連載 ある学徒兵の戦後(10)

             上尾 龍介

2001.6.20 202


 戦史を確かめなければ正確にはわからぬことだが、東寧の重砲兵連隊長が八月十七日、即ち終戦の翌々日に朝鮮北部で自決していることの背景には、ウラジヴォストクに近い東部国境一帯の混乱が想像される。

 朝鮮と満州の国境線の東端、ソ連領まで約二十キロの地点に五家子要塞がある。ここから東寧要塞までは北へ約百キロであるが、この一帯を固める東寧の守備軍は、一九四四年に南方戦線に抽出されるまでは総兵力二十万人に達していたと言われる(『ソ満国境・関東軍要塞はいま』かもがわブックレット)。

 抽出された兵員の不足は在満州日本人の根こそぎ動員で穴埋めされたために、八月九日のソ連軍の侵入後、老幼婦女子のみの集団移動、集団自決などの悲劇を生むこととなった(前掲書による)。

 この時、前述のように、東寧要塞内の守備隊の一部は八月二十六日まで抵抗したが、要塞外を守る重砲兵連隊、戦車団、騎兵旅団、歩兵師団などは、全滅するまで戦うか、或いは満州領内の後方か朝鮮国境を越えて、南下・退却するかの道しかない。東寧の重砲兵連隊長の朝鮮領内での自決は、戦闘の困難を物語っており、八月十五日の終戦以前から、北朝鮮領内で連日のように見られたという避難民の南下は、弾雨の中を逃げ惑った民衆の悲惨を物語っている。しかし、八月十三日にはソ連軍は清津一帯に上陸しているから、朝鮮領内に退却したとしても日本軍は背腹に敵を受けることになり、進退きわまる。重砲兵連隊はこの例であろうか。避難民の群の場合は逃げ場を失って更に新たな犠牲者を出すことになったと想像される。

 このような中で生き残った難民の群が、武装解除された我々日本兵の周辺に、悲惨な姿を見せていたのだったが、この人々は、やはり日本の兵隊サン達を頼りにしている様子で、僕達が収容されていた学校の周辺には多くの難民の姿があった。

 八月の二十八日、部隊は咸興を出て興南に移動した。興南は咸興から汽車で約四十分の海岸にある工場地帯であり、港があった。この工場地帯の中核をなしているのは朝鮮窒素肥料株式会社の興南工場で、この近くには銅、銀、金、などの精練所もあった。

 各部隊はここに再結集し、工場の寮や社宅群や、その近辺の学校などを宿泊地と定めた。

 我々はここに九月二十三日まで一カ月近くも滞在することになったのだが、その間、上部からの達示が各隊ごとに伝えられていた。それは

  遠からず日本船が到着し、集団で部隊ごとに帰国する。現地除隊はおこなわない。

というような内容のことであった。今日から見れば、この達示の内容は極めて重要な意味を持つのだが、当時は誰一人として、それに気付く者はなかった。

 朝鮮出身の兵士が除隊してそれぞれの故郷に帰って行ったのはこの頃のことであったが、僕たちの小隊には該当者はなかった。

 軍隊用の木綿の靴下や手袋や下着類などが兵隊たち各人に配られたのは、この頃のことであったように記憶する。

 「個人的に帰ることは許さぬ」、という意味のことが、一度ならず再三伝えられたが、それは、恐らく、朝鮮内に自宅のある者がかなりの数存在したことが考えられるし、また朝鮮籍の兵士と親しくしていた日本籍の兵士が、「一緒に自分の故郷に来ないか」と誘われたような例などが散見されたからか、とも考えられる。これらを許可すれば、すでに軍隊でなくなった集団が、集団としての統制を失いかねないと上部が考えたとしても、それは当然のことであっただろう。

 後日耳にしたことであるが、この頃、かなりの脱走兵が出はじめていたらしい。

 僕自身のことを言えば、両親や弟妹が平壌に住んでいるのだから、脱走して平壌へ行こうという思いが相当に強かったのだが、「集団で帰国し除隊するのが最も安全であるから、個人的な脱出はするな」という意味の達示が再三にわたって下ろされてくるので、結局は「脱走」という思い切った方法をと取り得なかったというのが、あの当時の僕の心境であった。

 今になって思えば、あの時、「集団でシベリヤへ送り込まれる」という計画がわかっていれば、無論、即刻逃亡したに違いないのだが、まだ人を疑うことを知らぬ従順な兵士だった僕には、上部の指示に従わぬことなど、およそ許すべからざる規律違反だという思いが相当強く自分を支配していて、結局、脱走・逃亡という行動を思いとどまったのだった。

 それでも心にはかなりの動揺が往来して、家族の誰かの幻影が僕を捉え、それらが深い郷愁をともなって胸中を去来してやまなかった。

 後年、シベリヤから生還して日常の生活にもどった頃、家族から聞かされた戦後の平壌の状況では、僕が逃亡して無事家族のもとまで帰りついたとしても、ソ連軍の追及の手が執拗に伸びて、結局は拉致され、シベリヤ送りになった可能性が高かったであろうということを知った。

 両親や弟の話では、或る晩、人が戸を叩くので出てみると闇の中に二人の日本兵が立っていて、かくまってほしいと訴えるので、急いで戸を開き迎え入れたというのである。この二人は、満州の通化から脱走して来て、漸くここまでたどり着いたのだということで、一夜の宿を求めて戸口に立ったのであるらしかった。

 とりあえず二人をかくまって、ソ連兵の眼にふれぬ地下室に住んでもらい、以後、昼夜となく家族で見張ったらしいのである。聞く所では一人は岡山県の人で、一人は広島県の人であった。

 この二人の兵隊は、何か月かを我が家の一員として過ごした後、次第に厳しさを増すソ連軍の若者狩りの眼から逃れて、或る晩ひそかにいとまを告げ、南の方角へ去って行ったという。

 我が家で軍服を脱ぎ、民間人の姿になった二人は、昼間は山に隠れ、夜を待って、山道から山道をたどりながら南下して行ったということであった。

 戦後二年ばかり経って、我が家は漸く集団で引揚げることができたが、その後、先方と連絡を取り合って互いの無事を確認して、喜び合うことができたのだった。岡山県の人は郷里の寺を継いで住職となり、何度か岡山市の我が家を訪れて来られたとも聞いた。

 その頃、父親は岡山支社に赴任することを命ぜられ、一家は揃って父の新しい任地に移って来ていたのであった。

 このような事情を戦後になってはじめて知った僕は、これでは、興南を脱出して無事平壌の我が家に行き着いたとしても、その後の、日本人の集団引揚げまでの二年間を、ソ連軍の追及の眼を逃れて、地下室に隠れおおせたか否か甚だ疑問だと思った。

 興南から平壌までの距離は、大雑把に計って約二四〇粁(キロメートル)ほどであるが、鉄道線路伝いに歩いたとしても、狼林山脈を越えての一人だけの逃避行は、様々な困難を伴ったに違いない。まして、シベリヤへの拉致を目的としたソ連官憲の追及の眼から逃れることは、それ以上に困難なことであったに違いない。その頃までの僕の意識の中には、シベリヤへの連行など夢にも想像できぬことであったから、ソ連軍による若者狩りという、思いも寄らぬ伏兵的な行動に対しては、甚だ無防備であったに違いなく、難儀な一人旅の途中で、突然拉致された可能性は相当高かったと思わねばならぬ。

 いずれにしても、僕としては、シベリヤの土を踏まずに帰ることは、あの当時の状況下では不可能に近かったと今では思っている。

 ただ、シベリヤ抑留と言っても、行った地方によっては農作業であったり都市近郊の作業であったりして、どこでも極寒の地獄のような山林伐採だったわけではないから、落命の危険度は必ずしも同じではなかったかも知れないとも思ってはいるのだが。

 しかし、シベリヤではどこへ行ってもシラミが附き物であったから、発疹チフスにかからぬという保証はどこにもなかったし、炭坑に行ったとすれば、栄養失調で動きの鈍くなった体に、落盤の危険が容赦なく待ってもいた。

 要するにシベリヤでの生死は、運不運によって二分された、と言うべきかも知れない。

 だが僕は生きて帰った。生きて帰った今となっては、部隊から逃亡するでもなく、集団で人並みにシベリヤへ送られて行ったことは、僕にとっての幸運であったと思うほかはない。

 所で興南の収容所の話に戻らねばならぬが、当時、兵隊たちは、誰一人として自分達が現在暮らしているこの場所が自分達の「収容所」である、なたどと思ってはいなかった。ここは、日本に帰る船が到着するまでの、仮の兵舎だと、そのように誰もが思っていたし、自分達が、すでに「ソ連の捕虜」になっていようなどとは、誰一人として思ってもいなかったに違いない。

 ここに当分の間滞在して、やがて迎えの船で日本に帰るのだ。と、興南に滞在する数万の旧日本軍の将兵達を、微塵の疑いも抱かせないまでに信じ込ませていたのだとすれば、ソ連の詐計の巧みさ、詐謀の深さにはただただ驚くばかりである。それと同時に、簡単に敵の詐術にはまって、数万の命を落とさせた日本軍指導部の罪の重さは計り知れない。

 しかしそこには、巷間ひそかに語られているように、日ソ間のどこかで、捕虜の取扱いにかかわる秘密の取引きが交わされていたのかどうか。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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