連載 ある学徒兵の戦後(14)

             上尾 龍介

2002.1.20 209


 ウラディヴォストックのことを、兵隊達はいつも「ウラジオ」と呼んでいたが、この地名は、彼らの頭の中には、恐らく「浦塩」という漢字の形で定着していたのに違いない。もち論、僕の頭の中でも同様であった。それはロスキーを「露助」と呼んだのと共通した造語感覚であっただろう。

 ともあれ、その浦塩での与えられた仕事というのは港湾の荷下ろしの作業と、道路の改修作業であった。

 これは僕等の収容所から比較的海が近かったからでもあり、もしかすると、この頃までは、まだ朝鮮北部の港で積み込んだ旧日本軍の糧秣が、このウラジオになおも続々と到着していたのかも知れない。

 僕等が運んだ食糧というのは日によって違ったが、麦であったり、唐黍であったり、干しメンタイであったり、時には缶詰であったりした。

 麦は大麦だか小麦だか見分けはつかなかったが、粒のままの茶色っぽい麦であった。唐黍は大粒の黄色く乾いた固い実で、子供の頃かじっていたものとは別物のように感じた。

 はじめの頃にここで課せられた労働は特に厳しいという程のものでもなかった。出発と帰着の時に、整列して人員の点呼がおこなわれるのだが、これは、旧日本軍の場合も必ずおこなわれていたので、違和感はなかった。だが、日本軍の場合、指揮官の号令で、「一、二、三・・・・・・」と番号を唱える形だった点呼が、ここでは、必ずソ連の指揮官によってなされた。

 日本兵のわれわれとしては、このような点呼には、いいがたい屈辱感と共に、不気味な重圧感があった。

 だが、このような重圧感も、最初のうちはほとんど感じることはなかった。それは日本人の上官ではなく、ソ連の指揮官が点呼をとることへの物珍しさもあったし、ゆっくりとロシヤ語で数えていくという形での点呼への興味が僕にはあった。

 この当時の僕には、入国したばかりの異国の、眼に映るもののすべてが珍しかったのだ。それは曾ての日、北京という異国の土をはじめて踏んだ頃のことを思いおこさせた。

 作業の行き帰りには、時々白い建物の近くを通ることがあったが、その家は、その頃日本で普通に見かけた家とは違っていた。日本のように木造ではなくて、石造りのようであったし、日本の家屋が人に与えるあのほのぼのとした温もりのようなものをそれは感じさせなかった。

 その白い家には、縦長い四角な窓が、上と下に四つずつ、並んであけられていて、閉じられた窓の内側にはカーテンが掛けられているのが見えた。ロシヤ人の家というのは、日本の木造の家と違って、ずいぶんと大きいものだなと、その白い家の下を通るたびに思った。

 道路作業に出る時は、海でなく町の方角へ歩いたが、そんな時はわずかだが町の様子を垣間見ることができた。それは街区ではなく、多分町はずれのどこかだったのだろうが。

 出かけた町では、大人たちの姿はあまり見かけなかったが、子供たちをみかけることは多かった。その子供たちの白い頬には、どの子にもうっすらと紅がさしていた。男の子は申し合わせたようにハンチングを被っていて、その下からパッチリした青い眼が僕たちを無邪気に見ていた。それにしても、こんな昼間の時間帯に子供達は学校にはいかないのだろうか、などと思うこともあった。

 トラックで立ったまま運ばれて行くソ連兵たちも、作業中にしばしば見かけたが、彼らは、きまって前の者の肩に手をかけるように並んで、陽気に歌っていた。彼らを乗せたトラックは申し合わせたように、箱型をした旧式な車輛であったので、日本兵たちは、そのたびに、なんだかんだとソ連の悪口、露助の悪口を言った。それは騙すようなやり口でここまで連れて来られたことへの腹いせの気分が多分に込められていた。

 道路作業をしている僕達の近くでトラックが停車したことも二、三度あったが、そんな時も、兵隊たちは荷台の上で、やっぱり声を揃えて陽気に歌っていることが多かった。

 どの兵隊かが弾くバラライカに合わせて、いい声で歌いながら、彼らは、時々、荷台の上で<ダッダッ、ダダッ>と一斉に足を鳴らした。
 彼らはそんな時、道端に腰を下ろしている日本兵に向けて、
 「イェーイ、ヤポンスキー」

などと笑顔で手をあげる兵隊が居たりもした。バラライカはマンドリンに似た小型の簡便な楽器であったが、兵隊たちにとって、それは至って身近なもののように見えた。

 トラックで移動して行く兵隊たちが、当然のように楽器を携帯していることが、そして軍装のままの兵隊が、いとも手軽にそれを弾き鳴らしていることが、僕には何とも新鮮であった。日本の軍隊では、それは到底できないことだったからだ。

 僕の知る軍隊では、少なくとも僕が居住した山東省白馬山の兵営でも、北朝鮮の陣地でも、楽器などは見たこともなかったし、まして、移動中のトラックの上で弾奏し、それに全員が声を揃えて歌うなど、およそ想像さえできぬ風景であった。

 戦前の日本では、音楽教育は至って不十分で、小学校には「唱歌」の時間というものはあったが、それも所によっては、かなりお座成りの授業であった。僕の学んだ小学校は、県庁所在地である中都市の中心部にあったが、担任であった若い先生は体育が得意で、毎朝の朝礼の時のラヂオ体操で、号令を掛けるのがこの先生の役目であった。明るい熱心な先生だったが、音楽の時間には、いつも同じ歌を歌わせられた。

 そんな状態だったから、兵隊たちに楽器の弾けるような者が居るわけがなかった。

 現在の自衛隊ではどうなっているのか知らないが、昔の軍隊で兵隊たちが歌うものと言えば、およそ相場はきまっていた。それは、軍歌でなければ「なにわぶし」か、たまに自分の出身地の民謡などであった。

 これではソ連の兵士たちのように、時に軍靴を踏み鳴らしながら、合唱するという具合にはいかない。

 昔の軍歌にもいい歌がないではなかった。

  万朶(ばんだ)の桜か襟の色
  花は吉野に嵐吹く
  大和男の子と生まれては
  散兵線の花と散れ

というのがあり、これは元来歩兵の歌で、行軍の時、足並みを揃えながら歌うものであったが、これなどは、バッチリ決まった二拍子の、いい歌で、兵隊達は好んで歌った。

 だがこれはどう歌っても、ソ連の兵士達が足踏みしながら、調子よく歌うような具合にはいかない。

 それはともかく、どんなに勇壮ないい歌でも、毎日、散兵線の花と散ってばかりも居られないので、兵隊達は、しばしば妙な歌を歌った。

 それは兵営生活のうさ晴らしではあったのだが、何とも下卑た替え歌で、ひどくエロチックな、野卑な歌ばかりであった。だが兵隊の中にもなかなかの詩人が居るもので、思わずニタリと来る、うまいエロ歌もあったりしたのだが、だからと言ってこんな歌をトラックの上で合唱しながら街を走り回る訳にはいかない。

 ではソ連兵達が、下卑た歌を歌っていたのかいなかったのか、それはロシヤ語のわからぬ僕には一切わからぬわけだが、僕が捕虜の間にしばしば耳にしたのは、そしてただ一つ覚えて帰ったのは、聞き覚えたロシヤ語のカチューシャの歌であった。

 そんな、いい合唱をするソ連の兵士達だったが、その彼等が、作業ののろい日本兵たちを罵る時の罵言には、性行為にかかわる露骨な言葉が混っていた。似たような罵言は中国語にもあって、学生だった頃、街頭を歩くと時々耳にしたものだ。

 このような種類の罵語は、世界にどれくらいあるのか知らないが、日本語の「馬鹿」や「阿呆」などにはその色彩は全くない。このことと、野卑で好色な歌を好んで歌った日本兵の実態とは、どこでどうつながるのだろうか。

 こんなことを考え始めれば、底辺はどこまでも拡がってしまう。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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