連載 ある学徒兵の戦後(7)

            上尾 龍介

2001.3.20 199


 中国山東省済南市を出発した第五九師団が、朝鮮北部の目的地に到着した七月十七日という日は、敗戦、即ち第二次大戦終結の日までわずか二十九日しか残されていないという逼迫した時であった。

 大戦がすでに歴史の一頁となってしまった今日の眼から見れば、残す所あと二十九日というのでは、すでに敗戦となったのも同然に見えるけれども、敵の出現を待ち構えている第一線の状況はそうではなかった。

 部隊が到着したこの場所は、工業都市咸興市からそれ程離れていない「咸鏡南道定平郡広徳面富坪」という土地であった。

 ここは、咸興市から元山市に至る海岸平野の中ほどに当たり、部隊は平野を見下ろす小高い丘陵地帯の一部を占めていた。僕らの小隊の陣地は、丘陵の先端に当る位置の、雑木の疎林の中にあったので、前面の景観は手に取るように眺められた。

 中国に駐屯していた頃は、毎日の訓練は中国軍、それも抗日第八路軍との戦闘の訓練であったが、北朝鮮に移動してからは、対ソ連戦車攻撃に変わったのである。

 日本と米国の戦いの相当な部分が海戦であったように、ソ連とドイツの戦いのかなりの部分は戦車戦であった。独・ソ戦が烈しく戦われた頃、僕達はまだ旧制中学の生徒で、時に双方の戦車の写真などを目にすることがあったが、それは、あの頃の日本の戦車などとは比較にならぬ大型の立派な戦車であった。

 そんな漠然とした知識を持っていたので、連日の対戦車攻撃演習はおのずと緊張を強いられた。野砲の一般の射撃の場合と異なって、対戦車攻撃の場合は、砲身を水平にまで下ろして、高低と左右の二つの転把(ハンドル)を操作しながら、照準眼鏡(ショウジュンガンキョウ)の中心に敵を捉えると、至近距離からいきなりブッ放すのである。これを「直接照準」と呼んだが、ソ連の高性能の戦車に対して、対戦車砲ではない普通の野砲で、しかも、大正年間製の野砲で立ち向かうのであるから、「これでやれるのだろうか」という不安を、兵たちが抱いたとしても不思議ではない。厚い鋼板で造られたソ連戦車の車体を、果して撃ち抜けるのだろうかという不安である。

 毎日の演習の動目標は、前方の国道上を走る日本軍のトラックであった。トラックが頻繁に走っていることは、この海岸平野一帯に大規模な陣地構築がなされていることを物語っている。

 この頃、師団の歩兵部隊は、盛んに蛸壺を掘っていた。蛸壺というのは個人用の塹壕のことである。

 歩兵の場合、戦車戦が近づけば、爆雷を抱いて戦車の下に跳び込まねばならぬ。蛸壺は、それまでの彼らのひそむ巣穴なのだ。

 これは死ぬことを前提とした捨て身の戦法であるが、こうでもしなければ歩兵の場合、戦う方法はない。一旦、戦端が開かれれば、恐らく、この海岸平野の至る所に、爆雷に吹き跳ばされた兵の死骸が散乱することになるだろう。

 この頃の或る日、中隊長の吉岡中尉が、陣地に巡回に来たが、その時 「タマを撃ちつくしたら、腹を切れ」

と言った。

 この「腹を切れ」というひと言は、この日から五十年以上も経過した今になっても、ありありと記憶に残っている。それは、この「牛蒡(ゴボウ)剣」で、どうやったら腹がきれるのだろう、などと、あの日、本気で考えていたからだ。

 旧日本軍では、将校は、腰に長剣を帯びていたが、一般兵士や下級の下士官は短剣を帯びていた。これは牛蒡のような色で、突撃の時に小銃の先に装着して銃剣にし、敵を突き刺すのである。

 所が、これは全然物が切れないように出来ている。これでは到底腹など切れないのである。もちろん鉛筆も削れないし、果物の皮もむけない。剣の先端は一応とがってはいるのだが、槍の穂先のように鋭利ではないから、軍服の上から相手を突いても、余ほど強くでも突かないかぎり、刺し殺すことなど到底できぬシロモノなのである。

 これで腹を切ることなど到底できないはずだ、と思い、また一つ難題が加わった、と思った。そして鋭利な日本刀を下げた将校達は、苦しまずに楽に死ねていいだろうな、などと羨望していた。

 済南の白馬山の部隊に居た頃、弾薬箱の点検をしたことがあったが、その時、一箱だけ、どういうわけか中がカラであったことを、この時、中隊長の顔を見ながら思い出していた。中隊には四十発の砲弾があった。しかし実際は三十九発ということになる。一台の砲が三十九発の弾を撃ちつくすには四、五分とかからない。とすれば戦端が開かれたと思ったらすぐに腹を切ることになるではないか。これは妙な話だと思いながら中隊長の話をこの日聞いていた。

 だが、いよいよ戦闘となれば、各中隊に十分な弾薬が補給されるであろうから、実際に腹を切るのは、かなり後のことになるのだろうが、ソ連の大型戦車に、恐らく歯は立たないから、忽ちのうちに陣地は踏みつぶされ、腹を切る前に戦車の下敷きになってしまうだろう。

 この日は、誰もが緊張で言葉少なになっていた。

 それから数日経ってからであったが、大隊本部に急遽全員が集められた。本部は小学校の分教場のような所であったが、平屋建の校舎の前に白布を掛けた机がありそれが朝礼台の上で異様に白く見えていた。

 暫くすると前列の方から湯のみ茶碗が廻って来て、一升瓶を捧げるようにして持った上等兵が、それに酒をついで廻った。

 直立不動で、少し顫(ふる)えながらそれを飲み、「とうとう来るものが来たか」と僕は思った。

 酒杯が一通り回ると部隊長が壇上に立った。同時に号令が掛かり、全員が直立不動の姿勢を取ると、部隊長の訓示が始まったが、それは僕の所までは遠くてよく聞こえなかった。

 陣地に帰ると小隊長の島田見習士官が全員をあつめて話をした。話は、日本が遂に戦争に負けた、という内容であった。

 僕はそれを聞いた当初、何かヘナヘナとなるような気分に包まれた。それは強い緊張が急に解けたこと、信じ難いことが現実に起こったこと、などが、まるで空気が真空を満たすように一度に体内に入りこんで来たためであっただろう。

 だが、敗戦を「無念」と思うような人間としての真っ当な感情は、不思議なほど湧いてこなかった。
 およそ『祖国の敗戦』という歴史的な重大事に際会して、一つの国の国民が当然感じるであろうごく普通の感慨が、なぜ僕には湧いて来なかったのか。あまりにも幼な過ぎたのか、それとも身勝手に過ぎたのか。

 話は全く異なるが、戦後の日本で学生運動が盛んであった頃、およそ運動と、それにかかわるようなあらゆる事柄に無関心な連中が居て、彼らは多少の軽蔑をこめてノンポリと呼ばれていたが、僕の場合、国の大事に際会して、あまりに自己中心的であり過ぎはしなかったか。

 当時の、十九歳の学生だった僕は、軍隊という非人間的な場所に入らねばならぬことが嫌でたまらなかったし、何としても戦争で死にたくなどなかったのだ。敗戦を知って、無念の思いがいっこうに湧いては来なかったのは、そんなこととつながっているのだろう。思ってみれば臆病でもあり、怯懦な弱虫でもあったのだろう。

 だが満州に駐屯した日本軍の中枢「関東軍」司令部の高級軍人達は、いち早く敗戦の情報を知るや、在留邦人を見捨て日本へ逃げ帰っている。

 この例をはじめ、憂国、愛国の仮面をつけた軍人たちのぶざまな、非人間的な素顔を、我々は戦後になって多く知った。彼らもまた同類の臆病者であり、卑怯未練な人間だったのであろう。しかも彼らは国家・国民を守ることを任務とした職業軍人だったのだから言い逃れはできない。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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