連載 ある学徒兵の戦後(9)

             上尾 龍介

2001.5.20 201


 北京の学生寮で同室だった小早川君は大阪の出身だったが、彼は僕と同じ師団の歩兵部隊に入隊していた。

 敗戦を迎えた時の彼の部隊にはどのような混乱があったか、その情況をかねがね知りたいと思っていたが、それをかなり詳しく尋ねることができたのは、京都で開いた同窓会の折りのことであった。

 僕の質問の裏側には島田見習士官のことが深く焼き付いていたのである。

 その日、彼は肉付きのいい色白の顔を向けると、

 「別に混乱らしい混乱もなかったよ」

と、さり気なく言った。

 「切歯扼腕してくやしがる、という人間は居なかったのかい」

と重ねて聞くと、ちょっと宙を見るような眼をしたが、

 「いやあ、居なかったねえ、記憶に残ってへんわ」

と何かを思い出そうとするような口調で言った。そして、

 「ほっとした、いう気分のほうが強かったんちゃうかなあ」

とつけ加えた。

 「あの時の雰囲気ではな、ソ連がいつ上がって来るか分らんいう気分やったやろ。君らもそうやったんちゃうか」

 「そうだったよね、上陸されたらおしまい、という気分は強かったね」

 「だからな、みんなホッとしたんやと思うわ」

と言って、更に次のようなことを付け加えた。

 「俺たちの中隊長はな、こんなこと言うてたんや。『お前ら、幹候なんか受けんほうが得だぞ、幹候受けて将校なんかになってしまえば、いつ帰れるか分からんからな。ただの兵隊なら五年経てば一ぺんは帰れるんだ』とな。そやから俺たちの中隊の初年兵は誰もうけてないんや」

 「幹候」とは幹部候補生の略称である。彼の話によれば、その中隊長は当時珍しかった国立大学出のインテリだったという。

 当時の学制では、中等学校の上に、戦後になって大学と名称が変わった旧制高校や旧制専門学校があり、その上に旧制大学が設けられていた。旧制大学の数は至って少なく、卒業生の資格はマスターであり、今日の修士に該当する。

 当時はまだ国民の教育レベルは一般に低くて、殆どの人達は高等小学校の卒業者であったので、大学出という存在は軍隊の中では稀だったのだ。

 彼の話を聞いて、僕はいくぶんか納得もした。だが、その日、山住君という学友からも同じようなことを聞いていた。

 彼も同じ師団の歩兵部隊に入隊したのだったが、歩兵といっても大隊砲隊が彼の所属する部隊だった。僕は同じ質問を彼にもしてみた。

 同窓会というものは便利なもので、さまざまな角度からの等質の情報を手に入れることができる。戦争の末期になって、同じ師団に、同じ学校から集団で入隊していった、という特殊な経験を持つ僕らは、入隊から部隊の移動、戦闘のための配置、敗戦、捕虜体験、復員など、誰もが、経験の基盤を等しくしているのである。

 山住君の話では、敗戦を知らされた時は、ピンと来なくて混乱したが、やがて少しずつ落ちついてきて、ともかくこれで帰れる。また学校に戻れる。という思いが、湧くように大きくなって来たのを覚えている。というであった。

 彼らの部隊は、咸興から少し奥に入った山の中にあって、毎日、馬の訓練を続けていたという。

 「馬というやつは、運動させないと痩せてしまうからなあ」

といって、彼は苦笑するように笑った。馬には苦労させられた昔のことを思い出したのであろう。大隊砲というのは、正式の名は歩兵砲というのだが、これは、常時、歩兵と一体となって戦闘をおこなう軽火砲で、分解して馬で搬送するため、馬は極めて大事な戦力なのである。

     *   *   *    

 ところで、僕らの所属する部隊が武装解除を受けたのは八月二十三日であった。その場所は本宮という所だったが、今日の詳細な地図でそれを確かめると、そこは咸鏡南道の道庁の所在地である咸興市(当時は市と呼ばず府と呼んだ)と工業都市である興南とのちょうど中間に当たる小さな町である。

 本宮には当時、日本ならば県立にあたる公立の旧制中学があった。その学校は当時としてはかなり立派な鉄筋コンクリートの校舎で、何もない周囲の畑の中に、あたりを圧するように建っていて、それは遠くからでもよく見えたという。

 ここの広い校庭に、砲を引いた僕らの野砲大隊は結集した。そして念入りに磨き上げられた砲車、弾薬車、その他あらゆる銃器弾薬類の一切を、指示された通り整然と並べた。終わると、一片の武器も持たぬ全くの丸腰になってしまった奇妙な日本兵たちは、素直に、整然と隊伍を組んで、そこを引揚げて行ったのだった。

 この時、一般の兵隊たちの目にふれる場所には、ソ連兵の姿は一兵も見当たらなかったし、砲車の類を運んで来て、そこに並べ終わって帰るまでの間、日本兵の間にも何の混乱も異変も生じなかった。両軍の幹部が或いは危惧したかもしれない何がしかの混乱が聊(いささ)かも生じなかったのは、ソ連兵の姿がただの一人もみられなかったことと、全く無関係ではないだろう。このことは、厳しい独ソ戦を戦って来た彼らの、経験を踏まえた知恵であったのかも知れない。

 あとで聞いた所によると、小早川君の部隊では、古兵を中心に、手榴弾を隠しもった兵隊がかなり居て、兵隊たちの間では、少なからず不穏な空気が流れていたというが、結局何も起こらずにその場は済んだということであった。彼の話では、ここでも、一人のソ連兵の姿も見当たらなかったという。

 僕らが軍馬に砲を引かせて集まって来た本宮の中学校での武器引渡しは、平穏な、整然としたものであったが、この朝、隊長が訓示の中で述べた言葉が、僕の記憶の中に今もおぼろに残っている。

 本日は我々の武器をソ連軍に渡すのであるから、充分に手入れを行い、「よく手入れされた兵器である。さすがは大日本帝国陸軍だ」とソ連側が感心するような物にして引渡さねばならぬ。決してあなどられるようにことをして、恥をのこしてはならぬ。

 というような意味のことであった。兵隊たちは素直にそれを守って、古兵たちの注意を受けながら、黙々と磨き上げていった。

     *   *   *

 こんなことを記憶しているのはどうしてだろうか、と、ふと思うことがある。

 僕の現在の勤め先にM先生という年配の教授が居られ、親しくしていただいて居るが、この人は終戦当時、この興南の町に住んで居られて、僕らが武装解除を受けた本宮の中学の二年生であったという。この奇縁には驚いたが、お話によると本宮という所は、咸興と興南との中間にあって、咸興から本宮までは汽車で約二十分、本宮から興南までも約二十分ぐらいの所で、プラットフォームも一つしかないこの淋しい駅が、両方の町から通学してくる中学生たちの乗降の駅であったというが、或る時、校庭にずらりと並べられた武器と、その前で丸腰の日本将校がソ連の将校と何やら話しているのを遠くから見たことがあった。ということであった。


 遮る物のない畑の中の学校は、どこからでも見通しで、この光景は少年だった私の心を不安にした。とM先生は語った。

     *   *   *

 武装解除は、八月二十三日であったが、先にも書いたように、これより十日前にソ連軍はすでに清津に上陸している。清津はウラジヴォストックから眼と鼻の先にある北朝鮮の要港であるが、この港が攻撃される五日前、ソ連政府は日本に対し宣戦布告をおこない、翌、八月九日午前零時、突如攻撃を開始している。この侵入ソ連軍との間で、日本軍国境守備隊の激しい抵抗が開始されている。

 ソ満国境には巨大な四一糎(センチメートル)榴弾砲を備えた地下要塞が、地下道で陣地から陣地を貫いて連鎖的に築かれ、それらはソ連領ブラゴヴェシチェンスクと黒龍江をはさんで鼻先を突き合わせて向かい合う「黒河」の一帯と、ウラジヴォストックやイマンに近い「綏芬河」「虎頭」の一帯に集中して築かれていた。宣戦布告と同時に、はたせるかなこの両地区に対して、巨大な戦車を先頭にしたソ連軍の激しい攻撃が始まったのであった。

 この戦闘の開始によって、追われた一般在留邦人の群は続々と南下を始め、その人々は鮮満国境を越えて、朝鮮域内になだれるように避難して来ている。彼らは、壮年男子を徴兵された後の、老人と女、子供だけの集団であったという。

 M先生の話によれば、終戦になる少し前頃から、殆ど毎日、北からの避難民が、着のみ着のままの状態で咸興に入って来ており、その人々は学校の武道館や、空いた部屋のある日本人の民家を頼って、避難生活に入ったという。

 手許の資料によれば、朝鮮に近いソ満国境、東寧の重砲兵連隊長が、終戦の二日後、八月十七日、朝鮮北部に至って自決している。

 同じ十七日には、咸興守備軍の師団長秋山義中将が自決。

 朝鮮の北部は、当時このような悲劇的な混乱の渦中にあった。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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