連載 ある学徒兵の戦後(5)

            上尾 龍介

2001.1.20 197


 この当時、家からの手紙はだいたい十日前後かかって僕の手許に届いていたようだから、三月二十一日付けの父の手紙が届いた時には、すでに兵営の人となっていた可能性が高い。
 戦後、福岡の下宿に送られてきた三通の手紙を見た時の、驚きに似た興奮は今も覚えているが、同時に二つのことが印象として残っている。その一つは、自分の書いた古い手紙にはからずも再会した奇妙な恥ずかしさであり、あとの一つははじめて読む入隊直前の父からの手紙への思いであった。

 後になって父と語ったことだが、 「お前がもしシベリアから帰って来なかったら、あの手紙を『きけわだつみのこえ』の編集者のところに送ろうかと思っていたんだ」

 ということだった。

 そんなことをまだ覚えていたので、改めて読んでみて、何とも言いようのない恥ずかしさに襲われたのだった。

     *   *   *

 これから入隊して戦場にでようという若者にしては、何とも親に甘えきった、不甲斐なさだけが目立つのである。その上に文章も下手で、おまけに文字までまずいのである。そしておもしろいことに、そのまずい字が、自分の書いた字であると、すぐにわかるので始末におえぬ。余計に恥ずかしいのである。文字というものには不思議なことに表情があるのだ。

 教師稼業の長い僕は、さまざまな学生のレポートの類を、かなり大量に読んできているのだが、その目で自筆の文章を読んでみて、文のみならず文字までが幼稚であるのに顔が赤らむのである。僕の経験では、きちんとした文字で綴られたレポートは読み易くもあるが、多くの場合、内容もちゃんとしていることが多いからだ。

 そんなことを思いながら、僕は生きて帰ってよかった、と思った。もし死んでいたら、父親は、これを編集部に送り、その幼稚さのゆえに鄭重な添え状と共に恐らくは送り返されて来て、父親の嘆きを二重にしたであろうからである。

 だが、僕はいま、それを敢えて活字に乗せようとしている。それに、あのような、国力のすべてを尽くして戦っても、なお敗れるしかなかった大戦の終局の時期においても、なおこのような不甲斐なさを抱いたまま戦場に引かれて行った男も居たのだ、という当時の一面の現実の姿をとどめることにもなろうかと思うからである。

    *   *   *

 以下は、その恥ずかしい古い手紙である。

 学年末の試験も数日に迫って来ました。学生としての最後の試験だと思ふと、感無量なるものがあります。然し間近に迫った入隊のことを思ふと、流石に落ち着きを失ってしまひそうです。大抵の者は、試験もよそに遊んだり、無茶苦茶に読書したりしてゐます。

 どうも、此の手紙が朝鮮に着く頃は、学生であるか軍人であるか分かりません。寮の者が、知り合ひの色々な人からそれとなく聞き出してきた所によると、四月一日ではないかと言ふことです。

 学校では、家には絶対帰さない、と言ってゐます。これも自分一人がその境遇に置かれるのなら恐らくは耐へられないでせうが、同級生が皆同じ境遇にあるのですから、比較的に良いと思っております。去年迄、兵隊に行く先輩の学生達が、入隊を間近に控へて落着きなく生活してゐるのを、冷やかな目−−に近いものを以て眺めてゐましたが、いざ自分がその立場に立ってみると、情けないくらゐ落着きを失ってしまふのが不思議な位です。情けないと思ひつゝも、やはり人間とはこんなものではないか、と思ったりして、ひとり寂しく思ってゐます。何が人間の本当の生き方であるのか、まさに心中混沌として狂ひさうです。ふと何か考えてゐると、苦しいものが頭に立ち込めてくるやうな気がして、とたんに眼鏡をはずして静坐してゐますが、心は静まらず、苦しい日を送ってゐます。

 家に帰さぬと言った秋草教授の細い顔が、ひどく憎らしく見えたり、恐ろしい考えがひよっと頭を抬(もた)げたりして寧日(ねいじつ)なき日々です。

 無理に落ち着かうと苦しんでゐます。

 思へば、去年の今頃が僕の一生で一番幸福だったのではないかと、昔を懐かしむ心しきりです。

 このまま入隊して、家の者の誰の顔もみれずに死んでゆくのかと思ふと悲壮です。没法子(メイファーズ)。

 此の前の夜−−その宣告を受けた日の夜、一晩、床の中で泣き明かしました。ふと、幼い頃父上と一緒に寝た冬の夜を思ひ出して、父上の名を呼びながら一晩泣いてゐました。

 次の日は春の美しい日でした。心も爽快でした。

 それ以来、どうにか、家の者の顔を見ずに死ぬことの決心に近いものは得ましたが。今は、どうして此の世に生まれて来たのか、と苦しく思ってゐます。これなら学問などせずに、一生、百姓でもして田舎に暮らした方がよかったのではないか、とも考へました。

 今、十一時ですが、部屋の者は試験だといふのに皆寝てゐます。彼らも落着きを失ってゐます。

 僕は駄目だ。−−とつくづく思ひます。どうしてこんなにそはそはしてゐるのか。−−去年の今頃の希望にみちた日を送ったこの僕が。

 もう止めます。今から坐ります。

 此の手紙が最後になるかも知れません。恐らく返事の来る頃は兵営だと思ひます。

           龍介
   三月十二日
 父上様          


     *   *   *

 中学の四年の終わり頃、会社の転勤で、一家は四国に引越して行ったので、僕だけ宮崎で下宿することになったのだが、その時から僕は、「静坐」というものを学んだ。これは岡田虎二郎によって創められた一種の座禅で、本来の座禅との違いは、膝を崩して胡坐(あぐら)となるか正坐のまま坐るかという所にあるが、宮崎では杉田という眼科医の宅に同人が集まって熱心に修業を積んでおり、父はその仲間だったので、転勤の際に僕を杉田先生に紹介したという経緯があった。

 次第に入隊の日が近づくと、僕はその不安から逃れようとして、毎日熱心に坐っていたのだが、それは溺れる者が小さな一枚の板きれにすがろうとしている姿に似ていたかも知れない。

 「きけわだつみのこえ」は一九四九年の出版であるから、その頃には僕はすでに復員して戦後の学生生活を初めていたのだが、戦死した学徒兵の遺稿を集めたこの本を読んでみようとは思わなかった。思わなかったというだけでなく、読みたくなどないと思って避けていた。それは、読めば、軍隊やシベリヤでの忌まわしい記憶が、それもたった二年前までの悲惨な記憶が、嵐のように吹き出してきそうに思えたからだ。

 あの頃の僕の胸の中には、もう戦争には触れたくない。そんな辛い話はもうたくさんだ。俺は忘れてしまいたいのだ。もう聞きたくない。どうかもう言わないでくれ。俺はもう戦争の話には触れたくないのだ。・・・・・・といった悲鳴に近いような思いがからだ中に詰まっていた。

 そんなことで、「わだつみ」も手に取りたくはなかったし、それから次々に出版された「シベリア抑留記」のたぐいも、ずっと避けつづけていたのだった。それらを読むことは悪夢を見ることにひとしかったからだ。

     *   *   *

 それらの本をはじめて手にするようになったのは、ずっと後年になって、勤め先の大学も定年退職して後の、六十歳も幾つか越えた年齢になってからであった。

 思い切って読んでみると、「わだつみ」も「抑留記」も、僕が予想の中で恐れていた程の、それほどの辛いものは多くはなかった。

 特攻隊員として敵陣に突入した人の文章もあり、またシンガポールの刑務所で刑死の半時間前に書かれた文もあって、それらには胸が痛んだが、多くの文章は、死の直前に書かれたものでないために、まだいくぶんかの余裕が感じられることが、読者である僕の痛みを救ってくれたのかも知れない。読んでいる間じゅう僕はシベリヤを思い出していたから。

 しかし僕が驚かされたのは、筆者である若い学徒兵たちの知識水準の高さであり、その思考の深さと高邁さであった。その中にはすでに三十歳に達していた人もあり、軍隊の階級も大尉や少佐などという人もあって、当然と言えば当然だし、中には師範学校助教授などという人も含まれている。戦前の師範学校は旧制の専門学校で、現在の国立大学の教員養成系学部の前身である。

 僕が入隊まで学んでいた学校は北京に在った。その北京に設けられた軍の病院で戦病死した元同志社大学の学生だった松原成信氏は二十三歳の兵長であったが、友人に宛てた書簡に、

 生あらばいつの日か、長い長い夜であった、星の見にくい夜ばかりであった、と言い交わしうる日もあろうか・・・・・・

と書いている。僕はこれを読み、戦後まで生き延びている自分の姿を思ったが、それと同時に、あの頃の、目先のことだけを思い詰めていた自分の幼さ、知的な視野の狭さを思った。

     *   *   *

 その、十九歳にしては幼稚な僕の、出征直前の手紙を読んで、父親はどのような感想を持ったか。それが次の手紙である。

   昭和二十年三月二十三日

 拝復、

 十二日に書いた十四日付け消印のある手紙本日到着しました。

 変にセンチになってゐる様だが、兵隊と言ふ処はそんなに恐ろしい処じゃないよ。少しも心配することはない。勇躍して国難に赴く光栄にこそ感泣すべきじゃないかと思ふ。

 是で親爺も肩身が広くなったよ。親爺の兄弟三人、一人も征かず、上尾家としては最初の軍人だ、ほんとうに嬉しいよ。

 坐ってゐると段々解って来るが結局人生は寂しいけれ共、独生、独死、独去、独来と禅では言ってある。

 独り生まれて独り死ぬ、独り来たりて独り去るのだ。親と共に死ぬ事も出来なけりゃ、兄弟と偕(とも)に死ぬ事も出来ないのだ。生死の境を禅脱したら、後は実にサッパリして来る。

 飛行機乗りの態度の美しさ、あの淡々たる境涯に到達しなけりゃ、やはりほんとうのものじゃない。

 父も諦めるよ、とうの昔に諦めてゐる。可愛い子には旅をさせよとの諺を知ってゐるだろう。お前が真剣に悩み人生を真剣に考へる事が結局は辛酸を嘗めると言ふ事だ、それが苦労といふものだよ。父も十九の年から親の膝下を離れて実に惨憺たる苦労を嘗めた。支那に居た時等は夢多い青春ではあったし、学問の不足や家運の非、肉親への愛着、それ等のものを乗り越えて初めて一人前の人間になるのだ。

 迷信を信ずる様だがお前は非常に運勢が強い、そして父よりも稍(やや)聡明だ。努力が足らぬのは今日迄甘やかした関係と思ふがそれでよい。如何なる難事も巧みに切り抜ける性格を持ってゐる。入隊したら多分上官から可愛がられるだろう。すぐ上官の官姓名を知らせなさい。依頼状をだすよ。

 昨日迄何も知らなかったので、金参百円旅費として送りました。使って呉れ。

 荷物は平壌へ送りなさい。先生の指図通り荷作りし平壌へ送って呉れ。

 この手紙は入隊后着くかとも思ふ。多分満洲だよ、満洲なら父も年一、二回は逢ひに行くと思ふ。母も行くよ。

 入隊したらほんとうに逞しい男になるよ、兵隊になっても死ぬと決まってはゐない。殊に重砲兵ならね。それも何に廻されるか判らないがしっかり勉強しなさい。

 此の后の手紙は平壌と丸亀へ両方出しなさい。それか、平壌へ着いたら廻送させるから平壌へだけでもよいが。

 平壌あたりに入隊するとよいがね。入隊先がきまったら平壌へも電報して下さい。第一乙では少し遅れるかも知れないよ。

 しっかり落ちついて呉れ、日本男子じゃないか。センチになる事は絶対反対だね。

 兵隊に入ったら金がいる時は送ってやるよ。配給はよいし、身体は丈夫になるし、精神力は出来るし、父は嬉しいよ。

元気で入隊せよ。

          父より

  龍介殿


     *   *   *

 前にも書いたが、この便りが届いた時、僕はすでに学生寮には居なかった。ほとんどすれ違いに入隊のために出発していた。

 これまでの手紙で、野戦重砲に入りたい、などと書き送っていたらしいことが、この最後の手紙でわかる。もし僕が戦線で死ぬかシベリヤで死ぬかしていたら、この手紙は、遂に読まれることのない文字通り最後の手紙になっていた筈であるが、僕は生き残った。

 入隊した部隊は、北支派遣軍第五九師団迫撃砲隊という部隊であった。それは山東省済南市の郊外、歴城県白馬山という所にあった。

 山東省では、毛沢東の軍隊である第八路軍との苛酷な戦闘が絶えることなく繰り返されていた。八路軍の遊撃戦に苦しめられ続けた日本軍は、遂に、無差別に村ごと殺し尽くす戦闘手段をとるようになったが、それは「三光作戦」と呼ばれる無慈悲な戦闘手段であった。ある村を襲えば、村ごと殺し尽くし、奪いつくし、焼きつくすのである。

 この第二次大戦の歴史に汚名を留めた「三光作戦」の実行部隊こそが、僕の入隊した北支派遣軍第五九師団であった。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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