連載 ある学徒兵の戦後(6)

            上尾 龍介

2001.2.20 198


 入隊した部隊は「師団迫撃砲隊」であったが、実態は野戦砲隊であった。

 迫撃砲というのは、高く撃ち上げて比較的近距離の目標を攻撃する場合の砲なので、城壁をめぐらした中国の都市の攻撃などに適している。
 野砲というのは、歩兵と協同して山野を駆け、あらゆる戦闘に従事する野戦の主砲で、最大射程は一万米(b)を超える。

 連日のきびしい演習は砲撃の鍛練であった。華北一帯は抗日第八路軍の根拠地の一つ「晋察冀抗日根拠地」であり、部隊の所在地山東省では、日本の軍事的・政治的勢力と、中国共産党側のそれとが拮抗して相争っていたため、互いの勢力の境界線は複雑に入り組んでいた。

 その入り組んだ勢力の分布は、彼我の力関係の強弱によって三つに区分して呼ばれていた。

 日本側の呼称に従えば次のようになる。(イ)治安地区=日本軍勢力下の地区(ロ)準治安地区=双方の勢力の相拮抗した地区(ハ)敵地区=中共軍勢力下の地区。中国側の呼称では(イ)被占領区(ロ)遊撃区(ハ)解放区となっている。

 このなかの(ロ)地区は、彼我が争奪し合って戦闘の絶え間ない地区であり、日本軍の被害も大きかったが、それより、中国の農民が悲劇的な無惨な生きざまを強いられていた地区である。三光作戦と呼ばれる戦闘は主としてこの(ロ)地区で繰り返され、同じように(ハ)地区でも繰り返された。その戦闘を隊内では「討伐」と言っていた。古兵達はしばしば「討伐」に出動して行った。

 僕たち初年兵の演習は最初は営内の練兵場で行われたが、後には営外の山野で行われるようになった。一つ間違えば敵襲を受けかねない危険な野外演習だったが、実弾を込めて演習する野砲隊に近づくような愚を中国軍ゲリラはおかさなかった。

 白馬山の兵営は広大な敷地をを占め、赤煉瓦平屋建の兵舎は、かなり立派な造りであった。

 兵営内の兵の居住室は内務班と呼ばれるが、それぞれの内務班には一個分隊ほどの兵達が、厳正な規律を保って居住していた。

 その規律厳正なはずの内務班では、奇妙なことに物品の紛失がしばしば起こっていた。それは時々おこなわれる物品検査のためであったと言ってもよい。

 検査の時に官給品の靴下や手袋などの規定の数が揃っていないと厳しく追及されるのである。それらの物品は演習や営内作業などの時に紛失することがよくあるのだが、検査の時に、

 「野外演習の時紛失したのであります。」

などと言っても通用せず、殴られるのがオチである。何としても検査までに規定の数を揃えておかねばならないのだが、これは人の物を盗む以外に方法はない。頻頻と物がなくなるのはこのためであった。隊内には慢性的な員数(インズウ)の不足が存在しているので人を見たら泥棒と思わねばならないことになる。

 ところがどんな所にも要領のいい人間というものは必ず居るもので、盗まれて員数不足になる前に、人の物を失敬して予備を蓄えておくのである。

 こんな周到な?奴が居るので、隊内の員数不足は深刻になる。員数をつけること、つまり泥棒の下手な初年兵は泣かされることになる。所が軍隊に入って五年も経ったような古参上等兵などは、たとえば靴下が片方なくなれば、何と残った片方を二つに裂いて検査に臨むのである。これでも数だけは合っているので検査には通るのである。僕はこの矛盾した現実に驚いたが、軍隊という所はそんな所であった。万事極端な形式主義に貫かれているのである。

 毎日新聞に「憂楽帳」というコラム欄があるが、そこに次のようなことが書かれていた。

 中学生の事件が続く今、所持品検査や「心の教育」がいわれてもいる。だが形式的な抑え付けだけが強まって「兵舎管理」に進むようであればますます心の居場所がなくなる。その先が怖い。

という論旨だが、その前提に日本陸軍の『被服手入保存法』のことが書かれている。曰く。

 これは新兵教育の教典と言われるが、全編にわたる懇切丁寧さには驚かされる。衣類の着方なども微に入り細をうがち説明する。その一例−−上着は両手を通し揺り上げるようにして着る。ボタンは上から順番に掛ける。靴下は外に半分折り曲げてから足を入れ両手で引き上げる。しかし、袴下(コシタ−ズボン下)着用時の次の指導にかなうものはない。

「睾丸(コウガン)ハ左方ニ容ルルヲ可トス」「なぜ?」とは愚問。ともかく金科玉条なのだ。このように、かゆくない所にまで手を出す兵舎生活の息苦しさは、いかばかりか。(一九九八年二月十七日夕刊・塚本弘毅)

というのである。記者の文章のセンスに脱帽だが、このような、やたらと硬直した兵営生活になじむのに、僕にはかなりの時間が必要だった。理屈に合わぬことがあまりに多かったのである。それはそれと諦めて、順応してしまえばそれまでなのだが、諦めるまでに、いちいち自分の中で反問し、そして一人で苦しんでいたのだ。だから古兵達から今日も殴られ、次の日もまた殴られた。

 初年兵を最も殴ったのはH一等兵という三年兵だった。三年兵というのは入隊して三年目の兵隊のことである。初年兵達は皆彼を恐れ、そして嫌ったが、彼自身としては、初年兵を殴ることで、四年兵や五年兵の御機嫌を取っていたのである。内務班の幇間(たいこもち)である。

 これは後日談だが、この頃から五年ばかり経った或る日、同じ内務班の初年兵だったA君と、福岡の街でバッタリ出合ったことがあった。お互い奇遇に驚き生還を喜び合ったがその日別れる時しげしげと僕を見て

 「お前、軍隊の頃はボケとったんやなあ」
と言った。

 彼は公務員になっており、僕はまだ学生だった。

 この日僕達二人は済南の街頭でのことを思い出していた。それは初年兵に許された中国でのたった一日の外出だったが、その日A君と二人で歩いていると、向こうから来た一人の日本婦人に呼びとめられたのだ。

 「兵隊サン、ちょっと待って下さいネ」と言うとその人は近くの店に入り、袋一杯の中国菓子を買って来て、僕等に渡して去ったのだった。

 軍服の襟章に一つだけしか星の付いていない十九歳の兵隊が、この婦人には何とも稚なく頼りなげに見えたのかも知れない。

 当時、中国の至る所の都市には、かなりの日本人が暮らしていた。それは駐屯する部隊に護られての暮らしであったわけだが、北京でも、この済南の町でも、人々は何事もなく日々を過ごしていた。兵隊同士は戦っていたが、民間人同士は平気で暮らしているという奇妙な現実が、その頃の中国の都市にはあった。

 だがこの済南の街では、日本の敗戦後暴動がおこり、多数の日本人が殺されるという事件があった、ということを、三十年も後になって、僕は聞いたが、その時反射的に思ったことは、三光作戦で虐殺された中国民衆の怒りが爆発したのに違いない、ということであった。

 わずか数百人の残留部隊を残して、師団の主力一万二千余が移動を開始したのは七月十二日のことであった。その二日後、山海関を通過して「満州国」に入ったが、それまでの七百粁(キロメートル |)の鉄道沿線には、八路軍遊撃隊に襲われた日本の機関車が到る所に横転し、残骸を累累と晒していた。

 部隊が無事移動を完了したのは、済南を出発して五日目の昭和二十年七月十七日であった。この日は米英ソ三国の首脳が、日本に降伏を勧告するための会談を、ベルリンに近いポツダムで開いたその日であった。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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