連載 ある学徒兵の戦後(12)

             上尾 龍介

2001.9.20 205


 興南港での大量の荷物の積み込み作業は五日間ばかり続いた。

 僕たちの部隊は、トラックで運ばれて来た食糧を貨車に積み込むのが仕事であったが、別の隊の者の記憶では、大量の米やメンタイなどを船に積み込んだということだった。「メンタイ」というのは、「すけそうだら」の朝鮮名と辞書にある。
 積み込み作業が終わると乗船することになったが、兵隊たちは日本へ帰るとばかり思って、聊かの疑念もないので、意気揚々と船に乗り込んだ。もち論、僕も同様であった。

 船には、かなりの数のソ連兵が、自動小銃を持って乗り込んでいたが、日本兵たちは誰もみな陽気で、ソ連兵とトラブルを起こす者など見当たらなかったが、ソ連兵達は、何か不審な者でも探し出そうとしているのか、甲板に積み込まれた大量の積荷を、覆いの上から足でつついてみたり、銃でつつついてみたりしていた。

 もしかすると彼らは、日本兵が、どこかに兵器でも隠しているのではないかと疑っていたのかも知れないし、そのようなことを、上部からの命令として受けていたのかも知れない。

 だが、もっと勘ぐれば、日本兵の奴らが何か好い品物を持ち込んで、それを覆いの下にかくしてはいないか、と、彼らは思ったのかも知れない。

 ソ連兵から腕時計を巻き上げられた日本の兵隊は、興南の収容所に居た頃、すでに何人も居たし、時計を珍しがって、二つも三つも腕にはめては喜んでいるソ連の兵隊を何人も見ていたので、それに類する物漁りであったかも知れない。

 当時のソ連では、よほど物が欠乏していたと見えて、進駐してきた兵隊たちは、日本の民間人や兵隊の持ち物を珍しがり、しきりと欲しがった。殊に時計を珍しがって、中にはネジを巻き過ぎて、巻き切ってしまったり、ひどいのは、足にまで時計をくっ着けて喜んでいるような者まで居た。

 これには、幾つかの理由があっただろうが、軍需物資の生産に全力を入れて、民需の物品の生産が遅れていたのではないか、ということ。それと、ソ連兵の粗野な無教養さにあったのではないか、ということなどが考えられる。

 また、原因はわからないが、後日知り得た所では、掛け算の九九を知っている兵隊は殆ど居なかったし、文字さえ知らぬ者も相当数居た。

 これは日本人から見れば驚くべきことだが、広大にして寒冷な国土を持つ国では、辺地に行けば人口の密度も極めて希薄であろうから、そのような所に学校を建て教員を配置するなど、経済上不可能に近いのかも知れない。

 ともあれ、そのようなソ連兵の無法な行為には、もち論、腹も立てたが、三、四人に取り囲まれて巻き上げられれば、抵抗するのは困難であった。僕の場合、その頃時計など持ってはいなかったので、巻き上げられる心配など、さらさらなかったのだが。

 学生の頃使っていた時計は、叔父に貰った言わば形見のような物だったが、それは、山東省白馬山の野砲隊に入隊してひと月も経つか経たぬ頃に、内務班で紛失していたのだった。すぐに班長の高山伍長に届け出たのだったが、無論、出てくるはずもなかった。

 兵隊の居住室である内務班という所は、物盗り専門の若い男達の巣窟のような場所でもあったので、班長に届け出たりするような、まるで幼稚園の子供のようなことをしても、何の意味もなかったのだが、入隊したばかりの僕は、そんなことさえ、まるで知らない子供のように無防備な兵隊だったのだ。

 僕の大事な時計は、かねてから、恐らくは狙っていたであろう古兵あたりに盗み取られて、いずれ、済南の街の「慰安所」にでも消えてしまったのに違いない。

 などと、遠い日々のことを、思うともなく思い出していた。

 このような至って平穏な航海が続いていたのだったが、次の日が明けて甲板に出てみた僕は「これはおかしいぞ」と胸が騒いだ。

 それは興南の港を出て以来、ずっと船の左舷に見えていた朝鮮の赤土の山が、相変わらず左舷に見えているのである。

 だがそう思ったのは僕だけではなかった。何人もの兵隊が同じことを言いだしたのである。船が日本に行くのであれば、日本海を渡らねばならない。それなら当然、右舷にも左舷にも陸など見えてはいけないはずではないか、というのである。

 甲板に居る兵隊たちはざわめいたが、

 「いや、そのうち進路を変えるよ。小樽か函館に着けるつもりだぜ、きっと」
という声もあったりして、僕は、なる程そんなこともあるんだなと自分を納得させてもいた。

 船上では「干しメンタイ」が配られたので、それを囓りながら兵隊たちは、あちらこちらに輪になって座り、談笑した。

 これで、いよいよ日本に帰れるのだ、という思いが、兵隊たちの心を軽くしていたようだ。

 だが、興南を出て三日ほども船上で過ごした後も、やっぱり左舷には陸が続いていて切れることがなかった。

 四日めの朝になった。昨日あたりからようやく赤土の山が切れて、遙か遠くに平坦な陸地が見えていたのが、いつか、その陸地の方向へ向けて、船は進路を変えたようであった。刷いたような淡い陸地の色が少しずつ鮮明になり、島か岬のようなものが見えはじめると、それは徐々に近づいて来た。船はどうやら港へ入っていくのではないかと思われた。

 「おい、あれ、あの船、軍艦じゃないか」

と誰かが声を上げると、兵隊たちはどっとそちらへ動いた。たしかにそれは軍艦であった。引き締まった黒い船体は、みるみる近くなり、やがて遠ざかったが、遙かな前方に少しずつ建物などが見分けられるようになった頃、どこからか、
 ・・・・・・ウラージヴォストーック・・・・・・という声が、風に乗って、甲板まで流れるように響いて来た。

 その声は拡声器を通した、幾らか焦点のぼけたような幅のある声であった。

 兵隊たちは「おお、ウラジオか」などと前方に眼を凝らしたが、船は方向を変えてしばらく進み、やがて碇を下ろした。

 どうやらその場所は、港の中心部から少しはずれた所のようで、前方に見える陸地には街の建物らしいものはなかった。

 その日僕は色々と思いをめぐらした。この船の中で一泊か二泊して、水や燃料を積み込んだ後、日本へ向かうのだろう、というのが、その時の僕の結論であった。

 陸の方から迎えの船が来て、兵隊たちが乗り込んだのは九月の二十七日であった。興南の「朝鮮窒素」の岸壁から乗船して四日めのことであった。

 小型の船は、草地の中の小さな船着場に横着けになった。あたりは漁船らしい小型船の姿などの見える閑散とした所だった。

 背嚢を背負い、ゲートルをしっかり巻いた軍装で、兵隊たちは上陸した。この時、兵隊たちが何を考えていたか、今となってはそれは知る由もないが、上陸していった相当数の兵たちが、再び背後の広がる海を渡り、日本の土を踏むことはなかったのだ。

 僕は新しい国の土地を歩きながら、きっとここで何日かの休養の時間を取って、またあの船に乗って日本へ帰るのに違いないと、自分に言い聞かせるように反芻しながら、見知らぬ国の冷え冷えとする風の中を歩いていた。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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