愛媛県の「新しい歴史教科書」採択反対運動

                野村 満

2002.10.20 218−2002.10.20 219


 扶桑社版歴史教科書採択を報道する新聞


 今年も熱い闘いになった、愛媛県の教科書採択問題をレポートします。私は昨年(二〇〇一年)八月以来この運動に関わり、県教育の民主的改革を念じている元公立中学校教師です。私はこの一年の私たちの運動が、愛媛の教育の改革や県政改革の一歩になると信じて運動をつづけています。そしてこの愛媛の運動が、今後の全国的な教科書改変運動を阻止するために少しでも役立つことを念じています。

 たった六人に一五分だけ傍聴させて−−今年の教科書採択

 ご承知のように愛媛県教委は来年度開校の中高一貫校の歴史教科書に、扶桑社が編集した「新しい歴史教科書」を採択しました。それは文部科学省への報告期限最終日八月一五日のことで、県教育委員会が開かれたのは、狭い部屋の窓際に五人の教育委員が並んですわり、その正面に対面してやはり委員の一人である教育長の席。そして教育長の左右や後方には約二〇名の事務局の幹部職員が控えるという、委員の話し合いや議論の場としては異様な配置の、この部屋においてのことです。

 傍聴は抽選で選ばれたわずか六人だけが、部屋の右後方の壁際に張りついて座らされ、その中をマスコミ関係者がうごめき、隙間を縫ってテレビカメラが行き交う、そんな雰囲気の中での委員会でした。もっとも傍聴者やマスコミが入室できたのは、開会から一五分位で、「公開した」と言うための申し訳程度のもの。そして、「協議を秘密会にする動議」に反対もなく、かすかな期待も裏切られ、マスコミや傍聴者は早々と排除されました。そしてその部屋で秘密のまま二時間後に、教科書の採択などが決定され、外にいた我々にも伝えられました。あとからの情報によると、委員会後の記者会見も厳重なもので、県庁記者クラブ加盟社だけが人数も限定して参加でき、それ以外のマスコミ関係や議員さえ県教委職員によって排除されるという強圧的なものでした。

 寝耳に水の教科書採択−−昨年八月

 昨年夏「東京と愛媛県立学校の一部に扶桑社の教科書が採択された」のはよく知られています。しかし、これに直接関わった我々は「結局、計五名の生徒に不当な教科書が採択された」という、簡単な言葉では言い尽くせない、「初物ずくし」の愛媛の闘いがありました。二〇〇一年八月八日愛媛県教委は、前日の東京都につづいて「本県の障害児学校の一部に扶桑社の教科書を採択した」と発表し、全国ニュースにもなりました。それまでにも反対の運動、反対の集会などの企画もボツボツあったとはいえ、多くの県民は寝耳に水で、一体何が起こったのかさえ正確にわからないまま、翌八月九日には多くの団体が県教委に駆けつけ、結局この日は一三もの団体が抗議したそうで、こんなことも珍しいことです。

 愛媛では通常、県教委への請願や申し入れは、教育総務課が窓口です。そこで課長が「上に伝えおく」と文書を受け取り、感想や意見を求められても「私からは答えられない」と対応するのが通例です。しかしこの日は、簡単に引き下がらないグループもあり終日混乱続きでしたが、そんな中でも「教育長は年休をとっており庁内にはいなかった」というのも愛媛流でしょうか。

 午後遅く請願に訪れた教科書市民ネットのグループには、メンバーに前年の県議選で、本県で初めて当選した女性県議(三人のなかの一人)がいたこともあって、職員の対応も少し丁重となり、結局自宅にいた教育長と電話がつながり「七時以降なら会うことも可能」という返事から過去に例のない市民と教育長との会見が実現することになりました。会見を申し入れたメンバーは、知る辺や日ごろはつながりのない個人やグループへも連絡を広げたため、参加者は七〇人にもなり、十数名と思っていた教育長をびっくりさせました。

 扶桑社の優点を挙げられない教育長−−八月九日の対話

 この時の参加者のほとんどは組織に属さない人達で、質問も頓珍漢なものから正鵠をえたものまで多様ながら、論理的な追及にはなりにくく、先の質問に答えないうちに次の質問が飛び出して、教育長を助ける結果になるような、残念なことも少なからずありました。

 しかし、話しているうちに教育長が当然答えるはずの質問、たとえば「扶桑社の教科書のどこが良いのか、一点でも挙げて欲しい」というまったく当然の疑問にさえ答えられないという、委員会での審議のお粗末さが明らかになり、当然「多くの県民の疑問に答えてほしい」という声を無視できず、「一三日に会見をひき続き再開する」ことが約束されました。こうして近年の愛媛県史に無い、県民多数と県幹部の話し合いが再び持たれることになったのです。

 このように書くと読者の方々は、愛媛といえども「教育長は見識を持ち、一定良識的な人物」という印象をもつことでしょう。そして私たちも、彼が良識の一片を示したものかと思い、愛媛の教育改革はここからかと期待もしました。しかしここにも、愛媛の反国民的な裏の事情があったようです。

 仕掛け人は文部官僚あがりの知事

 文部省官房長まで出世していた本県八幡浜市出身の加戸守行知事は、リクルート事件で指弾された高石邦夫事務次官の下で、同事件の灰色高官として退職に追い込まれましたが、文化庁次長などの経歴の中で、当時の三浦朱門長官(現教科書改善連絡協議会会長)などとの関わりからか、日本における教科書改変の動きの最右翼に位置していたらしいのです。また、第二次教科書攻撃で、中国や韓国から偏向教科書と激しい非難を受けたとき(一九八〇〜八二年、この結果、検定基準に「近隣諸国条項」が入る)の総務課長だったとも言う。そして四年前知事に当選して以来、国民会議やつくる会側から「先進的で具体的な行動」を期待されていたようです。

 そのもとでの吉野内直光教育長は、元は教育委員会事務局勤務が中心の県職員で、定年間際に、当選したばかりの加戸知事から、教育長に抜擢されたものでした。そのため教育長は、知事が全国に先駆けて扶桑社教科書を採択する悪計の、片棒を担いだもののようです。

 そして、できたばかりの情報公開条例を使って、教科書採択情報の公開を求めた私たちに「公表することは、審議中の各地の教科書採択事務に影響を与える恐れがあり、八月一五日の期限まで公表できない」と回答しておきながら、八月八日には前日の東京都に続いて、扶桑社の教科書を採択したことを公表し、全国で進行中の教科書の審議に、つくる会側に有利な状況をつくろうとしました。これは、公文書で答えた私たちとの約束にそむいたもので、私たちは教育長のこの不正・不法行為を、松山地方検察庁に告発し受理されています。

 前例ない二度三度の対話−−驚くべき審議の実態

 一三日の対話への参加者は一五〇人にも及び、昼食をはさんで夕刻までつづきました。途中で質問に答えられないまま退席を図った教育長を、大勢で阻む場面もあり、後に監禁云々を口にするものもあります。しかしそこで明らかになった実態は、驚くべきものでした。

 話し合いの趣旨からして、たとえば「障害児学校の学習指導要領」に照らした審議の様子を問うた際、県の教育長でありながら、その指導要領の存在すら知らないことが分かりました。そんなことでは委員会の審議は不十分ではないか、文科省への報告期限一五日までにもう一度委員会を開いて審議してほしいとの求めました。これには教育長も反論のしようもなく、事務的協議のために一度退席し、そして自分で帰ってきて会場から拍手で迎えられ、一五日に教育委員を招集して話し合いを再開する、その時まで文科省へ報告するようなことはしない、と確約してこの日の会は終わったのでした。

 これらの話し合いで、採択を決定した八月八日の教育委員会は、実質二〇分程度しか教科書に関する審議をしていない事がわかりました。また、当日の委員会審議において教科書採択の為に、県教委の事務局から示された資料は、扶桑社版だけだったことや、委員の一人は「もし事務局案が扶桑社ではない他社の教科書でも、その通り採択したと思う」という話も伝わり、参加者一同は、教育委員会が本当の審議をしていないとの確信を深めました。

 なお、教科書は現場教師が選択すべきだと言う声もありましたが、それが大きな声にならなかったのは、愛媛ではずっと以前から「教委が採択していた」という事情によるものだと思われます。とにかく二度あった教育長との対話が三度目も迎えることになったのです。

 そして八月一五日、一般県民の参加は二五〇人を超え、教育委員も全員そろっていましたが、県教委側はあらかじめ反民主主義的な計画をしていたようです。当日は新しく大きな部屋を用意し、委員たちは入り口に陣取り「委員会は審議をしていないではないか」「今から改めて審議を」の求めに、煮え切らない答弁を繰り返しているうちに、突然全員が退席し一挙に庁外に用意されていた場所にまで逃げ出したのです。これは、県教委と愛媛県民の関係、つまり「隠れて行い県民の目からは逃げる」常態を象徴的に示したといえると思います。退席の際に「約束の時間がきたので・・・」と言ったらしいのですが、だれも唖然とした程度で席を立つものもいなかったのに、彼らは二ケ所の扉の外側を、多数の県教委職員で固め、扉に鍵までかけて、追いかけもしない県民を閉じ込める椿事を敢えて行ったのです。

 これに一番怒ったのは、取材中のマスコミ関係者だったかもしれません。そしてその日の夕刻、扶桑社教科書の採択が文部科学省に報告されたということです。

 不当な干渉を自認する知事

 教育長その他との、三回にわたる話し合いに参加した人達は、自然に集まり、県教委の非道さを言い募り、その後の対応を話し合いました。その幾つかの場では、教育委員や教育長のリコールさえ本気で口を突く状況でした。

 また、採択決定の翌日の新聞では「正直者のせいか超右翼だからか」、知事が、扶桑社の教科書の決定には私が積極的に関わった、県の五役会などで扶桑社がベストだと何度か教育長に伝えたと語ったことが報道されました。教育長の方は、知事の意見は聞き啓発されたが、採択は委員会独自の判断だったと、さすがに法を意識した発言をしても、知事は「そんなはずは無い」とぬけぬけとしたものです。これにたいしても私たちは、県内のみならず国の内外の有志一〇〇人以上が原告になって、「知事の教育内容への不当な干渉」で、扶桑社教科書の採択は無効だと地裁に提訴しており、まもなくこの審議もはじまるところです。

 ところで一カ月後の愛媛県議会本会議の一般質問では、多くの議員がこの件を取り上げましたが、そのなかでも知事は「教育長が影響を受けなかったと言うが、それではせっかくの私の意見が役立たなかったことになり、少し寂しい気もしたので」と、干渉発言に敷衍して、図々しく地位をわきまえていない発言を繰り返す始末です。更に、この結果に不満なら「一年半後の知事選挙で意思を示せば良い」との挑発的な発言までするのです。

 そんな状況下で、私たちの新たな運動が始まりました。私個人はちょうど三月に公立中学校の社会科の教員を退職したばかりで、組合の役員をしていたこともあり、この愛媛教育の民主化の為に役に立ちたい、しかしこの反動の牙城を破るには「従来の運動の延長上では、前進がおぼつかないが」と思っていた矢先の教科書事件でした。また労組の元役員でも、名誉職的なものからは解放されているので気は楽で、渡に船のようにこの運動に加わったのでした。

 新たな運動の始まり−−再審議を求めて

 「新しい歴史教科書」採択反対の流れは、教科書市民ネットグループのメンバーが中心になり、障害者などの団体や私も含めたさまざまな個人が、これに合流する形になりましたが、現在にいたるまで特定の組織づくりには反対だという意見もあり、代表もいない個人の集まりのままで、一年余りを闘うことになりました。

 市民ネットグループとの協議には参加しながらも、若干の意見の相違もありました。たとえば教育長との二回目の話し合いの際、退席しようとする教育長に、あくまで回答をせまったような行為についての評価の違いから、市民ネット側と別のグループで独自の話し合いをつづけました。のちに共産党などの政党人も交えた「愛媛県教科書問題連絡会」という、有識者や運動家の集う組織もつくられましたが、当然時宜に応じて共同闘争することに変わりはありません。

 また、市民ネットグループには新社会党や労組会議のメンバーも参加したり協力したりすることになりました。このグループに加わった面々も月二回くらいのペースで会を続け、明るいが多様な、そして極めて幅広い意見を取り入れた論議を繰り返した結果、「署名連絡会」の名で署名運動に取り組むことになりました。

 ここに至る主な論議では、先の県教委の採択は、実質の審議をしていないのだから、当然再審議を求めるべきである、愛媛では二〇〇三年に県立の中高一貫校の開校が予定されており、その教科書の採択が来年なので、それに向けて運動を強めよう、当面再審議を求めて世論を高めようと、だれもが任意に個人で参加でき、「署名運動を成功させる」一点で共闘することになりました。そして、諸団体や個人は「それぞれが立場や特性を生かして独自の運動を進める」ことにまとまりました。

 これは、本県の歴史では、まったく新しい運動の始まりを意味します。この団体にいろんな個人が参加したことにより、県下で社民党、新社会党、民主党、共産党のあいだで、同じ署名に取り組む道が開かれたということです。活動は元気良く取り組まれ、各所で工夫した署名用紙が作られました。組織に依存するだけでなく、街頭署名や広い範囲の知人への郵送による署名依頼なども行われました。なかでも、扶桑社の教科書が採用されたのが、障害児の学校であったこともあり、障害者関係からの署名の集約は、特に目立つものでした。

 さまざまな組織や闘い

 教科書問題連絡会のほうも、一方で署名運動に取り組みながらも独自の運動をすすめ、会員の拡大を図り、事務局体制を整え、月二回ペースで連絡会ニュースを発行・郵送し、県教委への請願申し入れを繰り返しました。署名運動はは年を越し、提出は遅れ気味でしたが、三月の教育委員会へ向けて署名を集約し、再審議を要求することにしました。署名は三万余に達しましたが、この数は愛媛の市民運動としては、決して少ないものではなかったと思います。当然、メンバーの苦労も大変なものでした。

 そんな中で「ただの主婦」と自称する人たちが、自分史ではじめて運動に加わり、みんなの目を見張らせる取り組みで、メンバーを勇気づけるようなこともありました。

 うれしくない情報もありました。マスコミや議会関係から、県教委や教育長には、署名の多寡に関係なく教科書を再審議する気はない、などの情報がもたらされたことです。そこで運動をより確かなものにするため、地元新聞への「全面意見広告」や、問題教科書の採択に関わった「教育委員や委員会の責任を問う訴訟」の提起も行われましたが、時間的な制約が常にあり、十分な討議を経ぬまま一部有志の取り組みになる場合もありました。

 思い込めた署名の提出

 せっかく集めた署名だから、提出の仕方も工夫しようという熱い協議になりました。延々の論議のなかで、多数の意見を汲み取った結果として、署名を集めたときの「署名してくれた人の声を無駄にしない」よう、集めた人が教育委員長に直接、その思いを語りながら手渡そうという案に落ち着きました。
 こうした議論の結果としての多くの声を集約した方式の採用は、私たちの運動の性格をよく示していると思います。

 事前の折衝で教育委員長の協力をえられることになり、委員長は二〇人近い多様な立場の人の声に耳を傾け「ありがとうございました」といいながら署名を受け取りました。そして三月二〇日の定例教育委員会では、扶桑社版教科書の本県養護学校への「採択を撤回し再審議する」議案が提案されました。ところが、委員六人が全員一致で「再審議しない」と議決し、数カ月の努力は一蹴されることになりました。この時も委員会室外で愛媛ならではの椿事がありました。

 委員は職員の垣根を通って退出

 一一階の廊下に、委員会開会の一時間近く前から、顔見知りの指導主事など県教委職員が集まりはじめ、合図とともに廊下の片方の端に二列縦隊で整列、委員会が終わるまで二時間近く、そのまま待機していたことです。無言で整列しているから数えやすく、その数は七〇人が長時間、仕事もそっちのけです。直前に会った指導主事の知人は「仕事が多くて」とこぼしていたのに。整列の目的は委員会が終了したときわかりました。委員会が終わると教育委員は廊下に出ますが、そこで傍聴や事態を心配して駆けつけた市民と接触しないよう、委員たちは指導主事たちのつくる「とおりゃんせとうりゃんせ」のトンネルを通って安全な場所まで逃げたのです。これにも市民から公費のムダ使いだと「職員給与返還を求める市民訴訟」を起こされています。

 しかし、これが愛媛県教委のいつものやり方です。私たちは笑い話と受け止めますが、県教委側は真剣なのです。

 このことは、昨年の採択時の直接対話を「県民との関係が進んだ例」として、「更に対話を広げる教訓にする」のではなく、教育長との話し合いを「忌まわしいことと見て」それを防ぐ方策を、一生懸命研究したもののようで、これは時代に逆行しているのは明らかです。

 そして新しい年度へ−−二〇〇二年四月以後

 年度を超えると新たな動きが起こりました。一つは、再審議が実現しなかったので、運動の見直しが必要だという動きで、この流れはいつでも協力することを保留しながら、運動から離れて行きました。もう一つの流れは、中高一貫校への採択の阻止に向けて、あらゆる手段を工夫しようと言う動きで、こちらが本流です。明るく意気高い運動を重ねたものの、参加者が減ってきたこともあり、先鋭的な運動がおおくなってきました。

 この時期に、教科書問題連絡会では、県下三ケ所での連続学習会に取り組み、成功させました。これは当初の目標、全県の自治体ごとに支部をつくる、という意気込みからすれば小さな一歩ですが、広く学習を呼びかけることには成功したと言えます。また同会事務局の意欲的な計画として、県下約六〇万の全世帯を対象にした、教科書問題の啓蒙のチラシづくりを企画し、活動拠点の借家を捜すなど、具体的なプランまで検討していましたが、全体の合意が得られず、直前に断念することになりましたが、これが中高一貫校への扶桑社の教科書採択を許さない、最後のチャンスだったと悔やむ声もしきりです。

 「つくる会」の採択攻勢

 六月も後半になると、つくる会側の愛媛県への攻勢が、伝えられるようになりました。藤岡信勝東大教授の講演会が松山で開かれ、藤岡氏が愛媛県の教科書問題の対策本部長に就任。県内の青年会議所や財界、神社関係者などによるらしい人士が記者会見し、全国に呼びかけ数十万規模の「加戸知事の教育改革に賛同する」署名の提起や、全県一紙である地元紙への全面意見広告を掲載しましたが、その際「つくる会」側は、同紙の報道は公正中立の原則に反するとの口実で、強圧を加えたようです。右翼を使った暴力的な抑圧もあり、同紙は読んでいてはっきり分かるほど、報道のトーンが変化したと言われています。

 そして、歴史教科書は扶桑社がベスト、それに反対しているのは中核派や共産党など一部の勢力で、「彼らの暴力で教育委員の身辺には危機が迫っている」との謀略ビラを、県外からの動員者を使ったり、地域によってはタウン紙に、全面意見広告の形で掲載して配付することなどを進めてきました。
 また何度か、松山市内の人出の多い街頭で、県外者を中心に数十人という集団でビラを配布しながら、署名集めをしたこともありました。その上、公安調査庁情報の引用として、全国紙や一部県議までが、我々を「過激派だ」云々と言いふらし、県民の声なき声や疑問のつぶやきは押さえられたようです。

 勿論運動に関わってきた人などの声はいささかも揺るがず、力強い宣言や申し入れも相次ぎました。特に保護者の立場から元PTA役員有志の反対申し入れや、短期間に一〇〇人をこえる県内の学者が県外の識者とともに発した、扶桑社教科書反対の声明などは、これまた愛媛ではめずらしく、その報を知る県民を勇気づけるものでした。

 しかし、県民世論が大きく捻じ曲げられようとしているときだっただけに、もっともっと科学的な対応が必要だったようで、私たちの認識や対応が甘かったことも否めません。 ただその後はっきりしてきたのは、この段階から彼らの運動は、私たちの運動に財力その他で、そのスケールを膨らませながらも「完全に同じことをなぞっていた」と言えることです。彼らの視野にはそれ以外のアイデアはなかった様です。・・・念のために。

 リレーハンスト−−最後の一カ月

 私たちも必死でした。ほとんどの人は労働の合間を縫って、週に何回もの話し合いに駆けつけました。それが夜の一一時一二時になることもめずらしくありません。その上、中心のメンバーには何人か、松山から五〇キロメートル以北で、車で早くても六〇分はかかる今治市の人がいて、この人たちの時間のことを考えると、本当に気の毒でした。

 協議の結果による七月の私たちの取り組みは、一つは、教育委員の本来のあり方を、同時進行している、ハワイ沖で沈没した「えひめ丸」問題等とも絡めて明らかにするシンポジュームの開催と、採択をどうしても許せない者による県民集会の開催です。これを準備し、実行するための話し合いを繰り返し持ちました。そして見るべき方式が編み出され、そのための講師の配置やその他の備えをし、実行されました。それらと並行している訴訟関係への取り組みを進めました。

 つづいて八月に入ってから、委員会が予定される一五日までに、採択の一週間くらい前から、リレーでハンストに取り組む計画も検討され、その具体化が図られました。それらと絡めながら、県教委への申し入れや、記者クラブへの働きかけなども、数限りなく進めました。

 そうした多忙の陰で、「県民に広く深く働きかけよう」という当初の方針には、ほとんど手が出せない弱さが残り、県民世論を大きく変えることにならなかったのは、残念のきわみです。ちょうど六月一四日には、有事立法に反対する県内各界の一日共闘が三〇年ぶりに実現し、一三〇〇人の集会が成功した直後でもあり、共闘のあり方を考えさせられました。

 そしてリレーハンストです。ちょうどお盆の時期とも重なり、県外からの客が多い時期に、松山市役所から見ると、正面の平山の松山城天守閣をバックにした愛媛県議会の正面玄関の路上で、五日間のハンストをはじめました。参加者は予想より多く、そして、石畳の上でもあり暑さは相当のものでしたが、意気高く座り込みを続けました。

 その間に多数の感動を得ました。国の内外から励ましの多数のメッセージ、それもがんばれという感じより「ご苦労ですが体に気をつけてください」というニュアンスの連帯そのもののメッセージの数々。県外ナンバーの車が止まり、声をかけて行く。わざわざ降りてきて、近くで買ってきたらしい、冷たい飲み物を差し入れてくれる。大阪の高校生が三日間の予定で応援にきてくれたのも、頼もしくありがたいものでした。そして何より助かったのは、教科書全国ネット21を通じて依頼した資金カンパの要請に、多数の人々の好意をいただいたこと。私たちはつくる会の運動と違い、資金面の不安と事後処理の多難さを感じていましたが、その心配がなくなった点は、今後の運動のためにも非常にありがたいことであり、私たちの活動は、全国の真心に支えられたものでもありました。そしてこれからも同様の運動が進む場合の教訓として特筆されることだと思います。

 そして「闘って良かった、これを教訓に更なる運動をつくって行こう」と言うのが、参加メンバーの共通の思いです。


のむら みつる/元中学校教師・愛媛県在住

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