしたわけか、ただ一人だけ黄河中流域の洛陽に駐屯する部隊に入ることになった江田君という都会育ちの学生が居た。彼はそのため一人だけで、ほかの者より一日早く出発する命令を受けていたが、背の高いひ弱な体格の彼は、出発の前の晩、僕の部屋にやってきて

 「おれは行きとうないんや」

と言って何度も泣いた。

 戦後何年か経って再び学生になった時、彼と同じ下宿に二年ばかりも暮らすというめぐり合わせになったが、出征の頃のことやシベリヤのことなどを飽かず語り合って、共に生きて帰り得た幸運を、折りあるごとに喜び合ったものだ。

 同じ学年に南條君という学友が居た。彼は家が北京にあったが、全寮制なので僕らと同じ不自由な寮の住人となっていた。元気のいい青年だったけれどもどことなく稚い所があって、僕はあまり彼とつき合った記憶がない。

 学生達の出身地は広範圍にわたっていて、北は北海道から南は台湾、更に朝鮮半島から中国東北部に及び、中国大陸沿海部の主要な都市にまでも及んでいた。それらの各地に日本人が定住し、そこには日本の中等学校が多数設けられていたからだ。

 その広大な範圍の各地から学生達は遠く北京をめざして集まって来ていた。「遠く笈(キュウ)を負うて」などという古風な表現も、彼らにはいくらかふさわしかったし、学生が多少大人びていたのもそのせいだったかも知れない。

 何人かの学友は南條君と同じように北京に家があって、北京中学の卒業生であったが、僕の眼に映る彼らは、同じような稚なさを、なぜかその背中にひとしく背負っているように感じられた。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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