連載 ある学徒兵の戦後(13)

             上尾 龍介

2001.11.20 207


 朝鮮北部の興南港を出たこの船は、水や燃料を積み込んだ後、日本へ回航するものとばかり思い込んでいた兵隊たちの予想に反して、全員がシベリヤの一角に上陸させられてしまったのだったが、街の郊外とおぼしき野の道を進む隊列の中にあって、あれやこれやと、僕は考えをめぐらしていた。

 恐らくここで数日間の休養をとってその間に船の整備などをおこない整い次第乗船となるのに違いない。ここにどれくらい居るのだろうなどと、そんなことを思っていたのだ。

 この時の僕には、すでに自分達がソ連軍の捕虜になっている、などという認識は全くなかったのである。

 捕虜などというものは、戦闘に破れた時、生き残った敗残兵が「白旗を掲げ」「敵に捕らえられて」「連行される」、という『手順?』を踏んだ後にはじめて生じる甚だ恰好わるい、ぶざまな、一種の『身分?』のようなもの、だとばかり思い込んでいるので、現在の自分が、まさか、その『捕虜』というものになってしまっている、などと思い至るまでには、このあと、多少の時間が必要であった。大部分の兵隊達も似たような気分であったに違いない。

 そんなわけだったから、兵隊たちには何の悲壮感もなかった。

 これまで僕の所属する部隊は、中国山東省の白馬山麓の兵舎から長途の列車輸送で朝鮮北部の富坪という村に送られ、そこに砲兵陣地を築き敗勢で武装解除を受けた後には咸興に移動して、定められた宿泊場所に入り、そこから更に興南に移動する。

 といった具合に、部隊の全員が常に一団となって、この六カ月ほどの間、移動を重ねて来ていたので、移動というものが半ば日常化して、今度の場合も、以前と同じような、軍隊という集団の、単なる移動であるような、そのような認識を、多くの兵隊たちは持っていたに違いない。

 しかし、今回の移動は、少し様子が違っていた。

 咸興や興南の宿泊の場所は、学校だったり工場の寮のような所だったりして、臨時の場所という感じだったが、今度はそうではなかった。

 僕達が入った所は、いかにも集団の居住の目的で造られた宿舎という感じの建物であって、どこにも急拵えの気配はなかった。それはまさに兵舎の感じであった。

 深い暗緑色に塗られた木の窓枠は、寒気を防ぐためか二重窓になっていて、ここが寒冷の地であることを改めて感じさせた。暗い緑に塗られた窓の並ぶ建物は、風景をいっそう寒々としたものにしていたし、ここが異なった文化の国であることを、僕たち日本人に語りかけてもいた。

 その日分配された昼食は黒い色をしたパンであった。それは、今まで食べたことのない変わった味のする酢っぱいパンであった。

 これが話に聞いたことのあるロシヤの黒パンというものか、と僕は食べながら思った。それは決してまずい物ではなかったが、食べ慣れぬ異国の味であった。

 その日の午後、することもない兵隊たちは舎内に横になったり、ぶらぶらと外を歩いたりした。僕は宿舎の裏の小高い岡に登ってみた。枯れ草のまばらな、さして広くもない岡は、裏の方へと更に続いていて、雑木の疎林になっていた。

 このウラジヴォストクの辺りには何日か前に雨でも降ったのか、足元の草は少し濡れていて、柔らかい黒土は僅かに水を含んで湿っていた。

 ふと見ると、枯れ草の間に、まるでひと所にかたまるようにして、紫蘇の葉がひっそりと繁った場所があった。おや、という思いで葉を取った僕はしげしげと眺めた。こんな所にまで紫蘇が生えるのだろうか、という軽い驚きが、その時、心の中に揺れたのだが、指先から拡がってくる匂いは、まぎれもない日本の紫蘇の香りであった。

 この時、ふと、頭を走り抜けるように一つの思いがよぎった。

 それは、もしかすると、このまま帰れないのかも知れない。という凍るような思いであった。

 その思いは白い閃光のように、瞬時に脳を貫き、次第に全身に拡がっていったのだが、やがてそれは、僕の胸のあたりを、暗い霧のようになって重く漂いはじめた。

 紫蘇の葉を持ったまま、どれくらい突っ立っていたのか、呼びかける声に気がついてふり返ると、同じ班の兵隊であった。彼はけげんそうな顔でこちらを見ると

 「このパン腐ってねえか?」

と不審げな眼で言うのである。そして昼食のパンをまずそうに上衣の物入れからつまみ出すのであった。

 「それ、ロシヤ人たちのパンじゃないのかい」

と註釈をつけたが

 「そうかもしれねえが、こいつ腐っているぞ」
と言うと

 「お前食うか」

と言って僕にくれた。

 そんなことなどがあって、三日もすると仕事が始まるようになった。仕事が始まると、それまでとは打って変わったように、宿舎の外へいや、収容所の外へ出ることは禁止された。

 収容所は二重の鉄条網で囲まれていたのだが、作業に出発する時と帰着した時には、必ず門内に整列して点呼があった。ソ連の兵士達は、僕等の収容所のことをラーゲルとは呼ばずカザールマと呼んでいたが、それは、この建物が以前はソ連軍の兵舎であったことを物語っている。

 僕たちは、その日から、毎日そこを出て作業場に向かうようになった。それは恐らく十月一日という月の始めを期して開始された作業であったかと推定される。

 手許に保存している「軍暦証明書」の記録は

 『九月二十七日ウラジオストック 港上陸』

となっているが、この公的な記録と、上陸して『カザールマ』に入ってから後の、時間的経過のおぼろな記憶とが、手のひらを合わせるように一致することを、この原稿を書きながら、僕は改めて気付いた。

 収容されたカザールマは、ウラジヴォストクの市街地から少し離れた所にあって、どうやら港湾の一角に近いようであった。

 与えられた作業は、港湾の仕事であったり、街に近い場所での道路改修であったりした。

 毎朝、作業に出発する時は、営内の門に近い所に整列して点呼があったが、整列の隊型は、何と、五列縦隊であった。日本では、学校の「体操」の時間でも「教練」の時間でも、二列横隊に並ぶか、四列縦隊に並ぶかのどちらかだったし、それは軍隊に入っても同様だったので、「五列縦隊」というのには奇妙な感じを受けた。そして、この縦隊を横隊に変える時にはどうするのだろう、と思った。日本でやっているような四列縦隊の場合ならば、「右向け右」の号令で、偶数のものが、一歩斜め前に踏み出しさえすれば済むのに。などと余計なことを考えたりした。

 だが、五列に並ばせるわけはすぐにわかった。それはどうやら人数を数える方便であったらしいのだ。

 朝の出発の時と、夕方の帰営の点呼の時には、きまって体格のいい曹長が前に出てきて数を調べた。人数は揃っているか、逃亡者はいないか、という点検である。

 ルパシカ風の軍服の肩に、幅の広いモールの階級章を、赤い膏薬のように着けているのが曹長の軍服であるが、彼は縦隊になった日本兵の先頭に立つと、いつも右側の列の者の肩を一人一人、前から順に軽く叩くようにして人員を数えるのである。

 「ペアーチ、ジェーシチ、ペトナーッツァチ・・・・・・」

とリズムをとって数えてゆくその声が、ゆったりした美しいバスであったことと、その眼が灰色に澄んでいたことを、今僕は空気の匂いとともに思い出している。

 それにしても、彼は前から順に、 「五、十、十五・・・・・・」

と数えているのだ。どうして彼は掛け算をやらないのだろうか、と僕はいつも不審に思った。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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