アフガニスタン
−歴史や民族からみて−

            余部 福三

2001.12.20 208−2002.3.20 211 


 アフガニスダン地図


 アフガニスタンの成り立ち

 パシュトゥーン人の氏族連合としてのアフガニスタン(アフガーニスターン)という枠組みが成立するのは、イラン皇帝ナーディル・シャーの死後、ジルガ(氏族民会議)においてアフマド・シャーが指導者として選出された一七四七年のことである。この氏族連合はアフマド・シャーの軍事指導下で、インド西北部のパンジャーブ、カシュミールや、イラン北東部のホラーサーン地方などに執拗に侵攻を繰り返した結果、パシュトゥーン人の居住地域を大きく上回る国家を建国した。

 アフガニスタンが現在の国境になるのは、一九世紀末のことに過ぎず、イギリスによって、一八九三年、パシュトゥーン人の居住地域を中央部で分断する形で、デュアランド・ライン(現在のアフガニスタン・パキスタン国境)が設定され、一八九六年、ロシア領中央アジアとイギリス領インドが国境を接することを避けるために、細長いワッハーン回廊が与えられた時である。

 したがって、アフガニスタンという国の枠組みはきわめて新しく、歴史的には、アフガニスタンという一つのまとまった地域は存在しなかったといえる。

 アフガニスタンは、北東部バダフシャーン地方から中央部にかけて走る、きわめて峻険なヒンドゥークシュ山脈によって国土が二分される。ソ連が一九六四年に、サーラン峠の下、高度三三六三xの地点にトンネルを開通させるまでは、カーブルからバルフ(バクトリア)地方に入るには、アレクサンドロス大王や玄奘(三蔵法師)も通った北東部のハーワク峠か、バーミヤーン経由で北西方のシパル峠に大きく迂回しなければならなかった。むしろ、カーブルからガズニ、カンダハール経由で、南西部スィースターン地方、北西部ヘラート地方に出る砂漠路の方が、はるかに容易であった。

 したがって、アフガニスタンは、ヒンドゥークシュ山脈を除くと、カーブル、カンダハールを中心とした東南部と、ヘルマンド川、ファラーフ川などが潤し、ハームーン湖に注ぐ南西部のスィースターン(ニームルーズ)地方、ハリー川が潤す北西部のヘラート地方、そして北部バクトリア地方に大別できる。

 うち、ヘラート地方とスィースターン地方は歴史的にも、地理的にも、狭義のイラン文化圏(しばしば政治圏でもあった)に属し、カーブル・カンダハール地方はインド文化圏、あるいはむしろ、インダス流域のシンド、パンジャーブ、カシュミールや、グジャラート、ラジャスタン(インド共和国北西部)とともにインド文化圏とイラン文化圏の境界地域であった。バクトリアは広義にはイラン文化圏であるが、その中でもウズベキスタン、タジキスタンとともに中央アジア文化圏に属し、東西交通を通じて、仏教などインド文化の影響も強かった。歴史的には、タジキスタンとウズベキスタンの南部もバクトリア地方の一部であった。バクトリアはアフガニスタンとウズベキスタンのブハーラ・アミール国との係争地域であり、両者の妥協の産物としてアム(オクソス)川が一応の勢力範囲の境界とされ、一八八六年、ロシアとイギリスによって国境とされた。

 エスニック諸集団

 このような事情から、アフガニスタンでは、南東部を中心に居住する征服者パシュトゥーン人が人口の約四〇%を占めるにすぎず、そのほかに、バダフシャーン地方にタジク人、ヘラート地方とスィースターン地方にファールスィー人(ペルシア人)、バクトリア地方にウズベク人、トルクメニスタンとの国境付近にトルクメン人、ヒンドゥークシュ山脈の東部ハザーラジャート地方にハザーラ人、その西部ゴール地方にアイマク(チャハール)人などが存在する。パシュトゥーン人は一八世紀以後、スィースターン北部のファラーフ、スィンダンドやバクトリア地方にも移住し、分布を複雑なものにしている。

 以上が七大エスニック集団(民族意識に乏しく、民族とはいえない)であるが、このほかに、マイノリティ集団が少なくない。

 都市部では、イランのサファヴィー朝(一五〇一〜一七二二年)、ナーディル・シャー(一七二九〜一七四七年)の支配時代に、官僚、軍人として各地に駐在していたキズィルバーシュ人(サファヴィー朝を建国したアゼルバイジャンのトルコ系トルクメン人)の子孫が官僚、専門職従事者として残っている。

 元来、アフガーン人という呼称はイラン人がパシュトゥーン人(インドではパターン人ともいう)を指して呼ぶ他称であったが、現在ではアフガニスタン人全般を指すことが多くなっている。また、パシュトゥーン人がパキスタン側にも同じほど居住するし、タジク人、ファールスィー人、ウズベク人、トルクメン人の場合は、同族の主流はアフガニスタンの外に独立国家を形成している。

 以上のエスニック集団の中で、パシュトゥーン人が話すパシュト語はイラン系であるが、ペルシア語とは大きく異なる。タジク人、ファールスィー人、ハザーラ人、アイマク人、キズィルバーシュ人はいずれもペルシア語(ダリー語)やその方言を話すが、ハザーラ人のペルシア語はモンゴル語の単語を含み、アイマク人のペルシア語は、トルコ系の単語が著しく多い。また、ウズベク語とトルクメン語は中央アジアのトルコ系言語である。

 人種的には、パシュトゥーン人、タジク人、ファールスィー人、キズィルバーシュ人は長頭・長身、高く狭い鼻を特徴とするいわゆる白人であり、その中でも黒髪で皮膚が浅黒い地中海人種に属する。クナール地方(ジャラーラバード北方)の険しい山岳地域に住むヌーリスターン人は、北欧系の容貌に近く、金髪が三割を占め、独自の印欧系言語を話す。これに対し、ハザーラ人、アイマク人、ウズベク人、トルクメン人は一三〜一五世紀に移住してきたトルコ人、モンゴル人とイラン系先住民とが混血したものである。うちハザーラ人とトルクメン人は先住民との混血の度合いがもっとも小さく、日本人と同様な容貌をもつ者が多い。

 これらのエスニック諸集団のうち、太古から居住する土着民と考えられるのはタジク人、ファールスィー人、ヌーリスターン人ぐらいで、かれらの先祖、遊牧民のアーリア人は紀元前一五〇〇年頃に北方の中央アジアの草原から移住してきた(アーリア人の主流はさらにインドやイランに進む)。パシュトゥーン人も含め、他集団は比較的新しい時代に外部からアフガニスタンに移住してきた人々であり、先住民はこれらの人々に吸収されてしまった。

 ここに、ユーラシア大陸の十字路として、諸集団が侵攻・移住を繰り返したアフガニスタンの特徴が顕著にあらわれている。

 イスラーム諸派

 アフガニスタンのエスニック諸集団は大都市で商業、貿易、金貸しを営む少数のインド人系ヒンドゥー教徒やシーク教徒、古くからのユダヤ教徒を除いて、すべてムスリム(イスラーム教徒)である。

 イスラームの中でも、シーア派のサファヴィー朝以前にイラン北東部ホラーサーン地方からイスラームが伝わったため、スンナ派(バグダードのアッパース朝カリフを正統とし、多様な法解釈を相互に承認しあって結集した人々)の中でもっとも合理主義、自由主義的な法解釈を行うハナフィー法学派が一般的で、パシュトゥーン人、タジク人、ウズベク人、トルクメン人、アイマク人がこれに属する。人跡未踏の山岳地域に住むヌーリスターン人は、十九世紀末のアフガニスタン国家統一運動の中で原始的多神教からハナフィー派に改宗した。一方、ヘラート地方のファールスィー人はサファヴィー朝支配下でイランの人々と同様、シーア派(アッパース朝を容認せず、預言者ムハンマドの娘ファーティマの子孫からカリフを選ぶべきとし、独自の法解釈を構築)の中の十二イマーム派になった。サファヴィー朝を支えたキズィルバーシュ人は、当然、はじめから十二イマーム派である。ハザーラ人も大多数が十二イマーム派である。シーア派の一派イスマーイール派(エジプトのファーティマ朝カリフを正統とし、独自のコーラン解釈、神学を構築したが、法解釈はスンナ派諸派に近い)は、ハザーラ人とタジク人の一部を信徒として獲得した。

 都市民と氏族民

 アフガニスタンの人々は大きく分けると、都市民及びその都市に食料などを供給する近郊の農民と、まだ都市(国家)をつくっていない山岳民・遊牧民に分けられる。アフガニスタンの都市の多くは、ヘラート、バルフ(十九世紀以降は預言者ムハンマドのいとこにあたる四代カリフ、アリーの墓があるという近郊のマザーリ・シャリーフに中心が移る)クンドゥズ、バーミヤーン、カーブル(日本語=カブール)、ガズニ、カンダハール、ブスト、ザランジュ、ファラーフなど、世界史に盛名をはせる歴史都市であり、多くの文化遺産を残す。したがって、都市の古くからの住民と近郊農民は都市に対する帰属意識が強い。ファールスィー人とウズベク人は主に都市民または近郊農民であり、キズィルバーシュ人は都市民と考えてよい。

 一方、パシュトゥーン人、タジク人、ハザーラ人、アイマク人、トルクメン人、ヌーリスターン人は主に山岳民や遊牧民である。山岳民は山岳部に集落を築いて農業や牧畜を行い、遊牧民はヒンドゥークシュ山脈周辺の草原とヒンドゥークシュ山脈の山麓とを季節的に移動する。遊牧民はパシュトゥーン人にとくに多く、パキスタン側で夏季を過ごす者も多かったが、一九六一年に越境が禁止されたあと、ヒンドゥークシュ山脈山麓に向かうようになった。山岳民も山の高低の差を利用して、季節によって家畜を上下に移動する移牧を行うが、農業との比重は地域や集団によって非常に異なる。集落の形態や家・テントの素材、形状も多様である。かれらは国家を形成するかわりに、小規模な氏族(祖先が共通すると信じ、内部では殺人や強姦を禁じる)または山や谷への帰属意識が強い。このような小さい単位で日常、闘争しあい、離合集散を繰り返す。社会は民主的で、氏族指導者の権力は弱く、裁判や重要事は氏族民会議で運営されることが多い。さらに、優秀な人物が強力な指導者に成長することを防ぐ装置を内含する。

 このような山岳民、遊牧民が人口の多数を占めることがアフガニスタンの大きな特色である。十九世紀以来、遊牧民の定着化が非常に進んだ。内戦以前はヘルマンド川とカーブル川の大規模な灌漑工事が行われ、ソ連やイランで行われたのと同様な遊牧民の強制的定着が試みられた。

 氏族民の結集と国家建設

 氏族は、近い先祖を共通にする小規模なものから、遠い先祖を共通にすると信じる大規模なもの(部族と呼ぶ場合もある)まで、階層的に重なり合い、伸び縮み自在なものである。一般的には、干ばつ・飢饉の危機に際して、あるいは強力な敵が形成された場合に遠い祖先を共通にする大集団に結集する。または、その逆に、近隣の都市が混乱に陥り、征服のチャンスが到来したとき、カリスマ的指導者(多くは宗教指導者)の下に結集し、氏族の壁を乗り越えた大集団を形成し、多くの都市を征服して大規模な国家を建国する。

 このようなことは、アラブ帝国、ファーティマ朝(アルジェリア・カビーリヤ山地のクターマ族)、ムラービト朝(サハラ砂漠西部のサンハージャ族)、ムハッヒド国家(モロッコ・アトラス山脈のマスムーダ族)、ブワイフ族(イラン・エルブルズ山脈のダイラム人)、ゴール王国(ヒンドゥークシュ山脈のゴール人)、オスマン帝国(小アジア西北部のトルクメン)、サファヴィー朝(アゼルバイジャンのトルクメン)など、各地で頻繁に繰り返されてきたことである。中国と対峙したモンゴル高原の遊牧諸氏族もしばしば大きく結集して中国に侵攻した。パシュトゥーン人がアフマド・シャーを擁立して結集したのも、インドのムガール帝国とイランが解体の危機にある時であったし、ターリバーンが教師ムハンマド・オマルの指導下に結集したのもソ連軍を追放したムジャーヒディーンが匪賊化し、都市が無秩序になった時である。

 文明の十字路

 カンダハール付近のムンディガクに、インダス文明の影響が強い都市遺跡が発見されている。一方、バクトリアやヘラート地方は中央アジアの農耕文化の影響が強かった。

 イラン西部から興ったアケメネス朝ペルシャ帝国(紀元前五三八〜三三一年)は、エジプトからインダス川に及ぶ大帝国を樹立し、現在のアフガニスタンの北部、西部にバクトリア、アーリア(ヘラート地方)、ドランギアナ(スィースターン)の三つの属州を置いたほか、南東部からインダス川にかけて、アラコシア(カンダハール、クェッタ地方)、サッタギュディア(ガズニ地方)、ガンダーラ(カーブル、ペシャワール地方)の三つの属州を設けた。これらの属州は支配の拠点として少なくとも一つの都市を含んでいたが、都市から離れた山岳民はその支配の外にあった。

 マケドニア軍とギリシアの諸ポリスを率いて、アケメネス朝を打倒したアレクサンドロス大王は、アーリア、ドランギアナ、アラコシカ、カーブルと進み、ハーワク峠からヒンドゥークシュ山脈を越えて、激しく抵抗するバクトリアの山岳民を従属させた。その後、大王はガンダーラに戻ってインドに侵攻した。大王の死後(紀元前三二三年)、これらの属州は大王の友人・マケドニア人貴族セレウコス(シリア王国)に編入された。

 重要なことは、大王またはセレウコスによって、多くのマケドニア人、ギリシア人が諸属州の中心都市(バルフ、ヘラート、ファラーフ、カンダハール、ガズニ)に定着し、ギリシア文化を伝えたことである。とくにバクトリアには多くのギリシア人が入植し、紀元前三世紀半ばには、セレウコス朝に反抗してバクトリア王国を建国した。クンドゥズ北東のアイ・ハヌムにギリシア都市の遺跡が発見されている。同じころ、ガンダーラ、アラコシアはインド北部を統一したマウリア朝帝国の支配下に入った。その証拠にカンダハール付近でアショカ王のギリシア語とアラム語の三つの石碑文が発見されている。ただ、マウリア朝が衰退した紀元前二〇〇年頃、バクトリアのギリシア人の一部はヒンドゥークシュ山脈を越えて、ガンダーラ、パンジャーブを征服、ここに移住した。かれらの王が仏教を受容したことは、有名な事実である(仏典『ミリンダ王の問い』)。

 紀元前一五〇年頃には、中央アジアのイラン系遊牧民サカ族が侵攻し、バクトリア王国を滅ぼした。さらに、かれらはスィースターンを征服し、紀元前五〇年頃には西北インドのギリシア人の王国を滅ぼした。この間、中国西北部・甘粛の遊牧民、大月氏がモンゴル高原の遊牧民、匈奴に押されて、バクトリアに移住し、サカ族にとってかわった。その直後、匈奴に対する軍事同盟を大月氏と締結するため、漢の武帝によって張騫(ちょうけん)がバクトリアにまで派遣されたことはよく知られている。

 紀元後一世紀には大月氏の一派(または土着のイラン系)、クシャーナ族がバクトリアからヒンドゥークシュ山脈を越え、ガンダーラ、パンジャーブ、デリー地方を征服する大帝国を樹立した。クシャーナ朝は首都をガンダーラ地方のプルシャープラ(ペシャワール)に置いたが、クンドゥズ南方のスルフ・コタルにも、ギリシア文化と土着バクトリア文化が融合した都市遺跡が残っている。カニシカ王が大乗仏教を支援したこともあって、ガンダーラ地方には、ローマの影響をうけたヘレニズム的な仏教美術が栄えた。アフガニスタンでは、バーミヤーンをはじめ、ハッダ、ベグラム(カピサ)、バルフなどが仏教の中心であった。ただし、仏教は支配層だけの宗教であり、民衆には浸透しなかった。

 クシャーナ朝が衰えた後、中央アジアからイラン系(またはトルコ系)遊牧民エフタル族がバクトリアに侵攻し、ガンダーラ、カンダハールを征服した。さらに六世紀後半には、モンゴル高原西部のトルコ系遊牧民チュルク(突厥、とっけつ)がエフタル族を破り、中央アジアとバクトリアのイラン系都市国家群を従属させた。ただ、その支配は短期であった。

 一方、ヘラート、スィースターン地方は、イランとイラクを統一したパルティア王国、ついでササン朝ペルシヤ帝国(二二六〜六四二年)の支配下に入った。この時代にイランのゾロアスター教が普及しスィースターン地方にその聖地が成立した。ここは遊牧民サカ族やエフタル族と戦うイラン神話の英雄ルスタムの故郷ともされた。イスラームの旗のもと、ササン朝を滅ぼしたアラブは、正統カリフ時代(六三二〜六六一年)にヘラート、スィースターン地方を支配下に収めただけでなく、ウマイヤ朝時代(六六一〜七五〇年)の八世紀初頭にはバルフ地方や中央アジアをも征服した。これに対して、ガズニ地方(ザーブル)、カーブル、バーミヤーンにはエフタル系の諸王国が残り、アラブに頑強な抵抗を続けた。

 このように、アフガニスタンの地は北方の中央アジアから絶えず遊牧民が侵攻し、インドに抜ける一方、西からはペルシア人、ギリシア人、アラブ人の大帝国が飲み込もうとし、南からは、インドの大帝国も進出を狙っていた。マクロ的に見ると、アフガニスタンは、ヘラート地方、スィースターン地方が狭義のイラン文化圏、バクトリア地方が中央アジア文化圏、南東部がインド文化圏であったと言えよう。

 イスラーム文化の開花

 九世紀半ば以降、バルフ地方は、ウズベキスタンとともに、法学、ハディース(預言者の伝承)学や、アリストテレス哲学、数学、天文学、医学の中心地となり、数多くの天才を輩出させた。学術語や官僚の公用語はアラビア語であったが、一〇世紀には民衆は、よりかれらの言語に近いイラン西部のペルシア語を採用し、それとともに、イスラーム(スンナ派の中のハナフィー法学派)に改宗した。タジク人の成立である。

 一方、スィースターンのイスラーム化したイラン系住民は、九世紀末カンダハール地方のエフタル系の王を滅ぼした。一〇世紀末にはガズニの王のもイスラーム教徒となり、一一世紀初頭にはバルフ、ヘラートを占領、インドにも盛んに侵攻した。イスラーム化の波はヒンドゥークシュ山脈にも及び、氏族の壁を乗り越えて結集したゴール人は、一二世紀後半、アフガニスタンを統合しベンガルに至るインド北部を征服した。

 一三世紀前半にはチンギス・ハーン指揮下のモンゴル軍が侵攻し、アフガニスタン・中央アジアの全ての都市を徹底的に破壊、住民を虐殺した。現代の諸都市はその後、付近に再建されたものである。しかしモンゴル人もイスラームに改宗、ヘラートは一五世紀にはモンゴル系ティムール帝国の首都となり、礼拝堂など数多くの文化遺産や、ジャーミーのペルシア語の詩、ビヒザードの細密画などを今に残す。ハザーラ人、アイマク人の先祖がヒンドゥークシュ山脈に入ったのはこの時代であろう。

 南ロシアのキプチャク草原の遊牧民、トルコ系ウズベク人は一六世紀初頭、中央アジアを占領して、ブハーラー・ハーン国を建国し、一部はアム川を越えて、バルフ西方(ジューズジャーン地方)のマイマナ、アンドホーイ、シビルガーン、サリプル、アクチャなどに小ハーン国を建てた。また、一六世紀から一七世紀にかけてインドの大半を統一したムガール帝国が、カーブルを領域に加えたのに対し、イランを統一したサファヴィー朝はヘラート、スィースターン、カンダハールを支配下に収めた。

 パシュトゥーン氏族連合の結成

 パシュトゥーン人はもともと、インダス川の西岸に沿って走るスレイマーン山脈の山岳民であった。かれらの社会規範(パシュトゥーンワリー)は、復讐、異邦人の歓待、庇護を求めた者の保護などであり、近隣の諸氏族とは土地や女性をめぐって常に闘争している。指導者の権力は弱く、重要事項はジルガ(氏族民会議)で決定され、かつては定期的に土地の再配分も行われた。

 パシュトゥーン人は、一四世紀以後、イスラームに改宗するとともに、氏族ごとにインドのイスラーム帝国に傭兵として採用されたほか、アフガニスタン東南部にも進出した。後者の中では、ガズニ・ザーブル地方のギルザイ族とカンダハール地方のアブダーリー族が重要である。サファヴィー朝はギルザイ族に押されたアブダーリー族の一派ポパルザイ族(暫定政府首班カイザルの部族)などをヘラート地方に移住させた。

 一七〇七年、ギルザイ族がサファヴィー朝に反乱を起こし、イランに侵攻した。しかし、ホラーサーン地方のナーディル・シャーが抵抗を続け、ヘラート地方のアブダーリー族の支持を得て、イランを統一し、インドにも侵攻した。この結果、アブダーリー族はカンダハール地方への帰郷を許された。

 一七四七年、ナーディル・シャーの暗殺後、カンダハールで開かれたジルガでポパルザイ族のアフマド・シャー(一七四七〜七三年)が王(シャー)に選出され、パシュトゥーン族の氏族連合が成立した。アフマド・シャーはドゥッリ・ドゥッラーン(真珠の中の真珠)という称号を名のり、アブダーリー族はドゥッラーニー族と改称した。アフマド・シャーはパンジャーブ、カシュミール、デリーにたびたび侵攻し、大規模な略奪を行った。

 しかし、一八世紀末、シーク教徒によってパンジャーブ侵攻が抑えられるようになると、王はカーブルに首都を移し、氏族指導者を排除して、中央集権的に徴税や水の配分を行おうとした。カンダハール地方のドゥッラーニー族の一派バーラクザイ族など、諸氏族は免税特権剥奪、徴税強化に強く抵抗した。王に惨殺されたバーラクザイ族の指導者の弟ドースト・ムハンマド(一八一九〜六三年)は一八一九年、逃亡先のカシュミールから反攻し、カーブルを占領して、王位を奪った。かれは、イスラーム国家としての性格を強調し、アミールルムーミニーン(カリフ)の称号をなのるようになった。

 英露対立と英軍の侵攻

 一八〇七年にティルジットの和約を締結したナポレオンとロシア皇帝アレクサンドル一世はともにインド、イランへの進出を視野に入れていた。

 これに危機感をもったイギリスは、二年後、ペシャーワルにエルフィンストーン(アフガニスタンの歴史・民族・政治について大著を発表)を遣使して、王シャー・シュジャー(一八〇三〜〇九)と友好条約を締結した。しかし、シュジャーは兄弟に王位を奪われ、イギリス領であった東パンジャーブに逃亡し、イギリスの庇護を受けるようになった。

 イランのカージャール朝は、一八一三年にロシアにアゼルバイジャン北部(現在のアゼルバイジャン共和国)とアルメニア東部を奪われ、その穴埋めとして、ロシアの教唆と支援もあって、一六年と三七年にヘラートを攻撃した。三七年には、八カ月に及ぶヘラート包囲の間、イギリスとロシアがともにカーブルに使節を送り、王ドースト・ムハンマドと同盟を結ぼうとした。イギリスの使節が失敗したあと、インド総督オークランド卿はアフガニスタンとロシアとの同盟を恐れ、英軍をアフガニスタンに派遣した。

 当時、西パンジャーブとペシャーワルはシーク教国領であったため、英軍は東パンジャーブのフィールーズプルからインダス川を下り、一八三九年、ボラーン峠からクエッタ経由でカンダハールを占領し、シャー・シュジャーを王位につけたあと、ガズニ、カーブルを占領した。しかし、国内の諸氏族は傀儡政権と英占領軍に対して、各地でいっせいに蜂起した。四〇年一一月、カーブル北方のジャバルッスィラージュで不完全な勝利しか得られなかったドースト・ムハンマドが、イギリスに降伏したにもかかわらず、戦況はイギリスに不利になる一方であった。資金を氏族指導者に与えてパシュトゥーン人の分裂を策した英代表マクナートンも、招かれたジルガの席で暗殺された。

 四二年、英軍は撤退を余儀なくされ、ギルザイ族の攻撃によって、カーブルとジャラーラーバードの間で、イギリス人兵六九〇人、インド人兵(セポイ)三八一〇人をはじめ、妻子、従者を含め、一万六千人を失った。シュジャーも殺され、イギリスから解放されたドースト・ムハンマドがカーブルに帰り、王位に復位した。かれはイギリスから補助金を支給され、イギリスを代表するインド人ムスリムのカーブル常駐を受け入れた。
 ドースト・ムハンマドはマザーリ・シャリーフ、クンドゥズとジューズジャーン諸都市、ヘラートを占領し、現在のアフガニスタンの枠組みがほぼできあがった。かれの子シェール・アリー(一八六三〜七九)は王権強化を進め、ドゥッラーニー族を退け、鉄砲、大砲など西欧式の装備をもった常備軍をギルザイ族などから組織し、その財源として、税収増に成功した。また、道路や橋を改良し、郵便を創始し、ダリー語(ペルシア語)の公報紙を発刊した。

 この間、ロシアは中央アジアを侵略し、六九年、ブハーラーのアミールを服属させ、七六年にはフェルガーナ地方とキルギスのコーカンド・ハーン国を併合し、カーブルにも遣使した。

 イギリスは七三年、シェール・アリーの頭越しにロシアと交渉し、アム川をロシアとアフガニスタンの国境に定め、イランとアフガニスタンとの国境も画定した。

 なおも、ロシアによるアフガニスタン保護国化を警戒したイギリスのディズレーリ首相(在任一八七四〜八〇)とインド総督リットン卿は、七六年クエッタを占領し、シェール・アリーに保護条約(大使常駐、外交権譲渡)の締結を迫り、シェール・アリーがロシアの軍事使節をカーブルに受け入れたのを機に、七八年、英軍を派遣した。すでにシーク教国が併合されていたので、今回は英軍はペシャーワル、クッラム渓谷(トラ・ボラの山の反対側)、クエッタの三方向から侵攻し、カーブル、カンダハールを占領した。

 たちまち、各地で抵抗運動が起こり、初代大使と護衛兵全員がカーブルの砦バラ・ヒサールで殺害され、新たに派遣された英軍もカーブルに包囲された。

 八〇年、イギリスは、シェール・アリーの甥にあたるアブドゥッラフマーン(一八八〇〜一九〇一)を、亡命先のサマルカンドからカーブルに王として迎え入れ、アフガニスタン撤退を決めた。英軍撤退の直前、ヘラートを支配していたシェール・アリーの子が、イギリスに対しジハード(聖戦)を宣言して進軍し、カンダハール西方のマイワンドで英軍を殲滅した。この戦いでイギリス人とインド人の兵九七一人が戦死した。

 しかし、アブドゥッラフマーンは再度カンダハールに進撃したいとこを破り、ヘラートを占領して、アフガニスタンを再統一した。かれはカーブルにイギリスを代表するインド人ムスリムの常駐とその外交指導を受け入れ、イギリスから補助金と武器の供与を受けた。かれはまた九三年デュアランド・ラインを認め、パシュトゥーン人居住地の東半分を割譲せざるを得なかった。こうして、アフガニスタンはイギリスの保護国になった。

 八五年、ロシアがトルクメニスタンを征服する過程で、アフガニスタン領パンジュデを占領したため、イギリスとロシアとの戦争の危機が高まったが、イギリスとアフガニスタンが譲歩して、この方面の国境を画定した。さらに、九六年にはイギリスはパミール高原におけるロシアとの国境を画定し、ワッハーン回廊をアフガニスタンに与えた。

 西欧化の試み

 アブドゥッラフマーンは国内の統一を進め、シーア派のハザーラ族に対しジハードを宣言し、主にギルザイ族の武力を利用して、かれらの激しい抵抗を抑えた。

 クナール地方の山岳民ヌーリスターン人も従えられ、イスラームに改宗した。すでにドゥッラーニー系の諸氏族が、スィースターンやヘルマンド上流の谷に移住していたし、さらに、アブドゥッラフマーンがギルザイ族の一部を北部のタジク人、ウズベク人の居住地に移住させた結果、今日あるような複雑な分布ができあがった。

 かれはまた氏族の居住地域を無視する形で、地方行政区域を設け、総督の実権を強化する一方、中央では官僚制を整え、財務省、商務省、司法省、公共事業省、運輸郵政省、文部省、厚生省と、高官からなる諮問会議を設立した。さらに、王族、氏族指導者、法学者からなるロヤ・ジルガ(大ジルガ)も創始され、その有力メンバーは諮問会議にも参加を求められた。イギリス人、フランス人、インド人の技術者や医者も招かれ、鉱物資源の開発や西欧の機械を導入した工業(製靴、石鹸、ロウソクなど)も始まった。

 かれの子ハビーブッラー(一九〇一〜一九)も道路建設、都市での電気・水道敷設、官僚養成のためのスポーツ重視のイギリス式高校設立を行った。

 また、オスマン帝国に二二年間亡命した経験をもつ民族主義者マフムード・ベグ・タルジィーは、ダリー語の絵入り隔週刊紙『スィラージュルアフバール(情報の灯火)』(一九一一〜九)を発刊した。これは、都市の知識層に民族主義の種をまき、イギリスからの自立へと向かわせた。第一次世界大戦中、ハビーブッラーは親英的な中立を守り、ドイツ・オスマン帝国の使節の同盟要求を拒否したため、民族主義者に暗殺された。

 タルズィーの娘と結婚していたハビーブッラーの子アマーヌッラー(一九一九〜二九)は、軍と民族主義者の支持を得て即位すると、ただちにイギリスからの完全独立を宣言し、ハイバル峠やスピン・ブルダクからインドに軍を進ませた。ロシア革命によってロシアの脅威が去っていため、イギリスは戦おうとはせず、ラワルピンディー条約でデュアランド・ラインの継承を条件に、独立を承認し、補助金を打ち切った。


 独立後も、アマーヌッラーはインドのムスリム運動を支援する一方、中央アジアのブハーラー、ヒーヴァ両国の独立をロシア革命政府から勝ち取ろうとした。これは果たせなかったが、ウズベク人やトルクメン人が大量にバルフ地方に移住し、絨毯産業を導入した。

 アマーヌッラーは、富裕層中心の急激な世俗化・西欧化政策をとりつつあったトルコの独裁者ケマール・アタチュルクの影響を受け、西欧化政策を加速させ、二三年に憲法を制定したのをはじめ、予算制導入、イスラーム法(シャリーア)に基づく民法典・刑法典発布、中学校設立、留学生派遣、女子教育、電信・ラジオ放送導入、氏族民徴兵制などを矢継ぎ早に行った。かれはインドのイスラーム改革運動(イスラーム法シャリーアの現代的・合理的再解釈とその施行を目指す)の中心デオバンド学院出身の法学者をも放逐しようとした。このような急激な世俗化、とくに徴兵制と女性の洋装は強い抵抗を招き、軍の支持も失った。法学者に支持されたタジク人、パシュトゥーン人の反乱の中で、かれは一部ハザーラ人の支持を得たものの、二九年、退位を強いられ、ローマに亡命した。

 内乱を平定したかれの遠縁ムハンマド・ナーディル・シャー(一九二九〜三三)もまた、西欧化政策を継承し、アフガーン銀行や、士官学校、医学校(カーブル大学の前身)を設立し、留学生を派遣するとともに、三三年、新憲法を発布し、二院制議会を開設した。この直後、かれは暗殺され、子ザーヒル・シャー(一九三三〜七三)が一九歳で即位した。

 強権的にイスラームや伝統を排除する富裕層中心の西欧化、世俗化は、一九世紀末から一九六〇年代のイスラーム世界の一般的風潮であった。しかし、アフガニスタンでは、一連の急進的な改革によって、都市、とくにカーブルと、都市化以前の氏族社会を守る山岳民・遊牧民との格差が極端なものになった。しかも、都市の知識人、富裕層・中間層も他国よりはるかに貧弱であった。このことが、一九七八年の社会主義政権成立後、反乱が各地でいっせいに起こる背景にある。

 米ソ対立とソ連への傾斜

 ザーヒル・シャーは第二次世界大戦では中立を守り、戦後の一九四六年一一月に国連に加盟し、米ソ対立の中で、いかなる軍事・政治ブロックにも加わらない政策を貫いた。

 米ソはアフガニスタンに対し、大戦直後から経済援助競争を行った。アメリカは四六年に始めたヘルマンド川開発計画(灌漑・電力)をはじめ、カンダハール空港建設、アリアナ航空創設、カーブル・カンダハール間の道路建設を資金的にも技術的にも援助した。しかし、バルフ西方ジューズジャーン地方の石油開発を目指すアメリカの計画はソ連の反対で挫折したし、ヘルマンド開発は自然条件やアメリカの厳しい融資条件もあって、失敗した。

 ザーヒル・シャーのいとこ、ムハンマド・ダーウード・ハーン首相(一九五三〜六三)は、パキスタン領内のパシュトゥーン人居住地の併合に非常に熱心で、ソ連に傾斜していった。ブルガーニンとフルシチョフがカーブルを訪問した翌五六年、ソ連との間に空港、道路、橋、灌漑、発電、武器購入に関する技術協定が締結され、第一次経済開発五カ年計画が実施に移された。

 ソ連はカーブル川農業開発とカーブル、ベグラムの空港建設、空軍創設、カンダハール・ヘラート間の道路建設を援助し、六四年サーラング峠のトンネルを開通させ、バルフ地方のクンドゥズ(製綿)、バグラーン(製糖)、プリ・フムリー(紡織)に工場を設置した。かわりに、ソ連はバルフ地方で豊富にとれる綿花、羊毛、天然ガスの供給を受けた。しかも、陸軍、空軍はソ連から供与された武器とソ連人顧問によって強化され、青年将校の多くはソ連で教育を受け、親ソ的になった。

 一方、ムハンマド・ダーウード首相は五九年、税制改革と婦人のヴェール着用非義務化を含む社会改革を行った。しかし、パキスタン領内のパシュトゥーン人の反乱を支援して、六一年、パキスタンとの国交断絶、国境閉鎖を招き、果実、ナッツの輸出がとざえた。六三年三月には、ザーヒル・シャーは独裁的なダーウード首相を退け、王族でも氏族長でもないカーブル出身の大学教授(物理学、ドイツ留学)ムハンマド・ユースフを首相に任命し、イラン皇帝の仲介でパキスタンと和解した。ついで六四年一〇月、二院制議会を定めた新憲法を制定し、民主化を進めた。

 従来、アフガニスタンでは氏族指導者を除いて、大土地所有が一般的でなく、農民は自作、小作、臨時の農業・土木労働者を問わず、一般に貧しく、納税しない者が多かった。したがって、国家が農民に干渉したり、農民が国家を意識することは少なかった。しかし、小学校教育や徴兵制、遊牧民の定着化によって、山岳部の農民や遊牧民も視野を拡大し、教育を受け、都市に移って、下級警察官や学校教師、ムッラー(イスラームの教師)になる道も開かれた。大学教員や新知識人の多くも農民・遊牧民の出身になった。また、若干の資金をもつ機転がきく者は、物資を産地で仕入れ(または羊を育て) 、消費地に運んで高く売る商業に従事し、比較的に容易に小土地所有者に上昇できた。

 これに対し、資金も教育をない臨時の農業労働者は、都市に移っても、仕事にあぶれる日も多かった。六〇年代半ばには、賃上げ、労働時間の短縮、年次休暇制、健康保険制導入を求める労働争議も起きるようになった。

 マルクス主義の普及

 ガズニ地方のギルザイ系遊牧民出身のヌール・ムハンマド・タラキー(一七年生れ)は、小学校卒業後、果実輸出会社の駐在員としてインドのムンバイ(ボンベイ)に派遣され、そこの夜学校でマルクス主義の洗礼を受けた。帰国後の四五年、同じギルザイ系タラキー族の高官によって官僚として抜擢され、活発な政治活動にもかかわらず、五三年ワシントンのアフガニスタン大使館報道官になった。

 しかし、ダーウード首相就任に抗議して辞任後は、カーブルでアメリカ大使館や民間企業などのために翻訳活動を行った。

 同じくギルザイ族出身のハフィーズッラー・アミーン(二九年生れ)は、刑務所長の子で、師範学校からカーブル大学理学部(物理・数学)に進み、さらにアメリカのコロンビア大学に留学して、在米アフガニスタン人学生組合委員長となり、マルクス主義の影響を受けた。帰国後は、文部省に勤めた。

 一方、バブラク・カールマル(二九年生れ)はギルザイ族支配層の出身で、パキスタン国境のパクティアー州知事の子として生まれ、カーブル大学入学以前から高校生組合委員長として頭角を表した。その後、マルクス主義者となり、激しい活動によって、長期間投獄された経験をもつが、官僚に採用された。

 かれの後継者となるムハンマド・ナジーブッラー(四七年生れ)もまた、パクティアー州のギルザイ系氏族長の子であり、活発な活動でしばしば投獄された。

 新憲法下の言論の自由の下で、タラキーは六五年、自宅に三〇人の若者を集め、人民民主党(共産党)を組織した。翌年に発行した週刊誌『ハルク(人民)』は、土地をはじめ私有財産の一部国有化を主張し、六号で発禁処分に会った。下院選挙では、タラキーがガズニ州で落選したが、カーブル州でカールマル、アナーヒタ・ラーティブザード女史らが当選し、新しい人民民主党機関紙『パルチャム(旗)』(六八〜九年)に拠って論陣を張った。学生・知識層、青年将校は『ハルク』や『パルチャム』の影響を受ける者が多かった。

 しかし、六七年、人民民主党は分裂し、タラキー、アミーンを中心としたハルク派は、科学的社会主義の立場を貫徹し、労働者階級の主導権の下での革命を訴えたのに対し、パルチャム派は労働者階級の未成熟を理由に、あらゆる階級を反封建、反帝国主義革命に結集し、漸進的改革を目指すとした。

 反面、パルチャム派はハルク派よりいっそう親ソ的であったとされる。また、ハルク派はギルザイ族の遊牧民、農民出身者が多いのに対し、パルチャム派は都市の知識人を支持基盤とし、多数の支配層出身者を含んでいたことも見逃せない。ハルク派はカールマルを「王様マルクス主義者」「修正主義者」と非難した。

 マルクス主義の流行と同時に、イスラームの伝統主義(伝統的法解釈墨守)と対立する形で、近代的なイスラーム復興主義(伝統的法解釈を排し、伝統の根源に逆上って、民主主義、平等主義、科学主義、反帝国主義的に法を再解釈)も、五〇年代末に起こった。

 グラーム・ムハンマド・ニヤーズィーは、エジプトのアズハル大学留学中にムスリム同朋団の影響を受け、帰国後カーブル大学神学部教授のかたわら、ムスリム青年団(ジャヴァーナーン、イフワーン)を組織した。同じく、アズハル留学後、神学部教授となったブルハーヌッディーン・ラッバーニー(三九年生れ)は、かれの弟子で、七二年青年団長職を継承し、やはりアズハル留学組の助教授アブドゥッラスール・サイヤーフ(四六年生れ)を代理に任命した。七〇年までに、カーブル大学学生の間でも、イスラーム復興主義が優勢になっり、工学部のグルブッディーン・ヘクマトヤール(四七年生れ)が台頭した。

 六五年には、物質主義、保守主義、シオニズム、ヴェトナム戦争に反対する学生の政治運動が表面化し、国会突入、警察の発砲による学生の死、ムハンマド・ユースフ内閣退陣という事態に発展した。

 社会主義政権の成立

 富裕層中心の上からの西欧化政策を推進する官僚と議会との対立、学生や青年将校の現状への不満、さらに七〇年からの三年つづきの大干ばつによって、政情が不安となり、内閣の交替は頻繁になった。

 七三年七月、ザーヒル・シャーのイタリア外遊を機に、いとこのダーウード元首相が親ソ派青年将校の助けを得て、無血クーデターを起こし、議会を解散し、王制を廃止し、共和制を宣言し、自ら大統領兼首相に就任した。イスラーム復興主義者ニヤーズィー、サイヤーフらは投獄され、ラッバーニー、ヘクマトヤール、ユーヌス・ハーリス(一九年生れ)らはパキスタン亡命を余儀なくされた。

 パルチャム派の支援をも得て、野心的な経済開発計画を策定したダーウード大統領は、七四年と七七年の二回、ソ連を訪問し、援助を求めた。一方では、石油ブームに沸くイランやペルシア湾岸アラブ諸国とも関係を改善し、パキスタンとも和解し、パルチャム派を排除した。こうして、しだいに親米傾向をみせ、ついに七七年二月、一党独裁制の共和国憲法を公布したあと、内閣を改造し、親ソ派の四閣僚を解任し、側近や一部王族を重用する独裁を行った。この中で、インフレが進行し、公務員の汚職は蔓延した。

 一方、政権に参加しなかったハルク派はアミーンの努力で、パシュトゥーン人(とくにギルザイ族)を中心に、軍内部に多くの支持を構築した。七八年四月、『パルチャム』のイデオローグであったミール・アクバル・ハイバルの暗殺、タラキー、カールマルの逮捕をきっかけに、親ハルク派軍人によるクーデターが発生し、ダーウードと家族、側近は殺害された。憲法は破棄され、五月、ハルク派のタラキーを議長兼首相、パルチャム派のカールマルを第一副議長兼副首相とする革命評議会が実権を握り、アフガニスタン民主共和国が成立した(サウル革命)。他に、人民民主党書記長となったアミーンが副首相兼外務大臣、ラーティブザードが社会問題大臣となり、空軍、陸軍の青年将校や官僚も入閣した。二一人の閣僚のうち、ハルク派一一名、パルチャム派一〇人が示すように、両派の連立政権であり、「民族」的にはパシュトゥーン人九名、タジク人とファールスィー人八名、ウズベク人二名、ハザーラ人二名であった。

 新政権は、自らがイスラームを尊重する民族主義政権であって、共産主義政権ではないと強調し、平等、社会的経済的公正、非同盟主義を唱えた。

 しかし、たちまち政権内部で路線対立、権力闘争が激化し、七月にはカールマル、ラーティブザード、ナジーブッラーらが大使として国外に追放され、ハルク派の単独政権が成立した。

 さらに、タラキー議長は政府転覆陰謀の容疑で国内のパルチャム派や中立支持の民族主義者を逮捕し、チェコ大使カールマルなどにも帰国命令を出したが、カールマルらはこれを拒否した。さらに、ハルク派内部で、タラキーとアミーン(七九年三月首相就任)との権力闘争が起こった。

 タラキーは七月から一一月までの間に三回の布告を出して、干ばつ対策として農民の負債救済、土地をもたない農業労働者への土地分配、成人の識字教育推進を示した。さらに一二月、ソ連と善隣協力条約を締結した。

 ゲリラ諸組織間の争い

 パキスタンに拠るスンナ派の反政府七組織(アフガーン・ムジャーヒディーン・イスラーム同盟)とイランに拠るシーア派中心の八組織は対立していたし、各組織間にも抗争があり、国民和解政府の樹立は困難を極めた。ようやく八九年二月、パキスタンのラワルピンディーで、パキスタンの七組織の評議会(シューラー)が開かれ、紛糾した末、暫定政権の大統領に伝統主義のムジャッディディー、首相にイスラーム復興主義のサイヤーフが選出されたが、イラン在住の諸組織は評議会に参加しなかった。しかも、まもなくガイラーニーとヘクマトヤールは離脱し、七月には、マスウードに会ってパキスタンに帰る途中のイスラーム協会の司令官たちを、ヘクマトヤール派が待ち伏せして、虐殺した。

 ナジーブッラー政権は、マルクス主義を明確に放棄し、国民和解政府の樹立をなおも模索した。しかし、九〇年三月、ハルク派の軍人タナイー国防大臣は、ヘクマトヤール派と結んで、クーデターに失敗したあと、反政府側に合流した。さらに、九一年九月の米ソ外務大臣会談で、両国はすべての勢力に武器供給を停止することで合意した。ソ連からの石油供給も止まったため、政府軍の戦闘機も戦車も装甲車も動けなくなり、発電能力も低下し、カーブルでのインフレは深刻なものになった。

 ソ連解体後の九二年四月一四日、反政府ゲリラがベグラム空軍基地を制圧すると、一六日、ナジーブッラーは国外脱出に失敗して、失脚した。二四日、反政府ゲリラ諸派はペシャーワルの会議で、ヘクマトヤール派を除いて、ムジャッディディーを議長とする、任期二カ月の暫定評議会の樹立で合意した。その後は指導評議会を設置し、その議長はラッバーニーが努め、首相はヘクマトヤール派から出し、任期は四カ月とすることも合意された。

 九二年六月二八日、政権は暫定評議会から指導評議会に委譲された。指導評議会は任期期間に各州の代表を集め、次の指導体制を決定することになっていた。しかし、ヘクマトヤール派との大規模な武力衝突が起こり、一〇月の任期切れまで、ほとんど機能しなかった。延長任期が切れた一二月三〇日、ようやく政策決定評議会が選出され、ラッバーニー議長を任期二年の大統領に選出し、国名をアフガニスタン・イスラーム国とした。

 こうして樹立されたラッバーニー政権は、タジク人を中心とするイスラーム協会、ウズベク人のドストゥーム派、ハザーラ人シーア派を主軸とする少数民族連合政権となった。したがって、パシュトゥーン人を主力とするヘクマトヤール派、ハーリス派、サイヤーフ派などが政権中枢部から排除された。九三年一月、ヘクマトヤール派は政策決定評議会の無効を主張し、ラッバニーー大統領の辞任を要求して、首都カーブルへのロケット攻撃を開始した。マスウード国防大臣率いる政府軍とヘクマトヤール派との戦闘が激化する中、シーア派ハザーラ人の諸組織が合同したイスラーム統一党も政府軍攻撃を開始した。

 三月、パキスタン、イラン、サウディの合同調停で、ラッバーニー大統領が留任するものの、ヘクマトヤールを中心とした新連合政権を樹立し、一八カ月以内に総選挙を実施して新政府を樹立する、とした和平協定に調印した。マスウード国防大臣も辞任して、六月一七日新連合政権が正式に発足し、ヘクマトヤールが首相に就任した。

 新連合政権が機能しないまま、一二月にヘクマトヤール首相が辞任を表明し、ラッバーニーにも大統領辞任を求めて、激しくカーブルを攻撃した。閣僚ポストや、ウズベク人の自治権問題で不満を抱いていたドストゥーム派もヘクマトヤール派と共闘した。しかも、匪賊化したムジャーヒディーンによる殺傷、強盗、婦女暴行は日常化した。九四年末ラッバーニー大統領の任期が満了したあと、九五年二月、国連は王制時代の閣僚を中心とした中立暫定政権を樹立するという調停案を提示したが、各派は受け入れを拒否した。

 ターリバーンによる統一

 パキスタンにあるアフガニスタンのパシュトゥーン人主体の難民キャンプで、多くの初等教育のコーラン学校や、伝統的な高等教育機関マドラサが開かれていた。この中で、かつてムジャーヒディーンとして活躍したカンダハール出身の教師ムハンマド・オマル(六〇年頃生れ)を精神的指導者とし、ダールルウルーム・ハッカーニーヤ校の学生(ターリバーン)主体の小規模な武装勢力が組織され、九四年一一月から「イスラームによる世直し」を掲げ、パキスタンからアフガニスタン国内に進撃を開始した。かれらはパシュトゥーン人、とくにギルザイ系諸氏族を結集して、たちまち旧ゲリラ勢力を駆逐して南部五州とカンダハールを支配下に収めた。これに対し、ラッバーニー派とヘクマトヤール派は共闘を余儀なくされた。

 九五年三月、ヘクマトヤール派を打倒したあと、ターリバーンはカーブル近郊でラッバーニー派と衝突して敗退した。これを機にターリバーンは空軍を含めた軍事力強化に取り組み、九月にはラッバーニー派の拠点の一つヘラートを制圧したあと、一〇月一一日からは再びカーブルに対し、空爆やロケット攻撃、道路封鎖などを長期に展開した。ターリバーンがジャラーラーバードを陥落させたあと、首都での流血を避けたラッバーニー派は勢力を温存したまま、パンジシール渓谷に撤退した。こうして、二七日ターリバーンはカーブルを制圧し、民間人となっていたナジーブッラーを処刑した。

 カーブル占領後、ターリバーンの指導者、ムハンマド・オマルは六人からなる暫定統治評議会を樹立し、イスラーム国家の創設を目指すとした。さらにかれは、九七年一〇月、アミールルムーミニーン(カリフの称号)と自称し、国名をアフガニスタン・イスラーム・アミール国と変更した。

 ターリバーンが短期間に大きな軍事勢力に成長したのは、基本的には都市が破滅的な混乱状態にあるとき、宗教的に覚醒した氏族民が結集して都市を征服する法則が働いたからである。中央アジアの市場や石油・天然ガス資源へのルートを求めるアメリカとパキスタンがこれを助けた。サウディが資金を出し、アメリカCIAとパキスタン軍情報部は武器供与や軍事訓練、情報提供の面で支援した。一方、ラッバーニー派はパキスタンと対立するインドやロシア、ハザーラ人とヘラートのイスマーイール・ハーンはイランから支援を受けた。こうして、内戦は周辺諸国の利害関係がからむ代理戦争の色彩を濃くした。

 ターリバーンの思想は、パシュトゥーン山岳民の慣習(女性無権利など)と、西欧宗教改革時のピューリタニズム的禁欲主義(音楽など娯楽の全面禁止など)の混合したものであり、伝統から逸脱し、その上コーラン、スンナ(預言者の慣行)などの「原理」にも基づかない独自の解釈の下で、女性の家庭外労働、学校教育を著しく制約した。したがって、かれらの思想は必ずしも「イスラーム原理主義」とは言えない。一方では、かれらは厳しい懲罰によって治安を完全に回復し、家や生活手段を失った人々への福祉に努めた。それゆえに、少なくとも初期には、広範な人々の支持を獲得したことを忘れてはいけない。

 ターリバーンに対抗して、ラッバーニー派はドストゥーム派のほか、ハザーラ人勢力、ヘクマトヤール派の敗残兵を結集し、ロシアから武器の供与を受け、パンジシールを前線基地として、マスウード将軍の軍事指導下で北部同盟を結成した。

 ドストゥーム派の内紛が起こると、ターリバーンは、九七年五月その拠点、バルフ地方の中心都市マザーリ・シャリーフを攻撃し、ドストゥームをトルクメニスタンに走らせ、同市を支配下に置いた。これを見たパキスタンはターリバーン政権を承認し、サウディ、アラブ首長国連邦がこれに続いた。ただ、その直後、ターリバーンはラッバーニー派の制圧に失敗したあと、アブドゥルマリク将軍が率いるウズベク人内の反ドストゥーム派に攻撃され、マザーリ・シャリーフから潰走した。ターリバーンはようやく九八年八月八日、これを再占領し、九月一三日にはハザーラ人の拠点バーミヤーンを制圧し、国土の九〇パーセントをその支配下に置いた。

 このとき、マザーリ・シャリーフのイラン領事館にいた九人の外交官を含む約八〇人のイラン人が捕虜になった。これに対し、イラン革命防衛隊は九月一日から三日間、アフガニスタン国境周辺で大規模な軍事演習を始めた。ターリバーンがイラン外交官九人の遺体を発見したと発表したことから、イラン軍二〇万人も演習に加わり、軍事的緊張が高まったが、関係諸国の仲介で両者は妥協した。

 ウサーマとターリバーン

 ソ連軍との戦闘に参加したアラブなどムスリムの若者は、ソ連軍撤退後、それぞれの国に帰るか、他の地域に移ったが、中には、ジハード(聖戦)を継続したいとする者も少なくなかった。かれらはアフガーニーと呼ばれる。ジハードとは本義的には、自分の心の中にある邪まな気持ちとの対決を意味するが、預言者ムハンマドの時代に迫害され、攻撃を受けた経験から、自衛のための戦争をも意味するようになり、さらに、ムハンマドの死後は、ローマ(ビザンツ)帝国やササン朝ペルシア帝国に対する積極的な征服戦争も含まれるようになった。しかし現在では、聖戦という意味でのジハードは、異教徒の侵略に対する防衛に限られ、この点でウサーマも例外ではない。

 サウディの大手建設業者の子ウサーマ・ビン・ラーディン(五七年生れ、聖地メディーナで育つが、父はイエメン東部ハドラマウト地方出身、母はシリア北西部のシーア派のヌサイリー派)は、アフガニスタンでソ連との戦争に参加し、アメリカの支援も受け、アル・カーイダ(アラビア語で基地)という軍事組織をつくっていた。しかし、湾岸戦争とその後におけるアメリカ軍のサウディ駐留を違法行為として、サウディ政府に強硬に抗議したため、九一年スーダーンの首都ハルトゥームに亡命を余儀なくされた。さらにアメリカとサウディがスーダーンに外交圧力を加えたため、九六年にはウサーマは追放されて、ターリバーンに客人として迎えられた。

 かれはアフガニスタン各地に世界中からムスリムの若者を集め、アル・カーイダの訓練キャンプを設け、九八年二月、エジプトの過激派ジハード団の分派を率いるアイマン・ザワーヒリーとともに、「ユダヤ人と十字軍に対するジハードのための世界イスラーム戦線」を結成して、「アメリカ人とその同盟者は、軍人・民間人を問わず、殺害することがムスリムの宗教的義務である」とするファトワー(法学者の理性にもとづく法的見解)を発表した。長年の研鑽と論文評価を必要とされる学者(ファキーフ)でもないウサーマが、ファトワーを出す資格がないことは言うまでもないが、民衆レヴェルでは、イスラエルによるパレスティナ占領とパレスティナ人迫害や、イスラーム諸国における世俗主義的独裁政権と貧困の問題に焦燥する世界のムスリムの若者に小さくない影響を与えた。

 九八年八月七日、ケニア、タンザニアにあるアメリカ大使館が爆破されると、アメリカはウサーマを黒幕と断定し、ターリバーンに引き渡しを要求した。ターリバーンがこれを拒否したため、八月二〇日、アメリカはアフガニスタン東部にあるアル・カーイダのゲリラ訓練センター数カ所とスーダーンの化学薬品工場を巡航ミサイルで攻撃した。さらに、アメリカは九九年七月、ターリバーンがアメリカ内にもつ資産を凍結した。

 一方、内戦で国土が破壊しつくされたターリバーン政権は、財政的にも、軍事的にもウサーマの支援に頼るようになった。さらに、ターリバーンはアヘン栽培を許さざるを得なくなり(一時、全世界の七五%を供給)、その支配地域はチェチェン、ウズベキスタン、新疆ウイグル自治区の武装闘争派の拠点として利用されるようになった。このため、ロシア、中国は国内のムスリム問題を有利に運ぶため、ターリバーンと対決する点でアメリカと協調するようになった。しかも、一九九九年と翌年には、アフガニスタンは大規模な干ばつに襲われ、難民が激増した。

 この間、国連はターリバーンと北部同盟の連立政権樹立に努力し、九九年七月、米露に、周辺国イラン、パキスタン、タジキスタン、ウズベクスタン、トルクメニスタン、中国を加えた「6+2」カ国会議を開催するというタシケント宣言を採択した。しかし、大使館爆破事件後、アメリカとロシア、中国の思惑が一致した結果、一〇月一五日、国連安全保障理事会は、ウサーマの引き渡しと、アル・カーイダの訓練キャンプ閉鎖をターリバーンに求め、一一月一四日から在外資産凍結、アフガニスタン内における国際線旅客機の離着陸禁止など経済制裁処置を発動した。さらに、二〇〇一年一月、安全保障理事会は米露主導で制裁を強化し、ターリバーンへの武器売却・軍事援助の禁止、ターリバーンのすべての海外事務所閉鎖、高官の海外訪問禁止を採択した。

 ターリバーンが二〇〇一年三月、バーミヤーンの大仏を破壊したのは、山岳民・遊牧民がカリスマ的指導者の下に氏族を越えて結集した場合の破壊・略奪本能が根底にある。それゆえに、ターリバーン兵はバーミヤーン占領当初から、常に大仏を破壊しようとして、指導者に寸前のところで制止されてきたのである。直接の目的は、大仏に誇りをもつハザーラ人の自尊心を完膚なく打ち砕くことであろう。この時期に、国際社会や世界のイスラーム法学者の強い制止を振り切って、破壊に踏み切ったのは、一月の国連制裁に反発が強まり、ウサーマを保護する強硬派がウサーマの国外退去を求める穏健派に勝利した結果と思われる(過激派、穏健派というのは、傾向を意味するもので、派閥ではない) 。

 二〇〇一年九月一一日、ハイジャックした旅客機によるニューヨークの貿易センタービル、ワシントンのペンタゴン突撃事件が起きたのは、こういう状況の中であった。


あまべ ふくぞう/東京経済大学教員

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