命令と処分が横行する広島の学校現場

                    黒川 冨秋

2001.11.20 207−2001.12.20 208 


 教育破壊がすすむ広島の高校 


 少し前のことだ。「今度の参議院選挙では、小泉さんを応援しますよ」という保護者の怒りに満ちた声が、学校に掛かって来た電話の受話器の向こうから聞こえてくる。「県は生徒の声と会社の言い分とどちらを信用するのですかね。会社は金額を書き換えていますよ」「私らの会社でも、社長は労働基準局へ労働時間について嘘の報告していたんですよ。今の政治は私ら働くものの立場を考えていませんよ」。

 学校に提出して貰う証明書の件で生徒が書いた書類と会社が証明した内容とに食い違いがあり、保護者と連携を取ったときのことだった。問わず語りに保護者の声は続く。「会社の社長もそうだが、行政もでたらめですね。先生はどう思われます?」という声に充分答える余裕もないままに、提出期限が迫っていますのでよろしく、また聞かせて下さい、また話しましょうといいながら電話を切った。

 私は、「小泉内閣の支持率九〇パーセント」という世論調査の結果を思い浮かべながら聞いていた。公然と憲法改正を掲げる首相とそれを支える人達。自民党に対する怒りとあきらめが、小泉内閣への期待となっている。参議院選挙の結果はマスコミの予想通りだった(投票率は予想に反し低かったが)。その結果の厳しさと、広島の教育と教組への攻撃の厳しさとが重なり合う。

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 辰野裕一広島県教育長は六月、「文部省(現文部科学省)是正指導同報告書」なる本文三三ページの文書を作成配布して三年間の「成果と課題」(教育破壊と組織弾圧)を誇り、七月七日、常磐豊新教育長に引き継いだ。辰野前教育長は「組合との着任交渉はするな」という引継文句を残し、それを承けて新教育長は「前任辰野教育長の政策を評価し、これを踏襲し、更に厳格に実施する」等として、辰野かいらい政権の姿勢を取ることを隠そうとしていない。

 常磐豊新教育長は、文部省高等教育局大学改革推進室長等を経て着任したものだが、その室長時代には、一九九八年一〇月に大学審議会答申の審議にかかわった。この答申は一九九七年一二月の行政改革会議の最終報告の路線をそのまま大学に適用するものだとの批判がある。辰野教育行政の大罪を引き継ぐということは、一言でいえば大学の学問の自由と自治を踏みにじる施策と並んで、教育の各段階、地方の隅々にまで文部省の黒い手を伸ばすことに加担することなる。

 辰野教育行政の未だ起訴されていない犯罪は、単に始めは辰野個人の性癖や資質によるとの印象を受けたが、そうではなく、権力総体の腐敗によるものではないかと思えてくる。それにしても、辰野前教育長ほど前人未踏の犯罪を数々重ねてきた人物はいない。

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 良心と「命令」との間で苦しむ世羅高校・石川校長を自死に追い込む。止むを得ず休学する生徒を放校・退学させる。行き場の無い生徒を平和公園の片隅に追いやり、或いは少年院に送り込み、そこを満員にさせる。定時制・分校を潰す。クラブ活動中の生徒の事故の責任は取らない(民事で係争中)。家庭訪問費は支出しない。埋蔵文化財調査センターの不正の責任を部下に押しつける。良心的な校長を早期退職に追い込む。「日の丸掲揚台」代と称して、各県立学校に、一〇〇万〜二〇〇万円の公金を流す(九月に住民が提訴)。上には弱く、下には強い。もっとも、これらのことは他県では既にやってきたことだ、今までの広島県が正常でなかっただけだとうそぶく校長を「サムライ」だと賞賛し、「文部大臣奨励賞」を具申する。入学・卒業式の「君が代・日の丸」強制は「福岡県方式」、組織破壊では「栃木県方式」、広域人事での「長崎県方式」、勤評の「愛媛県方式」、定時制潰しは「鹿児島県方式」等など、よくもまあ前例に不足はないとばかりに、文部省の意に沿わないところはないのですよ言わんばかりに。

 是非は別として、命令と処分による職場支配は否応無く職場を重いものにする。教育労働者の分断と孤立化は進む。

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 教科書不使用などを理由に一九七〇年に懲戒解雇された伝習館高校(福岡県柳川市)の三人の教員(社会科)の救援活動に関わった白鳥紀一さんは、教育現場での操作主義(世界は思ったようになる、指一つで世界を動かすことができるという主観主義)の弊害を指摘している。この事件自体は、残念ながら必ずしも日教組全体の取り組みとはならなかった。文部省−教育委員会の方針を学校現場にストレートな形で持ち込むことによる現場の荒廃を白鳥さんは憂慮している(白鳥紀一「”離れ”たのは理科からでしょうか」より)。福岡県方式の一例として、一九七四年の伝習館救援会全国集会で倉田令二郎さんは、処分取消訴訟で福岡教委の代理人が教科書使用について、「順序通りに、授業中いつも、何ページの何行をやっているが生徒一人一人に明示されていなければならず、その条件を満たさないプリントや板書や資料の使用は違法」と述べたと紹介しているとのこと。このこともあり、教育と行政との区別と関わり、命令と指導について法令集を開いてみた。

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 日本国憲法第九九条(憲法尊重擁護の義務)天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。憲法を守らない教育長が、職権を濫用して地公法第三二条(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)、第三三条(信用失墜行為の禁止)だとして処分を下す(一九九九年一二月二八日一三一二名に対する戒告処分)。

 辰野教育行政の特徴の一つは命令の乱発にある(時には、この指導は命令だと思ってきたいといういいまわしで。あるいは、命令は校長や校長会が発したのだという言い方もしながら)。命令は教育になじまないということは、命令と名がつけば不可能なことは無く何をしても良いという日本軍の行為への反省に立って、多くの人の共通認識となっているにもかかわらず、である。

 一九四二年の国民学校令は第一六条で「学校長ハ地方長官ノ命ヲ承ケ校務ヲ掌理シ所属職員ヲ監督ス」、同じく一七条は「訓導ハ学校長ノ命ヲ承ケ児童ノ教育ヲ掌ル」とし「決戦教育」を貫徹しようとした。教育活動と称して「軍事教練」の為に学校に配置された軍人は、例えば陸軍刑法第一条(反乱の罪)党を結び兵器を執り反乱(三年以上又は死刑)同三条(辱職の罪)哨兵故なく守地を離れたとき(敵前は死刑)同四条(抗命の罪)上官の命令に反抗無服従(敵前死刑又は一〇年以上同六条(侮辱の罪)上官をその面前で侮辱(五年以下)で縛られていた。

 このことへの反省から生まれた憲法と教育基本法の下で、一九四七年制定の学校教育法第二八条は、校長も教諭も同じ職として第六項では「校長ノ命ヲ承ケ」を削除し「教諭は、児童の教育をつかさどる」と規定した。「校長は校務をつかさどり、所属職員を監督する。」となった。校長と教諭との関係は上下関係・服従関係と見る見方は否定されている。校長とその他の教職員との関係は、児童生徒を中心に据えた学校の中で協業を互いに担うものとして位置づけられてきた。校長が授業等を担うときは、教諭を兼務する形で教育を分掌しいる。また教育に資する校務とするために、教員は校務分掌として校長の仕事の一部を分担してきている(事務職や現業職との関係では事務分掌を教員が一部を担うのが実態)。

 高校の教育課程は教科、特別活動及び総合的な学習の時間の二領域からできあがっている(小学校、中学校では道徳がこれにつけ加わる)。学校教育法四三条(二〇条三八も)は、高校の教育課程の領域中、文部科学大臣の権限の及ぶのは「学科と教科」の領域のみと規定している。「特別活動」の領域(入学式などの学校行事を含む)には学習指導要領の学習指導の法的拘束力はない(広島県府中市の中学校校長に対する、「君が代」不実施を口実にした処分は、学習指導要領違反を理由としている。法律でも、条例でもない学習指導要領自体での、違反を理由にした処分は全国でも始めてではないかといわれている。一方で、県立A高校の世界史未履修問題での校長・元校長に対する一〇月一二日の教育委員会の対処は、学校教育法第四三条に抵触するにも拘らず、公平さを欠いたものだった)。

 従って総合的学習の時間も卒業に必要な単位ではないが、多くの学校では、卒業に必要なものとして規定している。特別活動も卒業に必要なものではないが、校内規定で卒業要件としている学校もある。しかし、文部科学省(大臣)の権限の及ばないはずのこの特別活動を教科と同列に並べて「法的拘束力あり」と不当な拡大解釈をしている。そのやり方としては、国会審議を経ていない省令である学校教育法施行規則第五七条の二(小学校は第二五条、中学校は第五四条の二)で、「高等学校の教育課程については、・・・・高等学校学習指導要領によるものとする」と勝手に規定しているのである。

 地方分権も何のそので文部科学省の行政指導の下、各県教育委員会も、追随しているのであるが(『技術と人間』二〇〇一年四・五月号、水野厚男「教育関連六法案で学校はどうなるか」より)。

 学校教育法で、特別活動の領域には文部科学省の権限が及ばないとなっているのは、戦前・戦中の文部省が学校行事−−とりわけ儀式的行事−−を重視し、その行事の中で「君が代」「御真影」「教育勅語」をとおして子ども達に国家主義思想を注入し、戦場に駆り立てた反省の上に立っているからといわれている。広島の教育労働者達がこのような「儀式教育」や「決戦教育」に、戦後「平和教育」を対置した所以でもある。

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 軍都広島の成立は一八九四年三月の日清戦争にある。九月一五日、明治天皇は大本営とともに広島に移住、一〇月五日、広島市・宇品港周辺地区に臨戦地境宣言・戒厳令が出された。一〇月一五日には広島にて臨時帝国議会召集、伊藤総理の戦争経過報告後、国の年間予算を超える軍事予算を満場一致で可決。ここは戦場であるという「臨戦地境宣言」は軍都広島の呼称の起点となった。

 全国小学校の儀式教育は、日清戦争一年前の一八九三年八月一二日、文部省告示第三号官報で強制・実行された。「教育勅語」「日の丸」「君が代」の三点セットで儀式が組まれた。一月一日四方拝(しほうはい)を始め、年何回かの儀式に加え広島では日清戦争に際しての天皇来広の九月一五日を記念した儀式、天皇離広の四月二七日を記念した儀式があった。年何回かの厳格な儀式教育が、小学校六年間継続して実施されることにより、軍国主義の精神構造が完成させられたことは否定しがたい(空辰夫「広島師範に学ぶ」より)。

 二〇〇一年一月二一日、文部省は学校教育法施行規則第二三条を改悪し同二項に「職員会議は、校長が主宰する」をつけ加えた。これに続いて広島県県教委は四月一日、広島県立高等学校管理規則に第一六条の二として「校長は、校務運営上必要と認めるときは、校長の職務の円滑な執行を補助させるため、職員会議を置くことができる」を挿入させた。これに先立ち三月一三日には主任・主事に関わり校務の分掌として「教務主任・学年主任・生徒指導主事・進路指導主事」の「職務内容」について、「連絡調整及び指導、助言」の文言を規定した。

 学校管理規則は、一九五〇年代の勤評攻撃の際に各県で教育委員会規則として制定されたが、各県教組の闘いによって施行をさせない、規定を作らせない等の取り組みをしてきた。あるときは国家公務員である文部省の役人の制定した学校教育法施行規則を地方公務員に適用してことを進めながら、またあるときは教育委員会規則である広島県高等学校管理規則を制定しないとことが進められないと言う二枚舌。広島県高等学校管理規則になんらの規定の無い教頭職と新しく規定した「補助」機関である職員会議との関係をますます曖昧にさせながら。京都や沖縄では一九八〇年代まで規則そのものが無かったり、広島などの場合のように主任の「職務内容」についての明文規定を置かない等の形骸化を進めてきた所があるなど、地域間の濃淡がかなりあった。広島県では「主任等の命免は、教育委員会の承認を得て校長が行い」として、東京都での教育委員会による辞令交付の方式などとは多少の相違はあるが、今回の攻撃で文部科学省はほぼ全国一律の規則制定を一応完成させたことになる。

 ともあれ広島県では主任制実働化と職員会議の補助機関化の攻撃の中で、組織率を十数パーセント低下させるなどの教組破壊を行い、彼らの当面の目標を達成した。

 命令で物事を進めようとする姿勢からでてくる今一つの傾向は、教育と行政との混同である。立法(国会)が行政(政府)に優先するのは憲法の規定である。国会の定めた教育基本法は行政の教育介入を禁じている。

 一九九七年の行政改革会議の中から国立大学の「独立行政法人化」の提案が出てきた。このことについて有馬朗人参議院議員(元文部大臣)は教育と行政との区別について、二〇〇〇年三月二五日のあるシンポジウムで次のように述べている。「大学の役割は文化の継承ですから、単純な市場原理になじみません。だから私は、(独立行政法人の)通則法は大学の理想像に反していると考えています。大体名前から『行政』を外したいんです。国立大学法人とか」と述べ、「教育は行政だと考えるからか」との質問に対しては、「行政とだけ考えては教育研究は駄目だといった」と答えている。
 国のレベルでは、一応の見解を持ってはいるのだ(有馬朗人「独立行政法人化の目指すもの」より)。

 しかし、国会で法律を通してしまえば、いくら付帯決議をつけていても、人権は侵さないとの政府答弁を得ても、地方や現場にいけば、憲法や教育基本法を無視して権力は何をしても良いという風潮で臨むことを示してきたのが、辰野行政である。

 この事による打撃は深いものがある(教育は行政だとの考えは、校長の要件から、教員であることを外して、三名の元マツダ社員を小中高の校長に採用し、事務長を校長に採用する姿勢に端的に現れている。行政は立法に従うべきことが、教育は行政にに従うことにすり替えられている)。

 ここまで書いてくれば、広島の教育と教育労働者の運動に未来はないかのようである。反撃の芽はどこにあるか。改憲阻止のうねりをどこから作り出すかが議論されなければならない。われわれの側の総括が必要だ。奪われた権利は奪い返すしかない。奪われ、疎外された労働を、労働者の手に取り戻すしかない。諦めるほどには、充分に闘っていないのだから。地域の職場の民主主義が再度構築されなければならない。確かにこの間の一連の流れは、団結が溶解され、権利が奪われるだけだったかのように見える。総評解体と連合成立にともなう日教組の分裂、社会党解体という護憲勢力の敗北。一九三〇年代レーニンのソヴェト運動が官僚制に置き換えられ、グラムシの工場評議会運動がムソリーニにより踏みにじられたように。われわれの間隙をついた形の辰野クーデター。

 「わり算や引き算の論理でなく・・・」「一歩後退、二歩前進・・・」。

 総括と学習、交流と協働が、様々なレベルで求められている。


くろかわ とみあき/広島県立海田高校教員

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