連載 ある学徒兵の戦後(15)

             上尾 龍介

2002.5.20 213


 今になって振り返ってみれば、十月の一日を期して開始されたと推定される捕虜としての作業であったが、道路作業や港湾の荷下ろしなどに追われているうちに、ふと気がつくと、収容所の裏山は既に晩秋の気配であった。その足早な秋は、瞬く間に冬に変わっていき、室内には暖房のペーチカが入った。

 寒くなると、作業は次第に辛くなったが、それよりも、次第に空腹を辛く感じるようになっていった。

 これまでの軍隊生活や、朝鮮北部での一カ月余の収容所生活の間にも、そんなことは絶えてなかったのだが、ウラジヴォストクに来てからは空腹に苦しむようになっていった。それも一時の空腹ではなく、来る日も来る日もそうであった。

 それが最大の原因であったが、港の荷下ろし作業の帰りに、麻袋からこぼれた麦を、兵隊たちは持ち帰るようになった。それを自分の飯盒に入れ、赤く灼けたペーチカの鉄板にのせて炊くのである。ペーチカには薪を燃やしたが、太い丸太を五十糎(センチメートル)か六十糎の長さに挽いたものを斧で割り、手前の焚き口から放り込んで燃やすのである。

 ロシヤ人の生活のさまを僕は知らないが、あのロシヤ風のゴッタ煮であるボルシチなどは、このようにペーチカに鍋を置きっ放しにして煮込んでいくのかも知れない。

 こんな状態で港湾の荷役作業や街の道路作業などに黙々と従事していくわけだが、これらの作業自体は、取り立てて過重なものとは思わなかった。

 だが、軍隊の頃も朝鮮北部でも、十分な食料を与えられての労働であったが、ソ連領内に入ってからは食糧事情が一変したために、同じ程度か、幾分過重な程度の仕事であっても、兵隊たちは苦しんだのだった。しかも、それが既に二カ月も続いているため、情況は、かなり深刻なものとなりつつあった。

 このころの或る日、それは十一月も終わりに近づいた頃のことであったが、山間の伐採に行く者と、収容所に残留する者とが分けられることになった。僕は伐採班に組み入れられた。振り分けが終わると、伐採班の者は、午後になって、波止場のいつもの作業場で着がえさせられることになった。

 これまで着ていた軍服を脱いで、綿入れの、黒っぽい中国風の労働服に着がえるのである。それは、旧満州国の苦力(クーリー)達のために作られたと思われる、至って粗悪な服であった。苦力というのは、重労働という苦しい仕事をする人夫という意味の語である。僕は手にとって軍服よりはずっと痛み易いのではないだろうか、と思った。そして何となく、今までよりは何もかも格が落ちてしまったような、かなりみじめな気分になっていく自分を感じた。

 収容所に戻ると、ソ連兵が僕らを眺めながら、両手で自分の首を絞めるしぐさをして見せ、否定的なニュアンスをこめて首を横に振った。そして肩をすぼめた。

 日本の兵隊たちの中にも「伐採は、きっと辛いぞ」などと言う者が何人も居たが、僕は未来に希望を繋ごうと思った。それはソ連に入ってはじめての収容所での、少ない食事に苦しみながらの労働に、既に耐え難い思いが募っていたからだ。

 粗末な綿入れの服に日本軍の背嚢を背負った二百名の一団は、翌日の午後、港の見えるこのウラジヴォストクの収容所に別れを告げ、市街地を通って駅までの道を歩いたが、到着した時は既に夕刻に近かった。

 暮れてゆく駅前広場の薄暗がりの中で、配られてくる夕食を待つ気分で、兵隊たちは広い植え込みの中に銘銘腰を下ろした。闇に包まれようとする街路を、電車と自動車のライトだけが、時時ギラリギラリと走り過ぎて行く。

 手許の資料を基に指を折ってみると、この日は十一月の二十五日前後ではなかったかと推定されるが、早くも冬に入っているウラジヴォストクの夜は、既に耐え難い寒さの中にあった。

 捕虜の日本兵達が腰を下ろしている柵の周囲には、いつの間にか人垣ができていて、珍しげなロシヤ語のざわめきの中に取り巻かれていた。

 遅くまで心待ちに待ったが、この晩は、とうとう夕食のパンが配られることはなかった。兵隊たちは諦めて、水筒に口を当て、水だけを何度も飲んだ。植込みの樹木を通した闇の中に、街の黄色いあかりが点点とあった。

 駅の構内に移動したこと、有蓋貨車に乗込んだことなど、何ひとつ記憶にないが、夜の暗がりの中に、鉄道の枕木だけが、暗い色に塗られた抽象画のように、あたりの風景の中に点在していたことが、今も記憶の底に残っている。

 これが、シベリヤの伐採作業に出発する夜のウラジヴォストク駅の記憶である。恐らく、寒さと絶食で疲れ切っていて、何がしかの細かい記憶を留めるだけの余力を残していなかったのであろう。

 目を覚ました時は列車の中であった。列車は驀進していた。広い車内に広げられた筵の上で、誰もぐったりと、座ったり横になったりしている。筵を通して尻の方から冷えてくるので小便を催す。中央にビール樽が置かれていて、ここが便所であることに気付いたのは、底の方で水の音がしていたからであった。

 どれくらい走ったのかわからないが、恐らくは眠っていたのであろうか、気付いたときは停車していた。

 「駅だぞ」

という声に我に返り貨車の小窓から外を覗くと隣の線にも貨車がとまっていた。

 重い音がして扉が開かれると車内にまぶしい明かりが差し込んできて、明かりと同時に、けたたましい日本語が耳を叩くように飛び込んで来る。それは、

 −−全員外へ出て大小便を済ませよ。食料が配られるから飯盒を用意せよ−−

と叫ぶ伝令の声であった。

 線路へ跳び下りる。大きなシベリヤ鉄道はかなりの高さである。病み上がりのように足もとがフラつく。

 広い構内であるが、歩いてみてもあたりに町らしいものはどこにもない。いくらかおぼつかない足で更に歩いてみる。見渡す限り天空とつながった漠々たる曠野である。誰かが置き忘れた地の果ての小駅であろうかと思う。すべてを無にしてしまうような深い寂寞が、僕を小さくする。

 用を足してから車内に戻ろうと思い、次の線に止まっている貨車の陰に近づいてみると、黄色い下痢の跡が、点々と幾つも散っていた。すでに、兵隊の中には下痢をする者が出はじめていたのである。

 空腹になれば下痢などしないのが普通のことと思われがちだが、シベリヤに抑留された兵隊たちは、例外なく下痢をした。この頃までは、僕はまだ幸いにも下痢をしていなかったが、ぐったりと疲れた顔を見せていた兵隊たちは、既に下痢の始まった者達であったに違いない。

 貨車に戻り、外の空気を吸って幾らか元気を取り戻したのか、兵隊たちの顔にも生気がもどる。

 やがて黒パンが分配される。ボロボロの、固い褐色のパンであるが、どの顔も蘇生の思いで待つ。だが、量が少ないので、食べ終わると急に空腹感に襲われる。それまでおとなしく眠っていた感覚が急に目を覚ますのである。この思いは、僕だけのことではなかっただろう。

 車中に心細い三度の夜を送った。そして小さな駅に着いた。

 広げていた軍用毛布を、キリリと背嚢に装着し、それを背負ってプラットホームに降り立つ。背中にぎこちなさを感じる。肩を動かしながら見上げると、広い空が寒寒と暮れ残っていた。

 駅の構内は、白く塗った貧弱な木の柵で外と仕切られている。小さな田舎の駅のようだが、この小駅にも近くに町や村らしい家並みはみあたらない。少し離れた所まで行けば、恐らくは村落か小さな町があるのだろうが、それにしても、この国はよくよく人口密度の稀薄な国だと思う。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

  連載一覧へ  トップページへ