情報は誰のものか

           村上 陽一郎

2002.10.20 218−2002.11.20 219 


 「内部告発」で発覚した東電原子炉損傷に謝罪


 東京電力をはじめとする原子力発電所の検査を巡る不祥事が話題になっている。問題の本質は、安全を期して定められた製品納入時の基準が運転後もそのまま保続されていたことにある点は、およそ誰もが認めている。

 運転を続けていくうちには、装置は当然経年疲労などで、初期の状態から変化する。あるいは劣化する。どこまで劣化が進んだら「安全」が損なわれ、あるいは「危険」と見なして対応を考えるか、という基準は、初期の基準とは当然異なってよい。そうした維持基準が別に定められていたら、恐らく今度のような「疵」隠しは起らなかっただろう。その意味で、東電にも同情すべき点はある。しかし、その本質はともあれ、「疵」を報告しなかったり隠蔽したり、という行為そのものには、同情の余地は全くない。「疵」が見つかった段階で、安全な運転に自信があるならば、堂々と公表した上で既定の検査基準には合致しないが、むしろ基準を改訂すべきであるとして、改訂に向けて、活動を始めるべきであったことは、議論の余地がない。

 それはともかく、今回の不祥事が露見したのは、検査を請け負ったGEの技術者の一人の「内部告発」がきっかけであった。JCO事故を教訓として、現在原子力関係では、公益が損なわれると判断される可能性のある事柄については、事業所内部からの申告を受け付ける制度が出来ている。今回の「内部告発」はその第一号であった。

 この「内部告発」の問題に関しては、現在内閣府が一般的な見地からその重要性を認め、かつ社会的な不利を蒙ることの多い「内部告発者」の保護を目的とした法律を制定する必要があるとして、検討のための委員会を組織し、来年の法律制定を目処に作業を続けていると聞いているが、原子力関係では一足早く、こうした制度が定められたことになる。

 「内部告発」というと、日本社会では組織内の人間が、外部とくに新聞や週刊誌に組織内の情報を「タレこむ」という行為を指すと考えられているようで、私怨を晴らしたいとか、組織内の勢力争いを有利に導きたい、というような正当とは言えない動機から、あることないことをメディアに告げ口をすることだ、という印象が拭いきれない。実際これまでの「内部告発」と称されるものの相当部分が、その類のものであることは、マスメディアに関わる人間ならば誰でも知っているだろう。そのためと思われるが、私はここ十年ほど、とくに内部告発制度の重要さを訴えてきたが、企業や組織関係者はもちろん、有識者と言われる人々の間にも、強い難色が見られる。

 しかし、ここには二つの重要な点の見落としがある。第一には、最近に限っても社会問題化した組織や企業の不祥事の大半は、東電の例も含めて「内部告発」によって明るみに出たものである、という事実がある。つまり、「内部告発」は、少なくともその一部は、実際に有効性を持っているのである。そして第二には、「内部告発」というのは、決して組織内部の情報を外部のメディアに「タレこむ」ことではない、という点である。英語では「内部告発」に相当する語は<whistle blowing >と言う。実際日本でも、関係法案の制定を目指す人々の間には、「内部告発」という言葉を嫌って、「ホイッスル・ブロ―」と言い換えようとする動きも散見する。この英語の原義は言うまでもなく、鉄道で、障害物を見つけた機関士が、紐を引いて警笛を鳴らすことにある。危険を察知して警報を発することである。外部に「タレこむ」という意味は本来ない。

 東電の事件でも、情報の申告先は、エネルギー庁の原子力保安院であって、外部のメディアではなかった。つまり、メディアへの「タレこみ」というのは、「ホイッスル・ブローイング」の本来の姿ではないことは銘記されなければならない。

 そもそも、組織には、多かれ少なかれ職務に纏わる情報に関して、その職務に携わる人間に対して守秘義務が課せられる。めったやたらと極秘だの部外秘だのの朱印を捺したがる組織関係者は困りものだし、情報の開示や公開という点から、どの情報に関しては「守秘」義務があるか、という点には、問題となる文脈の吟味も含めて、充分な検討が必要ではあるが、しかし、職務に関する情報で、守秘が求められるのは、医師や裁判官だけではない。つまり、職務の上で知り得た情報を妄りに「外部に」持ち出すことが、本来問題を孕んでいることは認めなければなるまい。したがって、ここには二つの(必ずしも相互に排除するわけではない)選択肢が生まれる。

 第一の選択肢は、組織内に「ホイッスル・ブローイング」を受入れ、充分な配慮に基づいて調査がを行い、かつ、正当と思われるものに対しては、充分に改善策を実施するように計らう、という機関を設けることである。第二の選択肢は、それなりに実効性を備えた第三者機関を設置し、守秘義務のあると思われる情報は、その機関内に止めておく、という措置を講じることである。東電のケースはこれに当る。

 もちろん上にも述べたように、開示あるいは公開すべき情報と秘匿すべき情報の区別については、どのような文脈でそれが問題になっているか、という点での考慮も必要である。裁判の証拠なのか、人事考課の材料なのか・・・、いくらでも考えられる。なかでも、この問題に関して、重要なのは「公益」に関わる、という条件であろう。

 「公益」のためならば、という条件は「内部告発」の正当性にとっても、最重要なものであるが、では次のような場合を考えてみよう。

 二〇〇〇年の暮れ、イギリス政府は、ある決定を発表して、世界に衝撃を与えた。もっとも決定と言っても、輿論を喚起し、意志決定へ持ち込むためのアドバルーン風のものであったようだが、それはDNA情報に関するものである。HD(ハンチントン病)と呼ばれる疾病がある。完全な遺伝性の疾患で、遺伝子診断で判別ができる。三十歳台を過ぎて発症し、神経細胞の変性、筋肉の萎縮が進んで確実に死に至る。日本人ではかなり稀だが、白人では、日本人よりも一桁以上多くなる難病である。遺伝子の問題なので、実質的治療法はない。イギリス政府は、ある個人がこのHD保因者であるか否かの情報を医療機関が持っている場合、その情報が社会的に利用されることを妨げない、と発表したのである。もっと直接的に言えば、保険会社が加入時にその情報を入手することができる、という意味である。

 こうした医療上の個人情報は、本来、最も厳しく医療機関と当事者の間のみに秘匿されるべきものと考えられてきたから、このイギリス政府の発表は、確かに衝撃的なものであった。もちろん、この発表には、それなりの論理が存在した。それは、概ね二つの論拠に基づく。第一は、家族にHDがいるような個人は、これまで、その事実のみで、保険契約から排除されてきた。家族の病歴を契約時に尋ねることは、日本も含めて、多くの社会で容認されているからである。しかし、近い血族に患者がいるからと言って、必ず保因者であって、いずれ発症する、とは限らない。したがって、その個人が保因者でないことが判っているときに蒙る謂れ無き不利益を、この処置によって排除できる、というわけだ。

 第二には、むしろここが問題なのだが、公益のため、という論拠である。もしも、保因者がそれを隠して、高額の生命保険に加入し、保険料を払う期間が短いままに、保険金を受取るということが頻発すれば、それは、その保険会社に契約する善意の第三者たちの利益(それが「公益」ということになる)を著しく侵すことになるからである。

 果たして、こうした「公益」が、個人の持つ医療上の情報を公開される条件として認められるのか。議論はあるだろう(イギリス政府もそれを期待したと思われるが)が、個人情報とは一体何なのかを考えさせる事例の一つである。

 前回、情報の開示と「公益」という問題を巡って、イギリスの政府が示したハンチントン病に関わると考えられる医療情報を、「公益」という観点から開示してよい、という判断事例を紹介した。そこでは個人情報、それも社会では最も強い秘匿性が求められて示されていた。この場合個人の医療上の情報が、社会全体の共有するところとなる、ということでもある。アメリカでは強い反発が起こり、日本でも驚きと批判が相次いだ。ここで言う「公益」が直接的には保険会社の「利益」と重なっていること、つまり「公益」という概念が間接的であり、「益」を被るのが、「善意の第三者」とは言え、保険会社の契約者に限られる、ということも、批判点の一つとなった。

 この論理を拡大すれば、多くの企業の「内部告発」(その意味は、すでに前稿で明らかにしたように、決して「外部メディアにタレ込む」ことと同じではない)も、企業の成立基盤を危うくし、それによって間接的には企業被雇用者や、関連して「益」を受けている人々に「損害」を与えるという観点から、厳しく制限されなければならないことになる。

 もちろん「公共の利益」という概念が、しばしば恣意的に使われることは、多くの事例で明らかだし、そうでなくとも、「公共の利益」どうしが相互に対立することも有り得ることが、問題を複雑にしている。

 次のような例を私たちはどう考えたらよいであろうか。読者は「あすの会」という団体をご存知だろうか。別名を「全国犯罪被害者の会」というこの会のパンフレットは、「長い間忍従を強いられてきた犯罪被害者が、犯罪被害者自らの手で、会を設立したのです」と記している。

 この会が二〇〇一年に発表した決議文は、次のような文章で始まる。「犯罪被害者は、事件の当事者として、加害者と犯罪事実の詳細について特別の関心を持つことは当然であり、犯罪被害者がそれらについての“知る権利”を有していることは、今日、世界的に広く認められているところである」。この決議文のなかでも、こうした「知る権利」が「公共の利益」と直截繋がるものでないことは認められている。それは「刑事司法は、公益のためだけでなく犯罪被害者のためにも存在するという原則を確立する」べきである、という文章からも推定され得る。しかし、ここで問題とされているのは、特定の犯罪被害者ではなく、犯罪被害者一般であり、その意味では明らかに「私益」ではない。そして被害者の立場に立つとき、こうした訴えは一般論としては、まことにもっともということができる。

 しかし、この場合、そのもっともさは、加害者の「人権」やプライヴァシーの保護という、これも一般的な権益と、どれほどの比較考量をもって判断されるのが至当なのであろうか。情報の開示の範囲を定める基準を、どのように考えたらよいのであろうか。

 もう一つの例を考えてみよう。現在日本の医療の世界は、「神聖さ」(さる副大臣なるものは、「ユダヤ人のようながりがり亡者が、“神聖な”医療の世界に介入しようとしている」と、医療の自由化を攻撃したという)という言葉に守られて、およそ神聖さとは程遠い「密室性」のなかで、ぬくぬくと生きてきた。例えば医療機関の機能評価は、マイナスの面こそ公表すべきなのに、そうした情報は隠蔽されたまま、消費者の手にはなかなか渡らない。その意味で、医療の世界ほど、透明性と情報の公開・開示が必要な領域はほかにないと言えると私は確信している。

 もっとも、こうした透明性は、実は医療消費者の側にも必要となることも指摘しなければならない。恐らく本誌の読者の多くから反発を買うことを承知で書くが、少なくとも医療効果を考える限り、私は総背番号制に反対でないどころか、むしろ積極的に推進すべきだと考えている。それは個人の医療情報の一括管理が、前歴、アレルギーなどの把握や、重複投薬の排除などに著効があり、言わば効果的な治療のために不可欠であるというだけに留まらない。

 ある医療グループの調査によると、日本の医療の世界で起こる事故のなかで、最も多いのは患者の取り違えである。勿論、手術患者の取り違えという未曾有の事件が数年前に起こったが、それは論外としても、患者の取り違えは日常茶飯に起っている。病院の調剤部が出した薬が、渡るべき人とは異なった人に届いているとか、別人の点滴の袋が使われる、などの事件は繰り返し起こっている。調剤部で人を呼ぶときに、氏名の名まで呼ぶよう習慣付けている病院もあるが、それでも渡し違えの事故は起こるし、同姓同名がいないとも限らない。また、氏名を呼ばれることに抵抗を感じる人々も多い。こうした事故はICカード一枚で容易に防ぐことができる。もう一つ大事なことは医薬品にも、すべて、バーコードを打って、製薬会社からエンドユーザーまでの流れを、一括管理できるようにすることである。

 しかし、次のような問題に向かうとき、私は一つの躊躇を余儀なくされる。医療人は暗々裏には認めているが、現在ヨーロッパの幾つかの国々で法的な自由化への方向に動き出している安楽死は、日本でこれまでも実は数多く行われてきているのである。「六つの眼」などという言い伝えがあるが、これは、当事者が三人まで、というのが実行のための要件となってきたことを物語っている。

 つまり原則として、当の患者と医師、この二人の間に(場合によっては、それに加えるに医師、患者の双方が信頼するもう一人の家族か関係者)、深い人間的な信頼関係が結ばれ、お互いの理解の上に、患者を死へ導く薬が渡される、という事態は、これまでに決してないわけではなかったのである。では、今後はヨーロッパの一部の国々のように、法制化されて、充分な情報の共有と透明性が確保された上で、こうしたことが行われるほうがよいのだろうか。私は全くそうは思わない。

 そもそもこうしたことは国家の法制度には馴染まない。もう一つ大事なことは、日本社会は法を権威あるものとして受け止めることに急で、自分たちが造り上げるべきものだ、という感覚に乏しい点である。その点では、九条問題とは全く別個に、憲法を神聖化して、不磨の大典扱いをすることにも異論がある。それはともかく、一旦法律で定められると自分で考え抜くことを止めて、法律の定めるところに安易に寄りかかってしまう、という危険を無視できないのである。私が、脳死―臓器移植の法制化に今でも反対な最大の理由はそこにある。実際、脳死状態と判定された人の家族が、自分たちはやはり通常の死を迎えさせてやりたいと望むとき、法律で定められているのだから、それを実行しないことは不法では、という心理的圧力が、家族にかかることが、充分に考えられるのである。

 勿論当事者どうしの暗黙の了解が、医療の密室性を擁護する隠れ蓑に使われるとすれば、それは断じて許されないことである。しかし、もともと安楽死のような出来事は、人間の「最も善き部分」においてのみ、有り得べきことなのであって、そこに多少とも「善意」以外のものが紛れ込む可能性があるときには、決して成立しない、あるいは成立させてはならないことであると考えるべきであろう。

 もとよりこれは極めて特殊な一面である。繰り返すが、日本の医療における情報の解放は、最も緊要なものの一つである。こうした特殊な側面を洗い立てることによって、その緊要さを緩和させてはならないと言う判断もあるだろう。しかし、人間の最も深いところで、情報の透明性が、最善ではないということもあり得ることに気付いておくことも、決して無駄ではあるまい。


むらかみ よういちろう/国際基督教大学教授

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