連載 ある学徒兵の戦後(4)

            上尾 龍介

2000.1120 195


 いよいよ入隊の日が近づいた昭和二十年の二月か三月頃になると、僕は父に宛てて頻繁に手紙を書き送っている。

 軍隊という非人間的な、言わば牢獄のような空間に入って行かねばならぬことへの強い嫌悪感と、逃亡を企てることの不安・恐怖のはざまで揺れていたあの頃の自分の、かなり絶望的な、思いつめた心のうちを、折にふれて訴えていたのであろう。

 その頃父は、勤務先の保険会社の転勤でそれまでの勤務地であった四国の高松から、朝鮮の平壌支社長という職務を命ぜられて、家族を四国に残したまま、とりあえず単身で赴任していたのであった。

 この頃、僕が平壌へ書き送った入隊直前の手紙が一通と、前後して届いた父からの手紙が二通、合わせて三通の、すっかり変色したボロボロになった古手紙が、いま、僕の手許に残っている。

 今日のようにコピー機のなかった時代には、会社でも官庁でも、手許に保存する必要のある書類などは複写用の便箋にカーボン紙を挟んで書き、厚い本紙を先方に送り、薄い方を手許に残したのだが、いま僕の手許にある二通の父の手紙は、その薄い方が残り、僕が北京の学生寮から書き送った一通と、合わせて三通の手紙が期せずして父の所に残ったのであった。

 やがて弟妹の多い大家族は、四国から任地の平壌に転居して行ったのだが、家族が平壌に揃って半年も経とうかという頃、思いもよらぬことに日本は敗戦を迎えた。

 朝鮮半島を追われることになった日本人は、以後、リュックサック一つの難民の集団となって続々と南をめざして歩かねばならなかったが、それは、途中、民衆から掠奪をうけたり、暴行を受けたり、石を投げられたりのみじめな逃避行であったという。だが、時には温かい農民に出会って、軒下を貸して貰ったり、藁小屋に寝せて貰ったりしたこともあったと、当時中学五年だった弟が、後年、語ってくれたことがあった。

 この逃避行の間、三通の手紙は、妹のリュックサックの底に納められて、無事日本へ持ち帰られたわけだが、それは必ずしも「無事」だったとは言えない。橋の壊れた川が多かったので、時には胸のあたりまで浸かって渡らねばならなかったために、流されそうになった妹のリュックは水びたしになり、漸く岸に着くと中の物を出して干したのだという。

 手紙がボロボロになり、変色しているのはそのためであろう。

 だが、この時一枚も紛失することなく今まで残ったことは、それが自分の過去に関することであるからばかりでなく、一般的なこととして見ても、僕には甚だ興味深く思われる。それは四十五歳の戦時下の若い父親と入隊を前にした十九歳の息子の双方の感情の交錯が、手に取るように見えるからである。

 この当時の日本は、爆撃のために、東京をはじめ多くの大都市がすでに灰塵に帰していたし、小笠原諸島の硫黄島守備隊一万五千が全滅したのは、僕らの入隊直前の三月十七日のことであった。日本の命運はすでに敵の手中に握られていた。

 このような戦況の中で軍隊に取られるということは、そのまま死地におもむくに等しかったので、送る方も送られる方も平穏な気持ちではあり得なかった。その呼吸が、この往復書簡から伝わってくるように僕には思えるのである。

 僕がシベリヤから帰って九州大学の学生になったのは、昭和二十五年であったが、この古い手紙の束が僕の下宿に送られて来たのは、この年の六月二十一日のことであった。

 これを見た時、とっくに死んでしまったはずの古い時間が、昔の顔をしてむっくり起き上がったようで驚いたが、これに添えられた父のからの送り状には次のようにあった。

  −− 中略 −−
 ・・・昨夜仏壇の抽出整理中発見しましたが『きけわだつみの声、龍介版』が保存してあったので送ります。よくも朝鮮から持ち帰ったものです。

貴重な記念品です。永く保存しておいて下さい。   父より

 龍介殿

 三通の中の第一信は、昭和二十年三月二十一日付の父からの手紙である。

拝啓。

西鮮も春が来そうで大分暖かくなりました。学校を途中で止して新民会等に入る連中の真似はしては不可ません。そんな連中は、大方、将来80%迄は支那浪人になりますよ。愛国心のはき違えです。

 兵隊に行って死に損なったら正式に卒業し、九大の法文か京都の経済学部か同文書院の学部に入ってミッチリ勉強しても決して遅くはありません。大学生は妻を持ってもよい故、遅くなっても大学を卒業して社会に出なさい。前途遼遠、急ぐ事はないよ。

 金参百圓送ります。帰れたら帰りなさい。配属将校によく連絡して、若し入隊の命令が来ても連絡先が配属将校に判るようにして置いて帰りなさい。お父さんは、

 二十九日 京城(註:現在のソウル)
 三十日  京城
 三十一日 京城
 一日   京城
 二日   汽車中
 三日   平壌

ですから乗れる汽車を前々日位電報したらよろしい。

 若し参百圓送るが足らないなら竹本君からでも借りて来なさい。平壌に着いたらすぐ返金するからと言って。

 平壌まで二等の汽車で来て、それから内地へはお父さんと一緒に帰りませう。一カ月位の暇を貰って来なさい。

 汽車の中は水が飲めないので水筒は持って来なさい。配給停止の証明は是非持って来なさい。それから春の外套も。

 一度お前に逢ひ新しい支那の事を聞きたい。 では又。

          父より

 龍介殿

 これが書かれた時には、僕等の入隊日はすでに決定していたのだが、文面では、父がまだ知らないでいることがわかる。

 文中の「新民会」というのは、旧『満州国』に造られていた「協和会」と似たような性質を持った組織で、華北地域の農村に勢力を拡げて、ここに理想郷を建設しよう、という理想を掲げた政治的な運動であるが、当時、僕たち学生の間に、この運動への傾きを見せる者が居て、そのことを、手紙で書き送ったものと見える。この運動は、今日から振り返れば中国侵略そのものであったのだが、当時の僕たちには、それは全く見えていなかった。

 竹本君というのは、宮崎中学以来の友人で、後にシベリヤで死んだ。

 当時の日本では大学卒の中年サラリーマンの月給が百円前後だった。

 文中、「大学」とあるのは旧制のことで、当時国立の総合大学は京城(ソウル)と台北の両帝大を入れて九校であった。

 「配給停止の証明」というのは、「こちらでは食料配給は停止しました」という証明で、これは住所移動の時の必要書類であった。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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