これは「非常事態」ではない
   −米同時多発テロとアフガン空爆−

                毛利 嘉孝

2001.10.20 206


 「非常事態」が常態となったパレスチナの人びと 

 この原稿を書いている間に、アメリカのアフガニスタン空爆が始まった。これが印刷され、発行されるまでにさらにいろいろなことが起こり、この原稿で書かれたことのなにもかもが、時宜を逸した、的はずれになっているかもしれない。この「戦争」についてだれもがおしゃべりになっている。ありとあらゆる情報が溢れており、もはや付け加えることはないのかもしれない。

 しかし、それでも今までのところで起こりつつあることを一定のリスクを犯してでも論じておこうと思う。ここまで最悪のシナリオでストーリーが進んでいる。たしかに次になにが起こるのか予測できない。だが、現在目の前で起こりつつあることを「予測できないこと」の連鎖としてのみ理解して、いたずらにパニックに陥るべきではない。何が実際に起きつつあるのか冷静にみてみよう。

 今回の空爆のきっかけとなったアメリカ同時多発テロ以来、「非常事態」が宣告されている。ブッシュはこの事態を「戦争」と名づけた。もちろんこれはその語が本来持っているいかなる意味でも「戦争」ではない。西谷修が『世界』の最新号で正しく指摘しているように、起こったのは犯罪的テロであり、アメリカはそのテロに対して単に「報復」しようとしているにすぎない。テロにはテロをという論理である。そもそも、あのあまりにも映像的なWTCビルへの飛行機による突入も、アメリカがパレスチナや南アメリカやその他世界中で行なってきた直接・間接的なテロに対する報復ではなかったか。むろんこう言ったところで、飛行機の突入テロを正当化しようとしているわけではない。

 テロリズムは決して正当化されえない。しかし正当化されたテロが「戦争」と名づけられる。アメリカはアフガニスタンで誰かと闘っているわけではない。一方的に空爆をしているだけである。今後の「戦争」はアメリカ側にできるだけ死者をださないように細心の注意が払われるだろう。

 今回なによりも驚かされたのは、事態に対する各国の異常にすばやい対応である。かつてない早さで、アメリカ同時多発テロに対する国際的な合意が形成された。日本もまた、圧倒的な人気を背景にした小泉首相の強力なリーダーシップの下で「戦争」に対してできる限りの協力を行なうことを約束した。

 こうした意志決定過程に見ることができるのは、グローバルなレベルでの警察的権力の急速な拡大である。警察的権力とは何か? かつて二十世紀の初頭、ファシズムに抗しつづけたドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは『暴力批判論』という著書の中で警察的権力について議論している。ベンヤミンによれば、この警察的権力は、単に法を破ったものを事後的に取り締まるのではなく、自ら法を措定し、法の介在しないところに、「安全」のため、介在していくような権力である。ベンヤミンが考えた警察は、もちろん国家の中に存在するある行政的な権力であるが、二一世紀を迎え、そうした権力が今ではグローバルな規模で浸透しつつある。

 「戦争」というレトリックは、この二一世紀の警察的権力を最大限動員するためのマジック・ワードである。「戦争」という言葉によって各国の軍事力が世界の秩序を守る「警察」として再編される。軍事力が国家間で行使されるのに対し、もともと警察力は国家内で機能する。しかし、このグローバルな警察力の再編と、軍事力と警察力の融合は新しい事態を生みだしている。軍事力の行使では、国内法や国際法が権力の濫用の制限として用いられたのに対し、グローバルな警察力は、「非常事態」を宣告しつつ、法を超越し、恣意的に法を措定しながら、自己増殖していくのだ。

 日本の自衛隊派遣の決定にかんしても、まさにこうした警察的権力が動員されている。これまでさんざん行なわれてきた憲法議論などほとんどないままに、非常事態宣言の下で、自衛隊がグローバルな警察権力の一部として動員される。自衛隊の派遣の前に改憲を主張する小沢一郎が(皮肉なことに!)今ではまともに見えるほど、法は蹂躙されている。

 こうした新しい警察的権力のあり方を支えているのが、また同様にグローバル化したメディアである。同時多発テロ以降、テレビや新聞は大きな時間を割いて、この事態を報道している。

 もちろん報道は一方的にアメリカ的イデオロギーを称揚しているわけではない。報道ではアフガニスタンの人々の貧困や窮状、イスラム教徒の多様さもまた取り上げられている。しかし、反対意見はメディアの中立・公正さを証明するアリバイとして用いられているにすぎない。ワイドショーのおしゃべり。ニュースのコメント。空爆賛成派と反対派が並んで議論をし、視聴者は何やら議論がなされているような幻想をもたされつつ、その議論は番組の時間内で終了する。

 民主主義のシミュラクル(幻影)が、本来ありえるかもしれない能動的な民主主義を代替し、「ブッシュ支持九〇%以上」などという調査結果が独り歩きして、擬似的な合意が形成される。もっともその合意とやらは番組の前からテレビ局によって先取りされているのだが。メディアはいわば結論が先にある議論を演出しているだけなのである。

 メディアを通じて演出された合意が、警察的権力の法に対する凌駕を可能にしている。国民が支持している限り、何をやっても構わないというわけだ。しかし、その支持の調査の根拠が問われることは決してない。なんと言っても「非常事態」なのだから迅速さが要求されるというわけだ。

 しかし、これは本当に「非常事態」なのだろうか? アメリカにとっては、たしかに「非常事態」かもしれない。このかつてない惨劇は、歴史上他国からの戦火にまみれたことのないアメリカのトラウマとして記憶されつづけるだろう。しかし、アフガニスタンの人たちにとっては、パレスチナの人たちにとっては、どうだったのだろうか。彼らはもう何十年も「非常事態」を常態として生きてきたのではなかったのか。

 ここでまたベンヤミンを引こう。「抑圧された者たちの伝統は、私たちが生きている<非常事態>が実は通常の状態だと私たちに教えている。この教えに適った歴史の概念を、私たちは、手に入れなければいけない」(歴史の概念について)。

 今「非常事態」という概念は抑圧する側の者たちによって独占され、濫用されている。むしろ現在の非常事態を日常として生きてきた人がいる想像力を私たちはもたなければならない。冷静になろう。


もうり よしたか/九州大学 教員

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