クローンの問題を考える

        村上 陽一郎

2002.7.20 215 


 クローン羊

 現在問題になっているクローン技術は、周知のようにイギリスでヒツジを使って行われクた核移植クローンによるドリー出産に関わる問題である。そのほかにもクローン技術は存在している。もともと「挿し木」を意味するこの言葉の原義からも判るように、植物の世界ではこの技術は大変ポピュラーなものである。例えば芋類の栽培は、ジャガイモの場合は芋そのもの、サツマイモの場合は茎を使う、という差はあるものの、完全にクローン技術を使っていると考えてよい。ソメイヨシノもまた、クローン技術の所産である。また動物、それも高等哺乳動物を扱う畜産においても、すでにドリー出産とは異なった方法のクローン技術は普及している。ではドリー出産の基になった核移植クローン技術とは、そもそもどこに特色があるのか。

 すでによく知られていることだとは思うが、議論の基礎として、最小限の解説を試みることから始めよう。一般に有性生殖を行う動物の場合、体細胞は二セットのゲノム(染色体の基本構成)、生殖細胞は一セットのゲノムを持っている。生殖細胞の産生の際に、ゲノムが一セットに減るメカニズム、つまり減数分裂については、中学でも学ぶはずだ。受精によって、ゲノムは二セットに回復する。したがって、通常体細胞の二セットのゲノムのうち、一セットは父方、もう一セットは母方由来ということになる。つまり授精という現象は、異なったゲノムのセットを、新しく組み合わせることにその目的があることになる。

 さて、ドリーは、次のような手順で産出された。先ず母となるヒツジの卵(当然ゲノムは一セット)を採取して、この核を除去する。そして別の(である必要は、原理上はないのであって、自分の体細胞であっても構わないが)ヒツジの体細胞の核(厳密に言えば多少の細胞質も含む、言うまでもないが、この場合はゲノムは二セット)を、空になった卵の核部に移植する。するとこの卵は生殖細胞でありながら二セットのゲノムを持つことになる。二セットのゲノムを持った卵は、構造上、また機能上、受精卵にほかならないから、これを子宮に戻せば、受精卵と同じように発生して一個の個体へと成長する可能性が生まれる。ただし、そこでの二セットのゲノムは、ともに、体細胞を提供したヒツジと「同じ」ものになる。このように同じゲノム二セットを持つ個体どうしの関係をクローンと呼ぶから、したがってドリーは、体細胞を提供したヒツジの「クローン」と言われるのである。

 このように説明すれば、例えば芋の芽の部分を含む一部を植えるジャガイモ、あるいはある「個体」(植物の場合、この言葉は使い難いが)の茎を植えるサツマイモなどの場合に、そこで産出されてくる新しい「個体」が、材料を提供した「個体」と同じゲノムの二セットをもっている、つまりクローンであることは容易に判るだろう。

 もちろん、上の記述は原理的な話だけで、実際には、その手順の各所に、超えなければならない技術的な困難が幾つもあって、とくに高等哺乳動物では、それらが簡単には超えられないはずだという常識であったために、ドリー誕生は衝撃的であったし、そこから、同じ高等哺乳動物の延長線上にある人間への、この技術の応用が一挙に現実味を帯び、社会問題に発展したのであった。

 このような技術の人間への応用に関しては、すでに日本でも法律を造って、個体の産出に関しては罰則を伴う禁止を定めている。しかし、他方に、幾つかの需要があることが、議論を複雑にしている。第一の需要は個体の産出についてのもので、不妊治療への要望が絶えないことである。男性の側の問題(無精子症、あるいは精子無力症など)で、子供に恵まれない夫婦は、通常AID(非配偶者間人工授精)という方法を使う。これは健康な精子を得るために、ドナーから提供を受け、それを膣内で妻の卵に人工的に受精させる方法である。この方法に関しては、日本では体外受精(IVF)は認められていないことを付け加えて置こう。しかし、夫婦によっては、隠れた形であっても、他の男性が介在することによって、自分たちの子供を得る(結果だけから見れば、妻の「不倫」の結果得られた子供に等しい)という状況に耐えられない、という場合が生じる。このとき、もし夫の体細胞を材料にドリー産出に使われたクローン技術を使って、子供が得られれば、それは、自分たち夫婦の「子供」であるという満足に繋がる。このような意味では、女性どうしのカップル(アメリカでは、男性どうしのカップルも含めて、すでに幾つかの州で、法律的に夫婦として扱うようになってきている)が、「自分たちの子供」を得ることも可能性を帯びてくる。

 イタリアの医師を中心にしたグループが、この種のクローン個体産出を手がける、という報道がしきりである。あまり信頼性はないが、しかし、彼らの発表によれば、日本からも何組か希望登録が行われているという。

 もう一つの個体産生の需要は、子供を失った両親の間にとくに顕著に見られる。亡くなったこどもの体細胞を活かしておいて、それをもとに、死んだ子供の「復活」を試みたい、という願いがあることである。

 そのほかにも、自分のクローン個体を造っておいて、臓器移植の必要が生じたときに、それを利用するとか、同じ個体を多数作り出して、兵隊に利用する、などということも語られることがあるが、これらは興味本意のSF的空想の産物であって、実際にはあまり検討するには値しない。もっとも、死んだ子供の「復活」という願いも、極端な誤解に基づいていることはここで指摘しておくべきだろう。仮に七歳で子供が亡くなったとしよう。死ぬ前に体細胞を採取して保存し、それを母なる人が提供する卵に核移植して子宮に戻し、妊娠が成功して子供が得られたとする。その子供は、亡くなった子供と「同じ」だろうか。こうした問い自体が無意味であることは、本来誰にでも判るはずのことである。断じて「同じ」ではないからである。その子供は確かに亡くなった子供とほぼ同じ(絶対に「同じ」にはならない)遺伝情報のセットをもっていることは確かである。しかし、その意味では一卵性双生児の場合でも同じで、ほぼ「同じ」時期に育って、ほぼ「同じ」経験を積んできた一卵性双生児の場合でも、個性は存在するし、第一、その双生児が「同じ」であるなどという馬鹿げたことが言えるわけがないではないか。まして、七年前に生まれた(そして亡くなった)子供 と、これから育つ新しい(クローンの)子供とが「同じ」であるなどと言い得ないのは自明である。たとえクローンたりとも「同じ」などということはそもそもあり得ない。クローンの子供に亡くなった子供の「代わり」をさせることは、絶対に不可能である。これほど自明のことに、ときに思い至らない見解を聞くことがあるのは、正直のところ理解に苦しむ話である。したがって、この種の「需要」に関しては、それを否定する充分な根拠が存在すると言ってよいだろう。

 しかし、不妊治療の一環としてのクローン個体産出の要望に対して、充分説得的な反論を提供することは、必ずしも容易ではないことに気付いておくべきだろう。「倫理的」と言われる理由も、よく吟味してみると、それほど決定的とは言えないからである。例えば個体のアイデンティティの問題がときに論じられることがあるが、これは上に述べた、亡くなった子供の代わり、というときの議論がそのまま適用されるだろう。つまりクローン個体が生まれたからと言って、アイデンティティの問題などは起こらない。それは一卵性双生児にそれが起らないのと全く同じである。一卵性双生児は倫理的に(アイデンティティの)問題があるから禁止すべきだ、という議論をしてみれば、この話が全く説得的でないことは一目瞭然だろう。

 人間の出生に人間が介在することは倫理的に問題である、ということは、現在のように生殖技術が進んできて、その状況を認めてしまっている我々としては、もはや説得性を認めることはできない。

 生まれてきた子供が、将来自分の出自を知ったときにどのように受け止めるか、受け止められないか、判断できないから、われわれはそのような倫理的責任を負うことも、処理することもできない、という見解は、その限りでは正当である。しかし、その点が、刑法上の罰則を伴うほど厳しい禁止を導くほどの根拠になるだろうか、という疑問もまた、ある程度の正当性があることを認めなければならない。臓器移植のためにクローン人間を造っておくというのも、人間をそのような目的に利用するためにのみ造ったり「保存」したりすることが、倫理的に問題なのであり、あるいは、そうした個体から必要な臓器を取り出すことは、そのこと自体が(現在の脳死―臓器移植法で許されている条件を満足していなければ)犯罪なのであって、それが「クローンだから」では決してない。

 通常クローン人間という言葉を聞いたときに、ほとんど本能的に感じるおぞましさ、あるいはグロテスクさを、詳細に吟味していくと、意外に奇妙な思い込みや誤解の結果であることが判ってくる。

 もちろん、クローン個体産出に関しては、倫理的と言われる場面以外にも、規制や禁止の理由は見出せる。例えば、生殖という概念の本来の意味を考えてみると、それはすでに述べたように(とくに高等動物では)、ゲノムの組み替えにその本質的な意味があることははっきりしている。父方と母方からの一セットずつのゲノムの組み合わせによる「多様性」の産生こそが、生殖の意味である。それが種の「強さ」である。「同じ」ゲノムを繰り返し使って個体を受け継いでいくことは、とくに高等動物では種の劣化に繋がる、という生物学的見解は、信頼のできるものである。この理由付けからの反対は、したがってある程度の合理性を持つと言ってよい。しかし、現在不妊治療としてクローンを望む人々、あるいはそこでクローン個体産出にまで至る人々の数は、全地球上の人間の個体数から考えれば、およそ微々たるものであって、「ヒト」という種の生物学的劣化を招く、という論理は、特定の夫婦に対しては、あまり説得性を持たないことも明らかである。

 子供は男性と女性とが協力的に介在することによって生まれるべきである、という「べき」論もないではないが、その「べき」は何から来るのか、と言われれば、永年人間はそうしてきた、という以外の理由付けを探し当てることは難しい。

 もちろん、このところしきりに報道されるように、ドリーには、色々な不具合が生じている。つまり、ドリー産生に使われた手順(核移植も含めて)のなかに、その後健康な生涯を過ごすための障害になるような原因を作ってしまう可能性があることは確かであって、この技術の安全面に問題があることは否定できない。人間に適用しないという禁止の理由として、もっとも現実的で確かなものは、この安全性に関する不安である。しかし、この理由は、本質的なものとは区別されなければならない。技術的に安全が保証される時代が来た時には、この理由に頼ることは不可能になるからである。

 もう一つ考慮しなければならないのは、個体以外のクローンである。医学の世界では「治療的クローン」と呼ばれることもあり、あるいは、「クローン」という言葉を使うから、無理解な反対に出会うのだから、クローンという言葉は使わないようにしよう、という意見もあるほどだが、この技術は、とくにES細胞(胚性幹細胞)との絡みで脚光を浴びてきた。

 ES細胞というのも、現代医療の世界を騒がせている新しい発見で、ドリーの翌年に最初の報告があったものである。ここでは詳しい説明をする余裕はないが、簡単に言うと「多能細胞」つまり「何にでもなれる細胞」である。IVF(体外受精)では、子宮に戻されなかった受精卵が残るのが普通である。こうした受精卵は、患者との申し合わせで、(日本では)一年間は凍結保存するのが通常の扱いである。一年後、なお当事者が、それらを不要であると判断したときには、それらは廃棄される。凍結技術の進歩で、凍結された受精卵でも、解凍して子宮に戻せば、うまくいけば妊娠に繋げることができる。しかし、不要と断定されたものは、これも患者の同意の下で、研究用に使われる少数を除けば、捨てられることになる。

 この凍結余剰胚を試験管のなかで発生させて、七日目辺りになると「胚盤胞」という時期を迎える。この時期にその胚を壊して、内部の細胞の塊に処理を加えるとES細胞が得られる。この細胞の特徴は二つある。一つはすでに述べた「多能性」であって、通常の体細胞は分化してしまっており、皮膚の細胞は皮膚の細胞にしかなれないのに反して、このES細胞は皮膚にも、肝細胞にも、あるいは神経細胞にもなれる可能性を持っている。もう一つの特徴は無限(事実上)に分裂する能力をもっているらしいことである。通常の体細胞はどんなに条件がよくても六〇回ほどしか分裂できないとされている。ところがこのES細胞は、ちょうどガン細胞と同じように分裂回数の上限がないと考えられる。このES細胞は、うまく操作すれば、破損した組織に植え付けることによって、その組織の「再生」を可能にするので注目されている。もっとも、捨てられる運命にあるものを使うと言っても、そのつもりになれば一人の個体に成長する可能性のある胚を材料に使うことに、倫理的問題を言い立てることは可能であり、実際にもそうした議論があるが、ここでは立入らない。

 いずれにしても、クローン技術とES細胞とを組み合わせるとどうなるか。つまり、例えば私が、採取された連れ合いの卵を利用して、私の体細胞から核移植をしてもらう。すると私のクローン卵ができる。それを試験管で発生させて七日目にそれを壊してES細胞を得る。それを土台に脳出血のためにダメージを蒙った脳にそれを移植する。すると、ES細胞はそこで神経細胞として分裂・増殖を始め、うまくいけば、既存の生きている神経細胞との連絡も生じて、脳機能を「再生」することができることになるかもしれない。素材は自分の細胞だから、免疫機構による拒絶反応も少ないに違いない。

 このように考えると「個体クローン」ではなく、言わば「部分クローン」という可能性も充分にあり、これも全面的に禁止というのは、医療の将来の可能性に対して、極めて大きな問題となるのではないか、という意見が生じてくる。実際、マウスその他の動物では、この方法で有効な結果がすでに得られているのでもある。

 結局ここまでの記述では、クローン技術を人間に適用することの本質的不都合というのを、それだけでは見出すことは難しいことになるのではないか。そうだとすると、われわれは、受精卵、胚などをどのように扱うべきものと考えるか、という最も根源的立場に立ち戻らない限り、こうした議論に決着をつけることは不可能である、というところに立っていることになるだろう。しかし、この手の根源的議論は、日本社会の最も苦手とするところである。さて、どうするのか。


むらかみ よういちろう/国際基督教大学 教授

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