音楽戦士としての山田耕筰

          丘山 万里子

2002.2.20 210−2002.4.20 212


 山田 耕筰


 「荒廃、戦争、野蛮、貧困、剥奪以外になにもない国」。アフガニスタン復興支援国際会議でカルザイ議長は自国をそう語った。その状況を、戦後生まれの私たちは想像しようもないのだが、アジア侵略一五年戦争を続けた日本、その結果としての敗戦国日本もまたかつてそのようだったことを、私たちは知らない。

 『敗戦を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーによれば日本が降伏した時点ですでに日本人の過半数は栄養失調だったし、終戦の秋冬には数百万の餓死者が出ると噂されたと言う。司法は取るに足らない罪の一般庶民を年間一〇〇万人以上被告席につけたが、元高級軍人、官僚、腐敗政治家、暴力団組長たちが闇経済で甘い汁を吸うのをとがめることはなかった。まさに戦争、荒廃、野蛮、貧困、剥奪の図であり、この図は実は今日なお、程度の差こそあれ続いていると思われる。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」苦難に耐えよ、という終戦の天皇の詔は、小泉首相の「痛み」を耐えよ、という言葉にそのまま重なるし、犠牲を強いられるのが庶民であるのは日々の新聞を見れば明らかだ。

 時の権力者が、ごく一部をのぞいて戦後もその威をふるう、というのは日本独特の体質で、政財界に限らず、文化の領域でも同様である。日本の文化知識人のほとんどは戦中、明瞭な発言を避け、戦後、やおら身を起こして自らの思想信条を語りだした。それが今日の日本の「近代的知」の基盤になっていることは認識しておいてよいだろう。ヤクザもどきの大声に縮こまる日本のおおかたの知性は、一議員の圧力に屈する外務省の官僚のひ弱さにも透けて見えるし、それを取り巻く御用学者たちのへつらいにも現れている。

 ここでは日本の洋楽の先駆者、日本歌曲の王とも呼ばれる音楽家山田耕筰の戦時、戦後の軌跡を辿り、時代と音楽の関わりを振り返る。言うまでもなく、これは「その時代」の単なる回顧ではなく「今」を照射するための作業である。

           □  □  □ 

 山田耕筰は東京音楽学校(現東京芸術大学)を卒業し、一九一〇年(明治四三年)にベルリンに留学した。二年後、最初の自作オペラ『堕ちたる天女』ドイツ上演の準備のために帰国したが、第一次大戦勃発でそのまま日本での音楽活動を開始する。オーケストラをはじめ、初の本格的オペラ活動を展開すべく日本楽劇協会を設立、作曲にも邁進し、まさに西洋音楽黎明期の日本で獅子奮迅、大車輪の活躍であった。創作についてはとりわけ、大正期における北原白秋との協業で、不朽の名作とされる数々の歌曲を生みだしている。日本語と西洋音楽の融合、つまりは異文化の統合の形を探った彼のこの分野での業績は、今日なお輝かしい光を放っており、彼を超える才能はそうは見当たらないのが日本の音楽界の実状と言って良い。

 だが、その山田も時代の流れには抗せなかった。と言うより、彼もまた各界のトップの地位にあった人間がおしなべてそうであったように、時代を先導、もしくは煽動してゆかねばならない役どころを率先してこなしたのである。戦時には音楽大元帥と呼ばれ、自作の軍服を着て闊歩した山田は、昭和の進軍を音楽面で積極的に推進した。それはどのようであったか? 

 山田の音楽戦士への道は一九三一年の満州事変からはじまる。その年、パリでのオペラ・バレエ『あやめ』創作のため訪欧していた彼は、上演中止を受け、モスクワ、ハルビン、大連を経て帰国、その翌日に事変は勃発した。各地で演奏会を開きつつの帰路の途上で彼が何を見、何を感じたかは明らかではないが、翌年には北原白秋詩『満州興国の歌』から『満州国国歌』にいたるまでの満州関連作品、また『凱旋行進曲』『日本国民の歌』など愛国歌を書いている。

 こうしたいわゆる戦争歌群は時とともに膨大な数となるが、それは山田の文化戦士としての意識の激化と歩を同じくすると言えよう。一九三七年の日中全面戦争開始時点でとりわけ目をひくのは、ドイツの映画監督アーノルド・ファンクと日本の伊丹万作が共同制作した映画『新しき土』(一九三七年)であり、山田はその音楽を担当している。「新しき土」とはむろん、旧満州(中国東北地方)のことである。あらすじは、許嫁を置いて留学した農民あがりの青年がすっかり西洋かぶれして帰国、封建的な制度に反撥して婚約を破棄、これに絶望した許嫁が火山の火口に身投げしようとするところを、父親や老僧などに説教され改心した青年が危機一髪で救い、めでたく二人は新天地、満州で新生活をはじめる、というもの。西洋個人主義から日本全体主義への転回は、たとえば老僧の「個人は鎖の全体を考えたときはじめて重要になる。鎖の全体とは国家であり、民族であり、しょせんは血だ。」とか「おのれをむなしゅうして鎖の全体に服従しろ。」といった言葉によって導かれる。また、トラクターで新天地を耕すラストシーンの歌は「なんと明るい天地だ今日だ 響けトラクター 雲までも 吹けよ緑の東風 風よみてくれわしらが土を 若い日本だおまえよわしよ どこに住もうと日は高い」(第三番)と軽快に歌い上げられる。つまりは狭く貧しい日本の国土から脱出して新しい土を開墾しそこに希望の国を築こう、といったメッセージ、いわば王道楽土の旗振りである。この作品が一九三六年日独防共協定の調印を背景にしたナチスの宣伝映画であり、その文化政策の一環であることに気付いた人間は、当時そう多くはなかった。ファンクにはむろんその認識があったものの、出来上がりが日本への異国趣味一辺倒となり、ゲッペルスの不満を買っている。日独共作であるにもかかわらず、ファンク版と伊丹版の2版となった理由もここにある。モダニズムの旗手だった伊丹にとってファンクの時代錯誤的異国描写は我慢ならなかったのだ。が、もちろん、戦時における国民精神鼓舞のための国策映画としてマスコミには大々的に喧伝され、皇族のご臨席といった報道が踊った。山田の音楽については、ファンク版が新作書き下ろし、伊丹版が旧作のアレンジとなったが、せっかくの新作もファンク版ではほとんどカットされる結果となり、これには山田も激怒悲嘆であった。実際二版を見比べ、聴き比べると、伊丹版ではワグナーやドビュッシーに似た西洋音楽風の音がいたるところで鳴っており、映画音楽としての新しさも感じさせる。映画の内容はともあれ、音楽自体はまだ愛国路線にはなっていないのである。

 だが、この映画のドイツ上映に立ち会うためベルリンを久しぶりに訪れた山田は、ナチス統治下の様子に感動、中国との全面戦争を期に、愛国の念を一気に燃えたたせてゆく。七月七日に起こった廬溝橋事件では、日本軍に追われ逃げまどう中国の人々の目をおおう悲惨、残虐ばかりが当地のニュース映像で流されるのに憤怒し、「正しき意味に於ける宣伝というもののいかに緊要であるかをつくづく思わされたのである。−−日本が世界を知る程度は、世界が日本を知るよりも遙かに勝っている。東洋の一孤島である日本は実は余りにもその真姿を世界に知られていないのだ。−−要するに日本を世界の津々浦々まで知らしめねばならないというのが、今日吾々国民の持つ切実感だ。−−世界の報道機関を有効適切に動員させるのも其の一つ。映画によるものも其の一つ。美術、音楽等によるものも其の一つ。−−それを敢行する決意とそれを実行に移す巨大な財的用意さえ調えば、誰一人としてこの文化戦の勇敢なる戦士としての参加を拒む者があろうか。」と新聞に書き送った。

 帰国後の山田は、まず何より文化工作の必要性を説く。滞独中に見聞したユダヤ人と往復に接した中国人の類似を指摘、いかに中国を日本支配下に治めるかを論じる文章も発表している。「わが日本の国力伸張に伴い、海外に雄飛するのになんの躊躇があろうか。どしどし進出すべきだ。ただ、武力だけでは足らない。武力は山野の伐採である。いまだかって世界のどこの植民地も文化工作なしに成功したためしはない。朝鮮統治の成功もこれがうまくいったからだ。北支、中支の統治にも文化戦線の推進が肝要である。」

 山田のような<時流の人>が、当時の明瞭な植民地支配意識を語っているのに、大戦がアジアの植民地解放だったなどと、昨今の新教科書推進の人々の歴史解釈はなんと能天気なものか。また、戦争の最終的勝利は文化の破壊だ、とは良く言われることだが、それを山田が喝破しているあたりにも一音楽家を超えた胆力を感じさせる。 

           □  □  □

 一九三七年、廬溝橋事件のおり在独だった山田耕筰は、十一月に帰国すると直ちに音楽による宣撫工作の必要性を熱心に説きはじめた。たとえば中国に対して「支那人は、はなはだ保守的で、自国文化やその遺産に固執して、なかなか他国文化を吸収しない。そこで、その支那人をどう宣撫するかだが、そこに芸術が必要になってくるのだ。」と言い、今こそ彼らに健康な日本の精神を注入する絶好の機会だ、と張り切る。中央産業組合新聞に掲載された「音楽宣伝の妙諦」という文章の一部を要約してみよう。

 「何事もはじめが肝心。出は柔らかく、彼らの好むところに従って徐々に宣撫しなければならない。それには音楽が一番いい。たとえば内閣情報部推薦の『愛国行進曲』を一人の男が歌いながら歩いて行く。すると向こうから女中さんなり、八百屋の若い者なりが歌ってくる。そこで面識がなくとも、互いににやっと笑いながら顔を見合わせて通り過ぎる。なんてうれしい情景じゃあないか。これと同じで、日本人と支那人が一つの歌を唱和する場合、おのずと感情の融和が生まれるのではないか。まず、日本の歌をつくり、これを支那音調に従って支那語で歌わせるんだ。反対に支那語の歌をつくり、これを日本語で歌わせるんだ。レコードの表を日本語、裏を支那語で、というぐあいのものをいくつもつくれば、あちらに行っている日本人も歌によって支那語を幾分なりとも覚えることができるし、支那人も日本語に親しみ、これを知るようになる。」

 実際、このようなスタイルで書かれたのが、彼がマニラへ音楽使節として派遣された際の『フィリピン独立(祝賀)大行進曲』(一九四三年)で、日本とフィリピンの合唱団の応答に加え、聴衆全員の唱和を意図したものである。異文化の民族を同化できる、あるいはしなければならない、あるいはしたほうがいいに決まっている……さて、自分たちがそのような同化の対象とされたら、どうだろう? ちなみにここに出てくる『愛国行進曲』は、詩を一般募集、審査、制定、普及全般にわたり当時の第一線の音楽家を総動員、レコード各社がこれを競って発売するという国家的一大イヴェントとなった。

 では、国家による音楽統制はどのように行われたか? 一九四一年十一月、日本音楽文化協会発足がその最終行程である。山田は九月の協会創立総会で副会長(会長徳川義親)に指名され、その数日後には音楽挺身隊を結成、自ら隊長となった。この隊は、銃後国民の慰安と鼓舞激励のために演奏家協会全会員を動員して作られたもので、三千の隊員を傘下に、市民慰安会、農村漁村への音楽慰安隊、産業戦士の慰労演奏などを行うことを趣旨とし、山田は率先してその先頭に立ち指揮をとった。

 警視庁の管理下にあった演奏家協会は、四三年には情報局管理下の日本音楽文化協会へと統合され、国家による統制経路はここで完全に一本化される。四四年、この協会の会長となった山田は、ついに音楽統制の頂点に立つこととなった。

 この協会の果たした役割は大きい。その総則には「本会ハ肇国ノ精神ニ基キ音楽文化ヲ内外ニ宣揚スルコトヲ目的トス」とあり、音楽による国民精神の昂揚、音楽政策の樹立遂行への協力、国家的及び公共的行事への協力など、目的達成のための事業が十二項目にわたって述べられている。協会が発行した「音楽文化新聞」は、当局に許可された唯一の音楽メディアとして、音楽言論を先導し、「音楽は軍需品」をスローガンに音楽界を軍事一色に染め上げた。一例として第四号の「重大な使命を担う作曲家」という服部正の文章をあげよう。

 「この素晴らしい未曾有の祖国の大勝利大躍進に対して、我々は何かぢっとしている事の出来ない精神の高揚を覚える。国を愛する事世界に比類ない日本人であるからにはこの精神の高揚は必然であり何よりも烈しいものであろう。そして、少し高い心を持つ者ならば、この精神の高揚を何か謳わなくてはならない芸術的感動にまで導かれるであろう。……」

 他にも「大東亜共栄唱歌をつくれ」とか「東亜音楽建設の歴史的必然性」とか「共同体音楽観の構想」といった類の当時の論客たちの論文がずらりと並んでいる。山田に限らず、つまりは、音楽界が一丸となって戦争協力をする図……時代はこのように人間を呑み込んでいったのである。  

 山田のおびただしい数の戦争歌は、南京攻略を目前に作られた『南京にあがる凱歌』ほか年を追って『なんだ空襲』『壮烈特別攻撃隊』などと続き、次第に濃くなる敗色に『アッツ島決戦勇士顕彰国民歌』『学徒出陣』『サイパン殉国の歌』『立て一億』『決戦今ぞ』『沖縄絶唱譜』と、悲鳴に近いものとなってゆく。これらの作詞には北原白秋はむろんのこと、西条八十、大木惇夫、三好達治、サトー・ハチローといった錚々たる顔ぶれが並んでいる。誰も彼もが文化戦士として働いたのである。

 山田は一九三八年に明治天皇、大木惇夫詩による『大管弦楽のために作れる合唱風琴附交響曲 昭和讃頌』を「国民に捧げる戦争交響楽」として作曲、放送した。この作品は二年後の「聖戦三周年記念楽壇総動員大演奏会」でも演奏され、東京日々新聞はその模様を「わが楽壇を総動員 絢爛 “世紀の大演奏”聴衆十萬 昨夜の圧巻」と報道している。堀内敬三はその成果を同新聞に「国民が挙って立ち、興亜の聖業に相携えて猛進しなくてはならぬ時、共同的音楽たる合唱、合奏のごとき集団的演奏は多数者の心を帰一し共同に秩序を以て奮起力を奨励されるべきものと思う。……健全なる集団的演奏の普及向上はこの時において国家的に民族的にその効用を発揮するであろう。」と記している。

 北原白秋と山田の最後の大作は一九四一年『聖戦讃歌(交声曲、大陸の黎明)』で、全五楽章からなる大規模なカンタータ。天皇、皇国礼賛の第一、第二楽章から大東亜共栄圏建設をめざす皇軍を讃える第三、第四、第五楽章の構成となっており、白秋の詩は壮麗な句の羅列である。オーケストラによる日本的な旋律の序奏からはじまり、フーガの手法なども用い、全体にドイツ風の出来映えとなっている。「国民音楽の樹立」を山田がしきりに唱えたのもこの頃だった。彼は東京朝日新聞に「樹立し度い国民音楽」のタイトルでその抱負を語っている。

 「私はいよいよ本式に国民音楽の樹立運動をやりたい。日本国民が国民的意識に目ざめ、自分自身を持たねばならない今日こそ眞者の日本音楽が生まれるのです、それは三味線でもないし交響楽でもない、それは明治維新から我々が受けてきたあらゆるもの、西洋のものも東洋のものもすべて包含し、消化し、然して《今日精神》《今日感情》を基礎とした音楽である。」

 「日本音楽というからとて何も旧来の日本楽器を使うことのみではない、大切なのは精神で、最も良いものを使って、今日、この時代の記念碑を樹立しようというのです。」

 「今度の事態で日本の芸術界は全面的に立ち上がって総動員運動に参加した。国民的意識の目ざめが強いことを実証しています。世間には、“音楽こそインターナショナルだ”などと唱える似非者がいるが、私は“音楽こそ絶対に非インターナショナルだ”と絶叫します。」

 さて、世界のグローバル化のなかで民族のアイデンティティが取り沙汰されている昨今、この山田の主張はいかにもぴったりに響くのではなかろうか? 歴史は繰り返す。「繰り返しません、この過ちを」という、歴史の惨劇への定句は、むしろ繰り返す人間の愚をこそ語っているようだ。

            □  □  □

 演奏家たちの受けた統制に触れておこう。一九四〇年、演奏家協会(山田耕筰会長)の発足と同時に警視庁は「興行取締規制」を施行した。これは警視総監の許可を得たものだけに「技芸者之証」を交付、興行中はつねにこれを携帯しなければならない義務と、技芸者の組織化を目的としたもの、つまりは「同心協力し公益優先の精神に立脚し個人的利益を捨て専ら公に奉じ芸術報国の実を挙げる」(音楽評論、一九四〇年十二月号、<演奏家協会の誕生に就いて>寺沢高信)ことに主眼があった。この<技芸者之証>がないと戦時下では演奏会もできないわけで、演奏家協会と警視庁との結びつきはこのような形で機能していったのだった。

 音楽言論が統合なった日本音楽文化協会監修による『音楽文化新聞』に先導されたことはすでに述べた。その創刊に際し、堀内敬三は「本紙の性格と使命」という文章でこう書いている。「本紙は内務省警保局検閲課の指導下に新たに統合創刊せられた音樂雑誌、六種のうちの一つであって、今般『月刊樂譜』『音樂世界』『音樂倶樂部』『音樂商報』の併合に依って新に生まれた經營體『音樂之友社』に於いて月刊『音樂之友』と共に發行する事を認可せられた。」

 現今の月刊音楽雑誌『音楽の友』はこのような歴史を持っているのである。戦後五十年を過ぎた今日、様々なメディアが自由に発言しているように見えるが、そうなのだろうか? 商業主義、という目に見えやすい形への批判はあっても、その影で実は日本のアイデンティティを国家に帰する大きな力がじわじわと働きつつあることは「君が代問題」でも明らかだろう。

 楽壇を挙げての音楽報国体制は、このように展開されていった。そういう時代だったのだ、と、誰もが言う。山田耕筰もまた、戦後、彼の戦争犯罪を糾弾する山根銀二にそう答えた。

 山根による、山田耕筰を戦争犯罪者とする批判は、終戦後の十二月二十三日から連日三回にわたり、東京新聞に掲載された。最終回の二十五日付の同紙上には、山田耕筰の反論も載っている。掲載された両者の文面を抜粋してご紹介しておく。山根や山田の述べていることが正確な事実に基づいたものかどうかは別として、このような論争があり、かつ、それがそのまま立ち消えてしまった事実は、認識しておくべきだろう。

 「資格なき仲介者」
       山根銀二

 本紙十一月十七日号に進駐軍の一青年音楽家が日本の古典音楽の伝統に触れるため山田耕筰氏の斡旋を求め、山田氏はこれを機会に音楽を通じて融和交驩に乗り出すことになった由を報じている。

 ……進駐軍音楽家が日本の音楽について積極的な興味を示すのは結構なことであり、また日本の音楽家がこれを機会に文化交驩に乗り出すのも喜ばしいことなのだが、それを仲介する人物が人もあろうに昨日までアメリカ人並びにアメリカ音楽の野獣性なるものを*(一字消、たぶん叫)号し、これを不当に汚し続けてきた巨頭であり、憲兵及び内務官僚と結託して行われた楽壇の自由主義的分子並びにユダヤ系音楽家の弾圧に於ても軍の圧力を借り、一般音楽家を威迫しつつ行われた楽壇の軍国主義化に於ても、更にまたこれらの業績の陰を縫ってぬけぬけと行われた私利追及に於ても、何れも典型的な戦争犯罪人と目される山田耕筰氏であることが我々を驚かせるからである……。 
 
 「旧態依然の楽壇」
       山根銀二

 このような一種の行違いは日本の楽壇のほとんどすべての枢要な地位が戦争中の状態をそのまま継続して、戦争犯罪者及びこれに準ずる者の手中に握られていることから起こる。…… 楽壇の戦争犯罪は自由主義的分子とユダヤ系音楽家を、軍官僚の暴力によって一掃し、総ての重要な機構を掌握することによって行われて来た。例えば音楽文化協会は幾多の矛盾を内包しながらも、その主流は軍官僚による音楽の反動的利用政策に対抗する音楽家としての立場の擁護を自らの任務としたのだったが、憲兵、内務省、情報局一体となって陰謀工作により山田耕筰氏の独裁が完成されてからは、文化的意義の総てを喪失して全くの反動的な機関となり下がったことは周知の事実である。

 さらにこれと表裏一体をなしていた音楽挺身隊は隊長山田耕筰氏の下に演奏家を強制加入せしめ警視庁興行係の権力を背景に全音楽家を威迫したのであった。内務官僚が楽壇支配を志して音楽の「配給」という愚劣な看板の下に始めた日本芸能社は、今回戦争犯罪人として検挙された元国粋同盟総裁笹川良一氏を社長とし、その輩下に山田耕筰氏を据えることで陣容を完成し、軽音楽上演のかすりを取って今日なお肥え太っている。

 楽界の事業に財的援助を与えるとの口実で文部省監督下に創立された音楽振興会も矢張り山田耕筰氏の掌握するところとなり、また新設された東京都音楽団も山田耕筰氏並びにその一党の占拠するところとなり、早くも公的性格を台無しにされようとしている。

 戦争中憲兵や警察の不当な干渉によって作り出された斯かる状態が今日ほとんどそのまま温存されており、一般音楽家の活動が依然抑圧されているのは全く驚くべき事実である……。

 これに山田耕筰はこう反駁する。

 「果たして誰が戦争犯罪者か」 山根氏に答える
                           山田耕筰

 山根君! 私は今あなたの楽壇時評を拝見して唖然としています。私は然しあなたの挙げられた個々の非難に対して細々とお答えする必要を認めません。が、あなたが私を戦争犯罪人と断定された所論に対しては一言せざるを得ません。

 成程私はお説の通り戦時中、音楽文化協会の副会長として、時の会長徳川義親侯を補佐して戦力増強士気昂揚の面にふれて微力をいたして来ました。それは祖国の不敗を希う国民としての当然の行動として。

 戦時中国家の要望に従ってなしたそうした愛国的行動があなたのいうように戦争犯罪になるとしたら、日本国民は挙げて戦争犯罪者として拘禁されなければなりません。……抑抑音楽文化協会は誰の手によって作られたのでしょう。それは新体制運動の奔流に乗って、あなたのヘゲモニイによって作られたものではなかったでしょうか。そして私も徳川侯も単なる置きものとして会の代表者という地位に据えられたに過ぎません。

 何故ならば、会の定款は理事会に絶対の権能を与え、吾々は理事としての資格も無く、理事会に発言する自由すらも正式にはあたえられないというような、ふしぎな形に仕組まれていました。……

 一体此頃各方面で人を戦争犯罪者呼はばりする傾向がありますが、これは誠に嘆かわしい現象ではありませんか。

 これは「お前たちの誇りとした武士道というものはそんなにも穢く惨めなものか」と、世界から嘲笑をうけるに役立つ以外の何ものでもありません。この戦争を阻止し得なかった吾々日本人は一人残らず戦争に対して責任がないとはいえません。そうした吾々が果たして同胞を裁く資格があるでしょうか。……

 さて、日独共作映画『新しき土』の日本監督、伊丹万作は敗戦から一年後にこう語っている。

 「多くの人が、今度の戦争で騙されていたという。皆が皆口を揃えて騙されていたという。私の知っている範囲では俺が騙したのだといった人間は未だ一人もいない。騙されたということは不正者による被害を意味するが、しかし、騙されたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはいないのである。騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるよう勘違いしている人は、もう一度顔を洗い直さなければならぬ……我々は、計らずも、今政治的には一応解放された。しかし、今迄、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ、負担させて、彼等の跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われる時はないであろう。」

 今、私たちもまた、顔を洗い直さねばならないのではなかろうか。


おかやま まりこ/音楽批評家・音楽批評紙「ブリーズ」編集・発行人

  トップページへ  ページの先頭へ