連載 ある学徒兵の戦後(3)

            上尾 龍介

2000.10.20 194


 同期生のほとんどは大正十五年(一九二六年)生まれで、これが、二等兵から正式に入隊する日本陸軍の最後の現役兵となったのだが、実は、同じ大正十五年生まれでも、実際に徴兵検査を受け、召集され入隊したのは、十月生まれまでで、十一月以降の者は、何と、入隊しなくてもよかったのである。

 この、十月と十一月の間に引かれた眼に見えぬ一線が、共に学んだ級友の、明暗を分ける運命の一線となった。

 この時入隊した者は、全員が捕虜となってシベリヤに連行され、相当数の者が無残な死を遂げねばならなかったのだから。

 南條君は、わずかな年令の差で徴兵を免れた幸運な一人だったが、案に相違して、彼はそのことを自らの不運としてひどく落胆した。そして、自分は軍隊に入って国のために働けると思っていたのに、と繰り返し周囲に語り、慷慨(こうがい)して、涙を落としたという。

 このことは戦後早くに開いた同窓会の折りに聞いたことで、学生の頃、あまり親しくはなかった僕には全くの初耳であった。

 どことなく表情が単調で、どこか無理をしたような元気のよさが目立っていた昔の彼のことを、その話を聞きながら、僕はありありと思い出していた。

 学生寮で別れて以来五十年間、彼には一度も会っていないので、是非一度会って話してみたい、とその日思った。

 今年の五月、同期生たちは京都で同窓会を開いた。

 年令相応の死の多いことも、七十代の半ばに至った僕らの世代としては当然なことだが、それと変わらぬほどの比率で戦争での死が多いのである。それはシベリヤでの二十歳の若い死である。

 集まった元気な者は三十名ばかりに過ぎなかったが、滅多に顔を出さない僕は、この日、記憶に残る二つのことに出会った。一つは伝聞であり一つは再会であった。

     *   *   *

 耳にした伝聞とは南條君のことである。

 思い出話は軍隊のことやシベリヤのことになったが、田中君や南條君が、軍隊に入れぬことを嘆いていたことなども話題になった。

 その晩部屋に帰って、相部屋になった友人と遅くまで駄弁っていた時、思わぬことを耳にしたのである。

 話というのは、「南條君は朝鮮の出身だったよね」という何気ない内容のことであったが、話してくれた友人は南條君と寮で親しい仲間だった。

 同期生には台湾出身の黄鑽民君が居て、僕とは好朋友(ハオポンヨウ=親友)だったが、南條君のことは初耳だったので少し混乱した。そして同時に、何か苦いものが広がっていくような思いが僕を暗くした。

 翌日は「哲学の道でも歩いてみるか」という彼の誘いで、人通りの稀な五月の木洩れ日の中を歩いたのだったが、歩きながら、時おり南條君のことが浮かんだ。

 アジアにかかわる問題を、かねがね考えている僕には、戦時下に拉致されて、戦場に引きずり出されていった朝鮮の娘たちや、若い妻たちのことが、時に心を苦しめるのだが、この日もそれが灰色の霧のように、僕を包み込んで消えなかった。

 拉致された女性の中には、結婚式を控えた娘もいて「せめて私を身代わりに」と取りすがり、憲兵に撃たれて死んだ母親が居たり、幼児を置いて、半狂乱のまま引きずり出されて行った若い母親のことなど、さまざまな証言の記憶が、湧くように脳裏をかけめぐっていたのだ。

 南條君が、机を叩いて落涙したというその激しい慷慨の裏側には、父親が忍んだであろう耐え難い民族の屈辱が、重く沈んでいたに違いないのだ。

 僕は、机を叩いて慷慨する彼のはげしさを、それは彼の稚なさだったんだ、などと不覚にも長い間軽んじていたことを、深く慚(は)じた。

     *   *   *

 僕が、この折りの同窓会で心に残した二つめのこと、それは仙台の錦織君との何十年ぶりかの出会いであった。再会した彼は、奥行のある温厚な紳士になっていた。

 何としてもこの機会に、彼の徴兵前後の行動を聞いておきたいとおもっていた僕は、夕食の宴会になった時、サッサと彼の隣に席を取った。久濶(きゅうかつ)を叙しながら(編注=ご無沙汰をすること)、かれは上機嫌であった。

 その晩彼が語ったことは、大よそ次のようなことであった。

 秋頃、二名の憲兵が訪ねて来て、「徴兵検査はどうなっているのか」と尋ねたので、「自分は北京の学生寮に籍があるので、そちらで受けるようになっております」と答えた所、「分かった。では元気で北京に帰って受けなさい」と言って彼らは帰って行ったのだ。

ということであった。

 「だけど、とうとう北京には帰って来なかったよね」

 「うん。ずっと満州に居たよ」

 「見付かれば大変だった筈だが」と言うと、

 「そうだね、近いうちに敗けると思っていたのサ。敗ければどうだって構わないじゃないか」。

と彼は言った。

 僕はその大胆さに驚いたが、もし敗戦が一年でも延びていたとしたら、彼にはどんな追及が待っていただろうかと、肝が冷える思いがあった。

 「で、敗けない時のことは考えなかったの」

と僕は聞いた。彼はビールのコップを置くと、「それは考えなかったね。もう長くはもたないと、そう思っていたよ」

と答えた。そして、

 「せいぜいあと何カ月だな、と思っていたのサ」

と付け加えた。その時、白いもののまじる長い眉の下で、おだやかな微笑を見せた。

 だが、戦時下のあのきびしい統制の下で、そのような大胆な判断を持ち得るなど、よほどの思想的信念があるか、何らかの確かな情報の裏付がなければ、たやすくできるものではない。

 満州で事業を展開して居られたという彼の父君には、恐らく心を許した中国人(満州国人)の知友があったに違いなく、その方面から入る情報を通じて、かなり正確に情況の把握がなされていたのに違いない、と僕は推測した。

 だが、たとえそうであったとしても、万に一つの発覚という事態を思えば、身の毛はよだったのである。大仰に言えば、それは日本の軍部を相手の、生死をかけた大きなカケだったと言える。

 徴兵拒否という行為、それは戦前の日本の国家的倫理観から見れば許し難い大罪であり、彼はあえてその禁忌を破ったのだった。これは、かれが命をかけて、自らの手で開いた自分の運命であったが、そのために、彼は或いはシベリヤで落としたかも知れない命を拾ったのだった。

 僕は、おだやかに語る彼の遠い日の話を聞きながら、あの頃の、北京の静かな胡同(フートン=横町)を思い、何とかして中国人の中に紛れ込んで、入隊から逃れられぬものか、などと思いながら黙って胡同の奥を一人で歩いた十九歳の僕の遠い日の一途な夢想を、ありありと思い出していた。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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