論壇 崩壊と再生

         村上 陽一郎

2002.3.20 211


 国会で証言する鈴木宗男議員


 日本を支えてきたと称する権力機構が、あらゆるところで音を立てて崩壊している。行政、企業、どちらもかつては国際的に名声を馳せた。曰く、日本の政治は二流(三流?)だが、官僚機構は優秀だ、だから日本は「大丈夫」だ。曰く、日本式企業経営は独特のものだ、世界は見習うべきだ。

 実は、そう言われていた時代から事態は少しも変わっていない、という見方もある。つまり、そのころは、「ほころび」が明るみに出されなかったが、今は、多少世の中に知られるようになっただけなのだ。それはそうだろう。行政や企業が、ここへきて突然腐敗したわけではあるまい。永年かかって積み上げて来た「日本的なるもの」のなかの醜さが、次々に今露になっているに過ぎないことも確かだ。

 しかし、それにしても、狂牛病対策、雪印の不祥事、外務省の醜態・・・と、このところメディアに報じられる事柄のやりきれなさは異常というほかはない。そこに幾つかの要素を見て取り、将来への見通しとを立てよう、というのが、本稿の趣意である。

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 「メディアに報じられる」と書いたが、第一の点は、メディアの怠慢と、それにも拘らず持つ「力」の問題である。

 「怠慢」というのは、例えば「鈴木宗男事件」である。この議員に関して、もともと様々な問題があることは、そういう「永田町」事情とはおよそかけ離れている私の耳にさえ、ときどき届いていた。しかし、極く一部のメディアが、揶揄的に問題にしたのを除けば、とくに全国規模の主要新聞は、今回のNGO排除問題で火がつくまでは、全く触れたことがなかったと言ってよい。「問題が見えたら、取材して書く」。ただこれだけのことが、充分に果たされて来なかった、という点は、やはり指摘されなければならない。と同時に火がついてからのテレヴィジョンや週刊誌の「狂奔振り」も、ほとんど見るに耐えない。

 ただ、インターネットの普及にも拘らず、メディアの持つ力は、やはり大切にしなければならない。

 他国の例を引き合いに出すのは本来慎むべきだが、例えばドイツに『パーラメント』という週刊紙がある。たまたまその二月八・一五日合併号を見ていたら、日本でも問題になっているES細胞を巡る議論の特集が掲載されていた。もともとこの新聞は(タイトルからも判るように)議会での議論を載録することを任務としているからであるには違いないが、そこには、一人一人の議員の発言が、見事に要約され、かつ解説や議論の推移も含めて報じられていた。

 ES細胞というのは、「(ヒトの)胚性幹細胞」と訳されるもので、一九九八年にアメリカで「樹立」(生物学用語で、「造り出す」という意味)に成功して以来、世界中が色めき立っているものである。「多能性」(「未分化」であり、神経細胞、心筋細胞、骨細胞、肝細胞などに「分化」し得る可能性)を持ち、しかも自由に分裂する能力を持っているため、損傷を受けた臓器にこれを利用すれば、再生・修復に希望が持てる、というわけである。ただ、「胚性」という言葉で判るように、ES細胞を樹立するための材料となるのは「胚」(大体発生後七日目くらいの胚盤胞と言われる時期の)であって、「ヒト」の場合は当然人間の「胚」でなければならない。そのまま順調に進めば一人の人間になるはずの「胚」を、「材料」に使う、ということが問題視されて、多くの国々で、現在は色々な規制がかけられている。因みに日本では、樹立のための指針が定められ、それに基づいて、複数の機関が樹立の申請をし、その処理が行われているところである。「材料」に使われる「胚」は、不妊治療のために体外授精を試みたときに余ってしまって、凍結保存され、廃棄処分が決まったものだけに限定する、というのが日本(他国もほぼ同様)の規制である。

 さてドイツでは、まだ「樹立」に関して結論が出ていない段階で、しかし「輸入」することの是非を議論したのが、上掲の週刊紙の記事であった。

 この問題に関しては、すべての政党が党議拘束を外し、議員個人の倫理観、人間観に基づいて判断し、行動することが定められたために、三〇人を超える議員の個人的な発表見解が載録されることになった。

 この特集で、読者は、各個人の真剣な意見表明のなかから、自らの立場をしっかりと定める足場を選択することが出来る構成になっていて、深い感銘と激しい羨望とを覚えた。

 こうしたことこそ、後に述べる「自分の責任において判断し行動する自立した個人」からなる社会を支えるメディアの力だという思いがあり、翻って、日本の議会で戦わされる議論の低劣さ、あるいはメディアの無力への哀しみもそこに重ねざるを得なかった。

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 第二の問題は、「ホイッスル・ブロアー」の問題である。

 こうした片仮名語はできるだけ使わないようにすべきだが、「内部告発者」という、これに当る日本語の持つニュアンスは、避けられれば避けたい。今この問題に気付いた一部の議員が、議員立法を試みているらしいが、彼らも「ホイッスル・ブローイング」という言葉を差し当たりは使うようだ。私が「安全」の問題に手を染めるようになって最初にぶつかったのが、「ホイッスル・ブローイング」の問題であった。もちろんこの英語のもとの意味は、蒸気機関車のころの鉄道で、機関士が前方に何か障害を見つけたときに「ホイッスル」(警笛)を「ブロー」(蒸気で鳴らす)することだから、そこには「内部告発」という意味はない。「警笛鳴らし」。

 社会の安全を脅かす可能性のある何ものかに気付いたものが、いちはやく「警笛を鳴らす」、それが習慣化されていることが、安全の維持にとって最も重要な要素の一つなのである。例えば、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』(編注:一九六二年出版。DDTなど殺虫剤の乱用の実態を告発した環境問題の古典といわれている)を発表したのは、まさしく極めて重要な「警笛鳴らし」であった。

 実は誰もが気付いているように、企業でも行政でも、その「ほころび」が明るみ出る最大のきっかけは、日本でも「内部告発」である。もちろん「警笛鳴らし」が、組織の内部通報者の手で行われる場合も多々ある。アメリカでは、「ホイッスル・ブロアー」保護のための法律や機関がすでに多く存在するから、アメリカでも「警笛鳴らし」が「内部告発」である事例も多いのだろう。

 例えばアメリカの工学系大学の認証機関が定めているところによれば、工学系大学を卒業して「技師」になるものは、自分の携わる仕事の中で不正や危険を見つけたら「警笛鳴らし」をするだけの能力を身に付けなければならない、と定めている。その上で、「警笛鳴らし」をした「内部通報者」がそのことによって不利益を蒙るときに、社会的に支援する組織や法律を造っている、というのが実情だろう。

 しかし、いずれにしても、日本においても、「内部通報者」だけでなく、「警笛鳴らし」を積極的に評価し、支援する体制が極めて重要になってくる。「内部告発」は企業では(行政でも)最も嫌われるが、それは企業や行政組織が、「内部」できちんと「警笛鳴らし」を評価する発想が欠如しているからである。内部で、「警笛鳴らし」を評価し、それに誠実に対応し、自己改革の貴重な材料とする、という考え方が欠けていることが、(外部への)「内部告発」になっている、という事態にどうして気付かれないのであろうか。

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 第三に、この点が最も強調したいことなのだが、崩壊する権力機構のなかで、われわれ生活者は、そうした権力機構にことをあずけておくことが出来ない、ということを身に染みて知らされつつある。食品表示もその好例である。

 そしてそのことは、日本の社会のなかでの生活者一人一人が、自らの責任において、情報を集め、判断し、行動する、そうした自立した個人として生きていく方向へと転換する好機でもあることを示している。

 われわれは、あらゆる点で、どこかで「お任せ」という態度をとってきたのではないか。もちろん、行政には行政の独自の責任があり、企業にも企業独自の責任がある。それをきちんと果たさせるように仕向けることも含めて、社会を構成する生活者が、どこまで「自立」できるかが、これからの日本社会の運命を決めるのではないか。

 当然のことながら、個人はどれほど「自立」しようと、それだけでは弱い存在である。そこに「自立した個人」どうしが造る「コミュニティ」の重要さがあらためて浮かび上がる。この「コミュニティ」は必ずしも地理的な「地域」を媒介としなくともよい。幸いにITの発達は、地理的な距離をほとんど乗り越えることを可能にしている。実際、難病に悩む方々の「コミュニティー」は、サイバースペースを活用したケースが多い。

 外務省の一連の事件のきっかけがNGOを巡る問題であったことは、象徴的である。

 ここでの一つのポイントは、生活者は、それ自体としては「非専門家」である、ということだ。行政組織も、企業も、あるいは医療も、教育も、社会における制度は、基本的には専門家の集団である。そしてこれまで、われわれは、専門家の集団に、判断や意志決定を「お任せ」してきた。

 しかし、専門家には専門家の論理があり、それは、その専門のなかだけでなら価値があるが、現代社会では、一つの領域が専門として孤立していることは絶対にあり得ないのであって、複雑に関連し合う領域どうしのネットワークのなかでは、個々の専門領域の専門家の判断が常に正しいとはとても言えないのである。

 非専門家の判断が、ときに決定的な意味を持つことがあるのも、こうした状況があるからである。

 そして「自立した個人」としての生活者は、非専門家としての立場からの意志表明や行動(そのなかには当然「警笛鳴らし」も含まれる)が、社会を形造っていく最も重要な要素の一つになるだろう。そうした社会へと移行するための犠牲だと思えば、現在起っている見るに耐えない様々な社会の醜状も、貴重な捨石なのかもしれない。


むらかみ よういちろう/国際基督教大学教授

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