論壇 グローバル・ファシズムとテロリズムの衝突
       −「同時多発テロ」事件が炙り出したもの−

                           纐纈 厚

2001.10.20 206


 ワシントンでの報復戦争反対デモ 

 事件の背景について、私は少し角度を変えて論じておくべき課題があるように思う。それは、テロ事件に対するに「戦争発動」を条件反射的に決定するアメリカやイギリスの「国家文化」の危うさが炙り出されたことだ。「報復」の名による軍事発動の決定過程において、ミリタリズム(軍事主義)、あるいはファシズム(全体主義)が、文字通り、グローバルな形態を伴って全面化している実態である。

 いま、私たちが目の前にしている政治現象は、圧倒的な軍事力の連合体を形成して、従来にも増して世界的レベルで抑圧システムを強化しようとするグローバル・ファシズムの展開と、これに対抗する絶望的なテロリズムとの衝突である。

 ここで言うグローバル・ミリタリズムあるいはグローバル・ファシズムとは何か、について簡約しておこう。
 資本主義社会における階級秩序に本来的に内在し、階級社会という本質が解体され、階級なき社会が実現するまで存在し続けるものがミリタリズムだとしたカール・リープクネヒトの『軍国主義論』(一九○六年刊)や、ローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』(一九一三年刊)など古典的な著作を想起する。

 なかでも『資本蓄積論』では、ミリタリズムが資本主義の拡大と発展のため、後進地域で様々な収奪を強行するものであるとした。また、ミリタリズム研究の第一人者とされるフォルカー・べルクハーンは、『軍国主義―国際的論争の歴史―』(一九八一年刊)で、ミリタリズムは剰余価値の実現の卓越した手段として機能し、軍需産業が剰余価値の生産と資本蓄積のために徹底的に活用されると説いた。

 ミリタリズムは、資本主義に内在する本質的な特性であり、ミリタリズムが資本主義の主要な一側面であるとの指摘は重要である。ルクセンブルクは、そのミリタリズムの本質を資本主義的ミリタリズムという概念で説明しているのである。

 ここで整理しておきたいことは、ミリタリズムを、単に戦前期におけるドイツや日本の固有の政治システムを示す用語としてのみ捉え、狭義の意味に矮小化する間違いが横行している事実である。それは第一次世界大戦開始直前期から、グローバルな展開過程のなかで、ドイツや日本に限定されることなく、資本主義国家において本質的要素として内在化された問題として存在していたのである。

 グローバリゼーションなる用語は多義的である。これを資本主義の高度化・世界化にともなう資本主義による一元的支配と従属関係の構築という点に特化して捉えておくならば、第一次世界大戦直前期からの総力戦段階に適合的な資本主義の展開のなかで、ミリタリズムのグローバルな拡大が常態化し、構造化する世界史の段階に入っていたのではないか、と思うのである。 

●ミリタリズムとの抱合

 テロ事件への対応ぶりで特に顕著だったのは、アメリカの条件反射的な軍事行動の決定と行使であった。冷戦体制終焉後の関与と拡大を基調とするアメリカの軍事戦略は、当然ながら軍事行動を所与の前提として成立するが、それはまた軍事プレゼンスに絶対的価値を求めるミリタリズムの精神を充満させたものであった。その点では湾岸戦争から今回の報復戦争に一貫するミリタリズムへの無条件の受容と言う以上に、アメリカの国家と社会が、既にミリタリズムとの抱合関係の段階にある、というのが実態であろう。

 もうひとつ特徴的ことは、アメリカがミリタリズムとの抱合関係をイギリス、ドイツ、そして、日本に強要する姿勢を全く隠そうとしていないことだ。その実態をグローバル・ミリタリズムと呼びたい。私はそのことを今回の報復戦争にロシアや中国をも含めて拡散しようとするアメリカやイギリスの姿勢より、グローバル・ミリタリズムから、さらにはグローバル・ファシズムへの質的な転換が結果されていると見ている。

 ミリタリズムが一つの価値体系や社会的価値として軍事が特化された社会や思想を示す用語だとすれば、グローバリゼーションの現状を表現するに、ミリタリズムより広範な概念や思想として、資本主義・民主主義・自由主義を基調とする政治システム全体への異議申し立てを行い、新たな政治システムの構築を指向する概念としてのファシズムの用語の適用が妥当のように思われてくる。

 現代のミリタリズムやファシズムは、既存の資本主義に基本的修正を施し、資本主義社会の再構築を図るために民衆の主体性なり自発性を可能な限り削いだうえで、メディアを媒介としたプロバガンダによる大衆操作を徹底化する。自由主義にしても、特別に限定された利益を共有可能な組織・集団にとっての「自由」であって、普遍的かつ合理的なそれではない。

 戦争政策を積極的に採用するミリタリズムの思想や行動は、ファシズムのイデオロギー特色でもあるが、ファシズムはミリタリズムを基本原理に掲げながら、同時的に自由・平等・共存を拒否し、統制・競争・覇権を究極の目標とする限り、必然的に戦争政策の採用を躊躇しない。問題は、現在ここでラフに定義したファシズムを、アメリカとイギリスは、共同してグローバルに展開しようとしていることである。既にグローバル・ミリタリズムという軍事主義の世界化というレベルを超えて、グローバル・ファシズムという全体主義の世界化、という事態に私たちが直面しているということである。

●ファシズムとデモクラシー

 ここでもう一点だけ繰り返し注意を喚起しておきたいことは、現代のデモクラシー(民主主義)と戦争の相互関係である。

 取り敢えず、諸個人の自由・平等・自律を基本原理とする思想をデモクラシーとし、それが尊重され、保証される社会をデモクラシー社会と定義するならば、デモクラシーと戦争は共存不可能ということになる。

 かつて、ルイス・スミスが『軍事力と民主主義』(一九五四年刊)において、ミリタリズムは個人を権威主義的に統制・動員することを指向するものであって、個人の自由や自治を基本原理とするデモクラシーとは相容れないと指摘したが、その一方で、私たちは総力戦段階に取り分け特徴的だが、大量の兵士を戦場に動員するために、デモクラシーによって市民の兵士化が押し進められた歴史を知っている。つまり、デモクラシーは大量の個人の戦争への動員を前提として展開してきたのであり、そのようなデモクラシーを軍事民主主義(デモクラティック・ミリタリズム)と呼ぶ。

 デモクラティック・ミリタリズムとは、上からの強制されたデモクラシーであって、自発的かつ自治的なデモクラシーとは異質のものである。ところが、現在、私たちがデモクラシーとして捉えているのは、実はこのデモクラティック・ミリタリズムそのものと、考えざるを得ない。アメリカやイギリスに象徴されるデモクラシーは、ミリタリズムないしファシズムに寄りかかって、初めて成立する内実をともなったイデオロギーとして、その抑圧性を世界化しているのである。それゆえに、デモクラシー擁護のための戦争という選択が極めて安直に導き出され、ソマリアへの「人道派兵」や、国際法的にも全く不合理なアフガニスタンへの「報復」のための戦争が、強行されるのである。

 私たちに求められているのは、テロリズム発生の歴史的かつ政治的原因を深く追究することと併行して、テロリズム撲滅の大義名分を得て、一段と拍車がかかるグローバル・ファシズムの展開を阻む論理と思想を逞しくしていくことであろう。


こうけつ あつし/山口大学教員

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