教育に関する二つの事件

             野葉 茂

2002.9.20 217 


 愛媛県庁で記者会見する藤岡氏ら

 二〇〇二年八月、教育をめぐるいくつかの動きがあった。覚書風でもうしわけないが、記してみたい。

 「第二次大戦で、日本はアジア『諸国』を侵略したわけではない。当時の東アジアには、中国、タイのほかは、米、英、仏、蘭などの植民地しかなかった。大戦突入以前からの日中戦争の継続局面を除けば、日本はこれら『欧米諸国の領土』に侵攻した、という戦争である」

 大東亜戦争肯定論もはだしで逃げ出す、あけすけな帝国主義の歴史観。今年の八月一五日の『読売新聞』社説である。この日に愛媛県教育委員会が「新しい歴史教科書をつくる会」(以下は「つくる会」と呼ぶ)制作の『新しい歴史教科書』を中高一貫校で採択することに決めたのは決して偶然ではないと思う。

 愛媛県当局は、県知事以下、強硬にこの教科書の採択を迫っていたことは、既に報道されている。知事は「この教科書がいい」と発言し、警察は「反対派からの妨害から採択を守る」と称して、教育委員会の会議場を警備していた。委員会審議の結果が『朝日新聞』にスクープされていたが、この報道では、採択順位「第二位」でしかなかった『新しい歴史教科書』が、何らかの政治的圧力で結論を覆されて採択された可能性を示していた。

 中高一貫校、といえば、公立エリート学校である。ここでの『新しい歴史教科書』採択は、「つくる会」や、それを支持するグループにとっては悲願であったはずである。藤岡信勝氏は「愛媛を守るたたかいに全会員の行動を呼びかけます」という見出しだけ見れば『赤旗』そっくりの記事を「つくる会」機関誌に書いた。その突破口が、実際に開かれた。これはかなり重大な事態である。

 無論、教科書を変えたから、一人一人の学生の歴史観が変わる、というほど物事は単純ではない。ワールドカップで日の丸を振った観客が右翼であるとは断言できないのと同様である。だが、当初は「つくる会」の姿勢とは距離を置いていた『読売新聞』の今回の社説は「自虐史観派」という言葉まで使っている。日本で最大の発行部数を持つ新聞が、かくも政治的に低劣なジャーゴン(注:訳のわからない言葉)を取り入れるということに、ある潮流の変化が確実にある。同社説は「アジアにおける近代史の実態、そうした時代環境を踏まえた上での日本の近・現代史、さらには戦後史を虚心に洗い直してみること」を呼びかけた。「現在の日本では、これは決して、戦前のような軍国主義への回帰を志向することなどにはならない」などと書いているが、あたりまえである。二度めは茶番である。共産主義者の経験がある経営者を頭にいただいた同紙の編集幹部が、それを知らないはずはなかろう。

 ただ、いい添えなければならないのは、『読売新聞』だけがこうなっているのではない、ということである。朝日新聞社の『AERA』誌(八月の発行)に載った「哲学を忘れた日本人」というスタッフライターの記事では、憲法九条を「さっぱりわからぬ文章」とし、憲法制定過程に関する改憲論者の意見だけを載せた。無知でなければ、悪質な挑発記事である。

 しかし、二度目を回避しても、三度目の茶番はあるかもしれない。政治的には民主主義、対外的には対米隷属、そしてグローバルな帝国主義国の再生を夢見るためには、強固な「自国意識」は必要なのである。だからこそ、歴史に「アイデンティティー」が呼び出される。内外からの批判を「とやかく言われる筋合いはない」(愛媛県教育委員会委員の発言、『産経新聞』八月一六日、ただしインターネット版)とはねつけることだけが賞賛される。

 トメテモトマラヌモノナラバ、コロガセ、コロガセ、ビイル樽(北原白秋)

 しかし、止めなければたくさんの人が轢かれて死ぬだろう。引かれて死ぬのが日本人でなくても、それは、避けねばならない。

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 「一部の人は、あたかもブルジョアジーにはなんの思想もないかのように思っていますが、それは誤った考え方です。共産主義者には共産主義思想があるのと同様に、ブルジョアジーにはブルジョア思想があるのです。彼らは彼らなりに自分の思想を信奉する忠犬を育てるのです」(金日成回顧録第七巻より)

 右記の文章を書いた後、私は仕事で上京した。帰る日に時間があったので、私は靖国神社の「遊就館」を訪ねた。ここは、数年がかりの改修工事を終え、今年の夏新装オープンしたのである。大きくなったとは聞いていたが、すごいものであった。

 展示室は二〇以上。陸海軍の歴代元帥肖像写真と、「愛国的」な和歌の展示室から始まって、戦死者の写真と遺書・遺品をずらりと並べた部屋(明らかに知覧の特攻平和祈念館をまねている)まで。文章による説明、ニュース映画、遺品。日露戦争に至っては、日英両国語の解説つきで、パノラマを上映していた。解説の詳しさや、説明のしかたに戦没者遺族ではなく、若い世代にターゲットを狙いなおしていることが読み取れるのである。

 当然、『新しい歴史教科書』そっくりの文章解説であったことは言うまでもない。そこには、戦後歴史学の達成した歴史教育を力ずくで書き直そうとする意志を感じた。生の史料まで、そこにはあるのだ。手記。陣中日誌。日記。写真。出征直前に録音された戦死者の生の声を録音した貴重な生テープさえ、参観者が聴くことができるように作られていた。「特別展示室」には、歴代天皇の着用した軍服が飾られていた。学校では触れることのできない、「歴史」が、このようにして若者に伝えられる。学校以外の「教育」機能が、このように利用されているのである。

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 教育への攻撃が勢いを増している。「つくる会」のような、右翼運動ではない。行政機関を中心とした、制度的・合法的手段での戦後教育抹殺がいよいよ発動されている。「国旗・国歌法」による教職員組合への絨毯爆撃が第一ラウンドであったとするならば、今度はそこへ陸上兵力をゆっくり侵攻させていく動きであろうか。

 本誌七月号・八月号の、広島の教育事情を記した記事は、私を少なからず震撼させた。「ゼロトレランス(イントレランス、となぜ言わなかったのか。ゼロを強調して、毛筋ほどの同情もあってはならぬ、という意気込みを示したものか)」によって放逐された生徒。定時制高校の強硬な統合。教室に飾られた、「平和カレンダー」一枚を、県教育委員会の視察員が目に留めただけで、学校管理職は恐れをなしてこのカレンダーを力ずくではがした。これが、アメリカの覇権主義を批判した市長を戴く県都を持つ県の教育現場である。

 文部行政が、「学習指導要領」をめぐってゆれていることは事実であるが、そこにだけ目を奪われてはいけない。「迷走」は戦術面だけである。大方針は全く揺らいではいない。シンガポール型の悪名高き「早期選別」教育と、思想的な面での改編である。教育基本法論議があまり報道されないが、着々と進められていることは、本誌でも取り上げられている通りである。普遍主義的な教育理念を葬り、ナショナリスティックな信念と、プラグマティックな「生きる力」の育成がめざされている。

 「つくる会」教科書の基本思想が、一貫した国際社会への不信感で塗り固められていることはよく知られている。国際社会で国際競争(それは勝たねばならないものである)に堪えうる力を持つエリートを育成すること。彼ら以外の人間は、状況に従順であること。しかし、全員を通じて、国家戦略や国家自体への透徹した理性的判断は拒絶すること。現在の文部行政(それはもはや「科学技術行政」の一部でしかないのだが)、「知的創造戦略」路線は一貫したものである。本文の中に引用した故・金日成北朝鮮国家主席の文章は、彼がゲリラ時代、日本兵の死体から遺書を見つけたというエピソードに添えられたものである。強力な軍事力と狂信的国家主義は難なく同居できるのだ(そして、今の北朝鮮が似たような事をやっているのも皮肉だが)。公教育の縮小を支持し、強力な国家を支持するのは矛盾しない。

 労働現場への管理の徹底。「研修日」撤廃、校長中心主義運営システム(校長が無能だったら、という前提はない)。職能給制度の導入。教師の民間企業への派遣。「指導力不足教員」排除。文字を並べるだけで疲れるような、果てしない労働強化である。このようにへとへとにされた教師に教わる子供たちは、楽しいだろうか。面従腹背の教師と、その指導に苦しむ(あるいは、そこから精神的にも逃げている)生徒の姿が浮かび上がる。

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 戦後の理念は、教育レベルで完全崩壊に近づいている。
 二〇〇二年八月二三日号の『週刊金曜日』は、今年八月一五日、靖国神社で若者グループが特定の新聞社・テレビ局の記者を探し出して取材妨害し、罵声を浴びせるという事件があったことを伝えている。これを「一部の若者」と侮ってはならない。戦後教育打倒運動は、着実に次世代育成へと動き出している。冒頭に引用した『読売新聞』社説をもう一度読み返してほしい。もう、「大東亜戦争は諸民族の独立を促進した」という言葉を冷笑できる右派の潮流がメインストリームにあるのだ。


のば しげる/山口市在住大学教員

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