インタビュー 「北朝鮮・拉致問題」報道を考える

                   石田 英敬

2002.12.20 220−2003.1.20 221 


 石田 英敬 氏 


 −−日朝首脳会談後とくに拉致問題に焦点を当てた日本でのメディアの報道や社会状況について、異様さや危惧を感じる人びとも少なくないと思うのですが。

 日朝首脳会談以降の朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)による拉致をめぐる、日本のメディア状況を見ると、いくつかの事が分かります。

 報道は、およそ二カ月ぐらいを区切りにしてフェイズ(様相、局面)が変わる事が良くあります。はじめの一カ月は報道が加熱し、次第に倦怠・惰性・安定を迎えるのが次の一カ月で、それをすぎた時点から、少し批判的な視点、それまでの報道についての問い直しが、メディア自身の中に浮上してくる。これが、最近のメディアの波動の仕方です。今回の拉致被害者をめぐる日本の報道も、だいたい同じような周期を描いています。

 私達の記憶のなかで一番参考になるのは、昨年九月一一日のテロ事件をめぐる、アメリカはじめ先進諸国のメディアの加熱から始まる波動の描き方です。御存じのように9・11以後、アメリカのメディアでは愛国心の加熱がありました。今回の北朝鮮問題でも、日本での拉致問題報道の加熱、ある種の集団的なヒステリー状態、その報道自体について多角的な視点から批判をくわえようとするだけで、「非国民」だという扱いを受ける状況があります。一年を違えて、テーマは異なっても、アメリカと日本で同じような構図が現われています。グローバルに展開するメディア状況のなかで、この二つの事象にはある種の類似があります。

 しかしこの二つの間の違いにも、注目すべきものがあります。今回の拉致問題に関して、海外のメディアはきわめて冷静であることが、印象的です。海外のメディアにとっても、北朝鮮問題はもちろん報道に値する主題なので、フォローし一定の報道はしています。ところが、海外メディアはその後、日本での報道のされ方自体について評価をくわえるなど、少し「引いた見方」をしています。日本のように、拉致被害者へのエモーショナル(感情的、情緒的)な同一化にもとづいた報道は、北朝鮮と直接関係のある韓国は別として、欧米などの海外メディアでは見られません。

 北朝鮮が国家的な犯罪行為を行なう国だというような分析や、拉致被害者が何十年たって帰国するというエピソードも報道されています。しかしそこに、歴史的な文脈、過去の日本と朝鮮との関係についての言及が必ずあります。それとの関連で、今の日本での感情的・情緒的な報道一色という状況は果たしてどうなのか、という視点が提起されています。歴史的文脈から見ると、必然的にそのような報道になるのです。だから、拉致問題は長くフォローされるべき記事という扱いはされていません。
 こうした日本のメディアと諸外国のメディアとの間の報道の仕方の違いについて、本来ならば、何故これほどの落差ができるのかという問い直しが、日本のメディア自身の中から生まれてしかるべきです。自分たちが、毎日、大量の映像を使ってエモーショナルな報道を続けているのに、何故、海外のメディアや人びとには、日本人の熱狂と同じように受けとめられないのか、その違いはどこにあるのか、という事についての問いかけが、日本のメディアの中にあってしかるべきです。

 ところがそうした事さえ、ナショナル(全国的)なメディアでは、行なわれていません。これが、この二カ月間の「北朝鮮問題」報道における、ある種の「盲目化」を示しています。一つの事にフォーカスを当てる事で、文脈が見えなくなっているという「盲目化」です。

 −−9・11後のアメリカでの「愛国心」の大合唱も相当なものでしたね。

 今の日本での状況は、昨年9・11以後のアメリカのメディアの加熱と通じるものがあります。アメリカのようなメディアの歴史がそれなりにある国でも、9・11の出来事を相対化するような報道が、なかなか行なわれませんでした。そのような報道をしようとすると、それは国民的なコンセンサス(合意)を乱すものだ、という扱いを受ける状況がありました。

 もちろん、スーザン・ソンタグや(『この時代に想うテロへの眼差し』NTT出版)、ノーム・チョムスキー(『9・11アメリカに報復する資格はない』文芸春秋、本誌210 「読書」参照)など、知識人からの問いかけはありました。しかしそうした声は、メディアの大合唱によって押し隠されてしまう状況がありました。

 だとすると、このようなメディアの加熱は、日本の特殊状況とも言い切れない側面をもっているという事です。他者の視点が反映されなくなるような状況が、今のメディアのなかでは起こり得るという事が、分かった訳です。

 −−こうしたメディア状況は世界的なものだという事ですか

 この状況は、一言で言えば、テレビがもたらしたものです。9・11では、貿易センタービルの破壊という大きなシーンにフォーカスがあたり、そこから、突入した航空機の乗客や消防士など、様々な物語やドラマが引き出される、という報道の配置がありました。今回の日本の拉致事件報道では、行方不明になっていたとされる人たちが数十年をへて拉致されていたことが分かり突然テレビの前に姿を現すという数奇な出来事が起こり、そこから家族と共同体と国家の物語というものが主題化されています。

 こうした報道を担う主なメディアは、テレビです。テレビは、ある意味で具体的な現実を、部分的に瞬時に伝える事に強いメディアです。それに対して、出来事の全体的な文脈を示したり、「映像をもたない」存在を表したりすることはひどく不得意なメディアです。「イメージは否定を知らない」とはよく言われることですが、テレビ映像に映し出されるものこそ疑いなく存在するものであって、映像に映し出されないものは存在しないに等しいとされてしまう。

 しかし、だれが映像のフレームを操作しているのか、誰が映像の文脈を決めているのか、被写体がどのような歴史的時間を背負っているのかは、映像があまりに「自明なもの」だという前提に隠されて忘れ去られてしまいます。文脈やフレームや時間は、テレビ映像のイデオロギー的な無意識となっているのです。

 こうしたテレビの特性は、エモーショナルな出来事、感覚を共有させるための具体的な物語を現在時においてつむぎだす事においては、強い効果をもちます。それが、9・11や今回の拉致報道では、メディアによる興奮状態を創り出すために強く作用しました。テレビ映像は多くの細部を具体的に映し出しましたが、同時に多くの「見えない部分」を人々の意識から遠ざける効果を生みました。世界の文脈とか、歴史の時間とかを視聴者に忘却させ、映像を持たない人々の存在を無視させる効果をもったのです。

 実は、一九八〇年代後半から九〇年代にかけて、こうしたテレビの作用が大きな効果を生み出した、いくつかの世界的な出来事があります。

 まだ記憶に新しいのは、旧ソ連でエリツィンが登場した時の事です。ソ連邦崩壊直前のゴルバチョフ大統領の時にクーデターが起こり、彼は避暑地に幽閉されたのですが、モスクワでは、エリツィンが戦車の上によじ登って人びとを前に演説をする姿がテレビによって報道されました。これによって、エリツィンは旧ソ連軍のクーデターに立ち向かう人物として強く印象づけられました。その時、カメラは戦車の上のエリツィンにフォーカスを当てており、それを見た人びとはエリツィンが群衆に向かって演説していると思ったのですが、カメラに映っていない後ろ側にはじつは群衆などいなかったのです。こんなトリックのような事が、政治的には力を作っていったのです。

 また、ルーマニアのチャウシェスクが倒れた時も、メディアによって「虐殺のシーン」と言われる映像が報道された事をきっかけとして、暴動が起こり、政権が倒れました。

 この例でも分かるように、テレビは、ある部分についてリアルタイムの報道を与え、それが全体を見えなくする事で、ある大きな感情的な力を動員するように働き、それによって政治を動かしてきた歴史があるのです。 テレビは「見える」ことによって、かえって「見えなくする」効果を持っている。そして、それが政治的出来事を作り出すような世界になって久しい。このことを私たちはよく肝に銘じておくべきです。

 アメリカと日本のテレビ報道にはとくに奇妙な共通性が少なくともひとつあります。それは「自国」の被害者に与えられる極端な扱いと、自国の国民ではない被害者に対する極端な無関心です。例えば、日本では航空機事故があっても日本人の乗客が乗っていない場合には、その事故はなかったことになるとはよくいわれることです。それに対して自国民が乗っていた飛行機が墜落するともう大変な騒ぎになって過剰なまでに取材報道が組まれ大量に冗長な情報が流されることになります。アメリカでは、戦争においては少しでも自国兵の死者がでようものなら大変な騒ぎになりますが、アフガニスタンでどれだけの民間人がアメリカ軍の「誤爆」によって死亡しても、それは「やむをえないこと」としてすまされてしまうことを、私たちは昨年来何度となく経験しました。これはおそらくテレビがナショナルな空間に閉じられたメディアであることと関係していますが、しかしアメリカと日本では極端なかたちで、テレビを自国中心的なメディアとして使用してきたことと関係があります。

 −−日本の報道のワイドショー化は拉致問題でますます拍車が掛かったようですね。

 こうしたテレビ報道の歴史の延長上に、昨年の9・11や今回の拉致被害者とその家族の物語があり、それはワイドショーにうまく「はまっている」のですが、その「はまり方」が問題にされるべきです。とくに、日本の拉致問題の場合には極めて「悪いはまり方」だと思います。

 こうした問題が起こった時の報道のされ方は、昼のワイドショーによく表れます。ワイドショーで大きく扱われるようになると、その出来事をめぐる報道が、最近よく言われる日本のポピュリズム的(大衆煽動的・大衆追随的)な影響を受けやすい視聴層を握る兆候です。今回の家族の物語は、いわゆる日本の庶民、日本海側の漁村・農村の田舎の親戚が実は生きていて・・というような古い共同体の物語を色濃く発動する事になりました。

 行方が分からなくなった家族、何十年もそれを探し求めていた家族がいて、ある日突然にその消息が分かり日本へ戻って来る、血縁や村落の共同体に復帰するという物語があり、この情緒劇を共有する場面がメディアによって大量にイメージとして流されるという状況です。そして、海の向こうの家族と再び引き裂かれてしまい、「血縁」の結びつきを理由に肉親を「日本」に取り戻そうという感情が増幅される。土着的な共同体の価値こそが至上のものであり、個人の事情とか意志とか人権とかは考慮すべき価値のあるものではない。「父ちゃんに任せておけばいい」、「国に任せておけばいい」、そうした言葉が大量にメディアを通して報道されることになりました。

 しかし、少し注意して報道を追えば分かるように、これら拉致被害者やその家族たちを「登場人物」とするドラマは、二重三重の「報道管制」が敷かれたうえで政治的に「演出」されている面をもっています。被害者やその家族がどのようなタイミングでメディアに登場するか、どのような報道に反応して対抗的コメントを公表するかなどを見れば、じつはこのドラマは、かなりの部分が政治的にコントロールされたものであることは明らかです。

 実際、拉致問題の報道にどれだけ多くの極右政治家が登場しているのかを見れば、極右イデオロギーとセットになった家族ドラマの政治的な演出がそこにあることは分かります。そして、一番大事なのは家族の絆で、一度引き裂かれても時間を越えてその絆は回復できると言い、恐ろしい共産主義に捕らえられた家族の一員を土着的な価値によって取り戻すことができるのだ、という物語が大量に創られ流されているのです。

 しかも、この物語が起こる前に、ワイドショーは何をやっていたかと言うと、小泉純一郎の物語や田中真紀子の物語です。「ワイドショー政治」と呼ばれるように、政治的なものに一度はまっていたのです。その報道が、今度は、拉致家族をめぐる日本の土着的な共同体の家族の物語を演じはじめ、それに人びとが情緒的な同一化を行なってしまうという配置が生まれています。

 この状況は、物語の連続の仕方としても、かなり危険です。小泉純一郎や田中真紀子の物語で、いわゆる保守的な政治に親しんだテレビの観客が、今度は、政治的に極めて右翼的な政治的演出による家族の物語、しかも都市生活者から見ると少し古いノスタルジーを感じるような物語に自己を同一化させていっているのです。

 これをベースにして、そうした状況に批判的な言説を行なうものは非国民だ、というような事が言われ始めています。これは、歴史的にかつて起こった事を、ふたたび演じているという事です。

 −−日本の報道には分析的視点がなくなったのでしょうか。

 日本のメディア状況について、私達は批判的な眼差しを向けて行かなければなりません。その批判の向け方の一つは、テレビ的報道を相対化する視点を持つ事です。

 拉致報道と言われるものには、不思議な事に、共産主義の本質とは何か、スターリニズムとは何か、どうして共産主義と言われる陣営では独裁的な国が生まれたのかなど、包括的で分析的な解説は一切ありません。ただ、「酷い国だ」「独裁国家だ」と言う様な形容しか出てきません。

 報道が本当にもっと立体的なものであれば、もっと多くの専門家はいるはずです。例えばの話ですが、共産主義の変種であったとしても、北朝鮮はどういう意味で全体主義の国家なのか、どうして大量の粛清が起こったのか、拉致犠牲者だけでなく北朝鮮の多くの人びとも体制の犠牲を受けているのですから、そのような体制をどのように終息させていけばいいのか、政治的・外交的な分析があってしかるべきです。

 つまり、東アジアにおいてどのようにしたら冷戦を終結させていくことができるのか、どのような政治的価値の名においてそれを行いうるのかについて、もっとさまざまな議論が起こってしかるべきでしょう。そのあたりが、ベルリンの壁の崩壊以前のヨーロッパにおける「東方外交」をめぐる議論との差です。「民主主義」や「人権」の政治原則においてヨーロッパの「東方外交」は実行されたわけですが、もし日本の世論が「反共」や「ナショナリズム」によってしか外交を考えることができないとすれば、それは破局的な結果を生むことになるでしょう。

 しかしそうした包括的な視点が全く不在のまま、報道がただただ情緒的に行なわれています。こうした事が、テレビ的報道の限界です。

 他方で、文字を主体とするメディアは、先程述べた外国のメディアのように少し「引いた視点」から見る、歴史の文脈から見てどうなのかという事、例えば拉致問題が起きた一九七〇年代に世界はどうであったか、その時に韓国はどうなっていたか、など全体的に問題にすべきです。北朝鮮の現体制を倫理的に断罪すべきだとしても、それだけでは不十分です。韓国では金大中の拉致事件が行なわれていた時に、北朝鮮の拉致事件も起きた訳ですから、冷戦下において朝鮮半島で起こったことがらについての、全体的な歴史的文脈をとらえる解説が当然あってしかるべきです。

 あたかも、いつも平和な時代を人びとが生きていて、ある日突然に北朝鮮の工作員がやって来て拉致していく、というように物語が描かれていますが、歴史的現実はもっと複雑であって、こうした出来事も歴史の様々な動きのなかで起こった事なのです。だから、それをもっと正確に理解する必要があるでしょう。

 ところが、拉致問題についてメディアがつくりあげたのは、すべての歴史的文脈から切り離された、完全に孤立した「日本人のためだけの物語」です。なぜそういう物語の作りになるかというと、日本のメディアにとって歴史的なタブーがあまりにも多いからです。戦前のことは言わない。強制連行のことはいわない。朝鮮戦争のことはいわない。金大中事件のことはいわない。韓国軍事政権とそれへの日本の加担のことはいわない。このように幾重にもタブーを重ねたうえで、事件を語るとすれば、なんの歴史的脈絡もなく語るということを余儀なくされます。どのように韓国の民主化は勝ち取られたのか、なぜ韓国は北朝鮮に対して「太陽政策」をとっているのか。在日の人びとの歴史的苦悩は、いかばかりのものだったか。どれだけの人々が、今現在でも北朝鮮で悲惨な状況におかれているのか。それらすべてについて、たとえ少しでも思いを馳せたうえでこの拉致事件を考えることができるようなメディア報道があれば、「日本人」という情緒的共同性を越えた、真に「倫理的」な見方を生むきっかけになると思います。

 過去を見通すこと、未来を見据えること、その二つの見取り図のなかで現在の係争を理解すること。それが基本であることなど、ちょっと考えれば誰にだって分かるはずです。ところが、誰にでも分かる事をメディアは言わないし、それを言い出すと非国民だというような話になっているのが、報道の怖さです。
 こうした報道としての成熟、批判精神が無いままに、二カ月進んできたというのが、拉致問題をめぐる日本の報道の偽らざる姿です。

 −−部分的な事実を誇張するような報道がメディア全体に広がっているという事でしょうか。

 まずテレビ報道は、ますますセンセーショナリズムに比重が移っています。最初は昼のワイドショーがそういう傾向だったものが、朝のワイドショーに広がり、さらには比較的冷静と見られてきた夜一〇時代の報道番組まで、ワイドショー的なものに浸食されています。

 この傾向が肥大して、活字メディアでも、例えば『朝日』『毎日』のような文化的序列において上位にある日刊紙までが、次第に週刊誌的なものに浸食されている、と考えて良いでしょう。

 メディア界の成り立ちからいって、週刊誌などの中間的なメディアは基本的に右翼的な傾向をもつという法則性があります。何故かと言うと、「ニューヨークタイムズ」や「ルモンド」や「朝日新聞」のような、真面目で知的で冷静である事を体現しているような進歩的日刊紙が、文化的正統性の序列において一番上にあるというのが、先進国のジャーナリズムの基本的な構図なのですが(これには社会学的な理由がありますがここでは詳しくはいいません)、エモーショナルなものに訴えてその支配を崩そうというのが、『文春』『新潮』から『現代』『ポスト』に見られるような週刊誌の社会的位置だからです。単純化した物語や愛憎劇などで、世界を読み解くという方向で読者を集めているメディアが、既存の文化のなかで上位を占めていた冷静に理性的に世界を読み解こうとする部分を覆そうという動きとして言説的にも出てくるのです。日刊紙のレヴェルでも、『産経』のイデオロギー戦略は基本的にそれです。

 テレビ界においても同じような動きはあって、例えば、テレビの番組表のなかで、そうした事が起こると、ワイドショー的なものが、比較的に冷静な姿勢を持っていた情報番組を浸食してくる事を意味しています。

 そして、そうした傾向がメディア全体に拡がると、エモーショナルなドラマをめぐる言説で、冷静なジャーナリズムや知的分析の言説を覆そうとする力として働きます。今回の拉致問題のように、共産主義に対しては、家族や共同体の力で子供を取り戻し、それを排除していかねばならない、というような物語が出来てくると、進歩主義や知的言説一般までを憎悪するような極端な傾向が生まれてくることになります。そうしたことは、すでに日本の戦前に経験されたことです。

 −−どうしてこのようなメディア状況が生まれているのでしょうか。

 どうして批判精神が働かないかと言うと、ナショナルなメディアがもっている限界が見えてきたと思います。それは日本のメディアだけでなく、アメリカのように「成熟している」と思われていたメディアでも起こる事が分かったので、それぞれの国のメディアの特殊性というだけでは理解できない問題でしょう。そこにある大きな問題は、どの国でも、ナショナルなメディアは、寡占状態になっているという事です。

 例えば日本で、『産経新聞』を含めても全国紙と呼ばれるものは、五つしかありません。したがって、新聞の分野でこれらの全国紙は、極めて大きな発行部数をもっています。大きな発行部数をもつという事は、報道においてコンセンサスを非常に重要視する傾向を生み出します。違った意見やマイナーな意見を、そこで述べるという事を消去していく方向で、報道する傾向を生むという一般的な法則性を持っています。

 日本のメディアでは、いわゆる「小泉現象」の時に、それがはっきりあらわれました。世論調査での支持率が七〇%を越え八〇%にも近づくと、メディアはその政権を批判できなくなるのです。面と向かって小泉首相を批判する事が、ある時期、日本のメディアは出来ませんでした。何故かと言うと、八〇%の人が小泉を支持していれば、その中にはかなりの比率で、自分たちの読者層が含まれているからです。自分たちのクライアント(得意客)の意向にそむくようなオピニオン(見解)は出せない、たとえジャーナリストとして色々な問題点が分かっていても、それを抑制する、自分たちのクライアントを人質にとられていて、そういう状態になるのです。

 日本の九〇%の人びとが拉致家族に自己を同一化しているような状況では、それを相対化するような報道は行なわれません。全国紙においてそうですし、ましてやテレビでは、さらにそういう傾向が生まれます。大きなメディア、マスのメディアがもっている均質性、報道を一元化する力のベクトルが働く場面を、我々は経験したと思います。

 −−日本のメディアや世論は現在のような状況のまま進むのでしょうか。

 この間の状況をもう少しミクロに、プロフェッショナルに観察して見ると、ジャーナリスト達の工夫が全く無かった訳でもありません。少し報道の視点を変えようとしたり、まだ今は言えないが、しかし次にはいえるようになるかもしれない事の準備をしていたり、新聞をよく読むといろいろな工夫を見て取れます。彼らはプロフェッショナルなので、順番を置くのです。まず、拉致事件やその家族の報道をする、そして少し違った関係者を見つけて来る、その報道をした上で、次にコラムニストに「やはり、北朝鮮に一度帰した方が良いのではないか」というような記事を書かせます。そうした記事を書かせるまでに、いくつかのステップを踏むのです。

 これは、小さな違った意見をどうすれば載せることができるようになるかの例ですが、そうした準備する過程を踏んで、ようやくそうした意見を出して来るような動きの作り方をしている事は、分かります。それに、二カ月以上の時間がかかっています。大きなメディアが全て理性を失ってしまって、情緒的なものを煽っているだけかというと、メディアの人びと自体はそれほど均質でもなくて、大新聞の中でも色々な工夫をしたり手を考えて、少し報道の「加熱を冷まそう」としている動きはだからあります。

 大きなメディアがこのような状況にあるからこそ、大切な事は、この『反戦情報』のようにマイナーなところから声が上がって来ないと、大きなタンカーが舵を切る時の様に、かなり早くから舵を切らないといけないので、その方向を変えるための小さな舵(トリムタブ)が必要なのだと思います。

 この二カ月余りで、様々なメディアの間の色々な配置が見えてきました。そして、これからは報道が多様化して行くだろうと思います。これまでは、突然に拉致事件が浮上し、情緒的な報道が行なわれてきたのですが、こうした報道に人びとはかなり疲れています。これからも、新しい劇的な事実が出てくれば、それはそれで加熱するにしても、今の状況は少し「飽きてきて」、これからどうなるのか立ち止まって「考え始める」局面に入っているという事ではないでしょうか。

 この間に色々な経験をして、「メディアとは何なのか」について、多くの人びとが学習したのだと思います。こういう時期だからこそ、ある種の批判的なまとめを、一人一人の市民が行う事が必要なのだと思います。人びとがこのまま、メディア報道が煽ったような方向に持って行かれるという事ではないと思います。

 ただし前に言ったように、これまでずっとクローズアップされ、人びとが見せつけられてきた政治や外交のドラマは、きわめて「保守のドラマ」「右翼のドラマ」なので、その影響については注意しておかないといけません。冷戦が終わってから、こうしたドラマの中心が右翼的テーマにしぼられて来ました。社民党が今回の問題で血祭りに上げられたり、いわゆる「左翼的なもの」を排除し「戦後的なもの」を清算するドラマを見せつけられる状況が、あまりにも長く続いているので、その影響については注意しておかないといけません。

 そこでやはり、メディアとはどのような本質を持っているのかを、この際、私たち一人一人の市民がよく考えておく事が必要だと思います。

 −−「北朝鮮・拉致問題」報道に見られるようなメディアの状況に対してはどう対応していけば良いのでしょうか。

 今の時代は、サブカルチャー(下位文化)と言われてきたものが、正統的な文化を覆すような傾向が、世界的にもひろがっているし、日本の文化のなかでは圧倒的に強くなっています。正統的カルチャーが本を中心とした文化であるのに対して、サブカルチャーはマンガやアニメや娯楽テレビ番組やポップソングなどをベースにしたメディア文化です。

 こうした状況のなかで、世界をもう少し冷静に読み解こう、もう少し色々な側面を考えて世界を説明しよう、という人達は、このような今のメディアの傾向や力学そのものを言説の対象にして、それを批判する所から世界を語りはじめないといけないでしょう。

 これはややもすると難しい学問のことなのかと思われるかもしれませんが、例えていえば次のような態度変更を試みることです。私たちのメディア状況は、ファーストフードに慣れてしまった人びとの食生活に似ています。食べ物にはハンバーガーかフライドチキンか牛丼かラーメンしかないんだと信じている人たちが圧倒的多数を占めている世界を考えてみてください。みんなが「自然なこと」であるかのように、それらのファーストフードのどれかを必ず食べているとしましょう。そうしたときに、「ちょっとちがうんじゃないか」「これは本当に体にいいことなのか」「もっとちがう食生活があるのではないか」という疑問が起こり、生活を変えようという態度変更のきっかけになるのは、例えば「いったいこれはどんな材料からできているのか」「自分でだって食べ物は作れるんじゃないか」「たまには自分たちで作ってみんなでおしゃべりでもしながら食べたい」というような、ちょっとしたアイデアのひらめきです。

 こうした疑問やアイデアを大切にし、そこから考えを広げて、問いかけを人々と共有していく。こうしたメディア批判の動きは最近では「メディア・リテラシー」の運動という呼び方をされたりしています。

 この点で、もっと人びとが連帯しないといけません。そのような声は、様々な分野であると思います。これまで見てきたようなメディアの傾向や本質の問題に注意しなければいけない、と言っている人は比較的多いのです。この問題意識を共有すると、少し違ったビジョンが見えてくると思います。

 市民社会と政治との関係という視点から、別の言い方をすると、日本社会のなかで「公共空間」をどのように担保していくのかという事です。今の日本では、「公共空間」が商業的なメディアのセンセーショナリズムによって破壊されています。これに対して、もう一度「公共性」をなんらかの形で回復する事がないと、センセーショナリズムだけで情報が波動する事になってしまいます。これは、我々のような知識人の行なうべき一つの大きなテーマだと思いますが、同時に市民社会との連携がないとほんとうの力になりません。

 これは、「理性的なもの」を回復するという事でもあります。ただし、今の日本社会で「理性的なもの」を回復するのは、なかなか難しいのです。それより、「シンボリックなもの」を操作する方が、人びとを動員するのにはずっと簡単です。

 例えば家永三郎のような立派な歴史家が一生の努力を傾けて国家主義に対する本当に学問的な批判の仕事をしても、ネオ・ナショナリズムはファーストフードのようなまがいものの“歴史書”を大量に「廉価販売」することで人びとを支配しようとします。

 その意味で、天皇制や君が代・日の丸のようなナショナルシンボルの問題は、注意を払うべき事柄です。現在のナショナルシンボルの操作の仕方は、サブカルチャー的な所からひろがっています。たとえば、サッカーを使ってナショナルシンボルをひろげたり、マンガを使ってナショナリズム・イデオロギーをひろげたり、歴史の修正主義を行なったりという事です。

 しかもそれは、まさしくメディアを主たる発生源としています。産経新聞、フジ・サンケイグループ、扶桑社などの、サブカルチャーによって正統的な文化を覆そうという体質をもった勢力が、大量にナショナルシンボルやナショナリズム・イデオロギーを流布する発生源になっています。こうして人びとを動員していこうというのが、今の日本を席巻しようとしているネオ・ナショナリズムのタイプなのです。

 だから、こうしたものに反対し対抗するためには、サブカルチャーから発したメディア的なナショナリズムを批判していく視点をもつ必要があるのです。単に、一部の懐古的な人達が、天皇制イデオロギーを人びとに押しつけようとしているとか、古いイデオロギーをもった反動的な人達が、皇国史観を植えつけようとしているというのとは、状況はかなり違っています。

 実際には、メディアのなかに、あるポジションをもっている勢力があって、そこを発生源にして、民主的な価値をなし崩しにしようという運動なのです。この勢力は、テレビや新聞や雑誌などでセンセーショナリズムを行なっている勢力と、まったく同じ所から発して有機的な結びつきを持っています。そういう意味でも、メディア批判を軸にして、この問題を考えないといけません。

 −−サブカルチャー的なもので正統的文化を覆そうという動きにはどのように批判的に対応しますか。

 こうしたサブカルチャー的な動きが、文化の主流になれる事は多分ないと思いますが、「数を握る」という事はあると思います。いわゆる戦後的な価値の体系が揺らいできたなかで、これまでの正統的なカルチャーの権威で「正統性の名において」こうしたサブカルチャー的な動きを抑える事は出来ません。正統的なカルチャーと言われてきたもの自体にも問題があるのですから、より理性的であろうとする勢力が、別のパースペクティブ(見通し・展望)を創り出さないといけないでしょう。つまり戦後民主主義のような図式で対抗しても限界があるのです。

 今の時代は、文化が一元的ではなくなっています。例えばの話ですが、私の子供が通う中学校などを見ると、授業で子ども達は先生の話を聞いていません。クラスの半分の子どもたちは、塾に通っていて先生の教えることはすでに分かっている。もう半分の子どもたちは、すでに「落ちこぼれ」て先生の話を聞いても理解できない。先生は平均的なレベルに対象を設定しているのに、「平均がなくなっている」世界に対応できなくなっているという事もできます。このような、文化的に一元的な配置がとれない世界に人びとが生きています。

 しかし逆に、人びとはそれぞれ様々な情報は持っている世界ともなっています。かつての正統的なカルチャーの前提は、世界が文化的に一元的なピラミッド的構造をもっていて、知や文化において上昇すれば数は少なくなるが、底辺との連続性はあり、上に立てば下に色々な事を教えることができる、場合によっては人々を支配する事ができるという世界です。

 しかし今の世界は、そうなっていません。色々な所に色々な情報を持った人びとが棲み分けているのだけど、共通した系をもっていない、共通化する一つの面が存在していない世界です。いわゆる「情報化」が生み出した世界はこういう世界であって、「公共空間」が崩落しており、共通した場で出会って自分たちの政治的共同体をつくる事が起きにくくなっています。したがって、全ての人がみなある種のプライベートな世界で生きているという事もできます。みんな自分の私的空間に「閉じこもっている」という状態です。端的な例として携帯電話の使用を見てください。パブリックな場所を歩いているときにも人々はプライベートな空間に閉じこもっています。

 姜尚中(カンサンジュ)氏は、こうした社会文化状況を「潜在的な内乱状態」と表現しているのですが、それぞれの人がそれぞれの人と共通した公共性をつくれない、政治的共同体をつくることが出来ず、私的な空間に閉じ込められている。しかしプライベートでは、色々な情報をもっているのです。端的に見ると、国政選挙ではわずか二五%の投票率で議員が選ばれてしまいます。つまり四分の三の人びとは、そうした政治的公共性に参加していない、あるいは自分達の問題だと考える基盤をもっていません。

 さっきの中学校の話で見ると、成績の分布に関しては、分裂が起きているのですが、別の情報に関してはもっと違った分布が形成されています。生徒達は学校では寝たりおしゃべりしたり、「死んだふり」の状態ですが、じつはいろんなことを知っているし、いろんな情報や知識を持っている。村上龍氏の近未来小説『希望の国のエグゾダス』の状況です。これは中学生の例ですが、社会一般にもそうで、人びとが、コミュニケーションにおいて同一平面上に上がらないという問題が、社会を非常に不安定にしているという事ができます。

 これに対して、いまの日本の教育がやろうとしているのは、「みんな愛国心を持ちましょう」というような、バラバラになったものに、規律によってもう一度枠をはめよう、という馬鹿な試みです。そうすればもう一度、共通の基盤のなかで人びとがまとまるのではないか、という考え方です。しかしこれが、必ず失敗する事は間違いないし、そんなもので、人びとが言う事を聞くはずはありません。例えば中学校の「道徳」で、愛国心を注入しようとしても、子ども達はそんなものは全く無視するか、馬鹿げた事だと笑うだけです。そんなことをしても公共空間はかえってますます空洞化し、みんな「自分には関係ないよね」と私的空間にどんどん閉じこもるだけです。

 こうした共同体的で規律的なソリューション(解決策)は、必ず失敗すると思いますが、政策的な決定権をもった人達は、それが分かっていないので、人びとの愛国心が足りないからこういう社会になったというまちがった思い込みをしているのです。ところが本当に必要がなくなったのは誰かというと、じつはそういう政治家たちや官僚たち自身の方なのですね。今の社会で本当にリストラされるべきなのはナショナリストたちなのです。一元的でナショナルな政治的共同体という、彼らの「職場」はもう存在しないのです。

 しかし他方、さきほどから話しているサブカルチャー・ナショナリズムの動きには十分注意する必要があります。なぜなら、この動きは「公共空間」が崩落した現在の日本社会にあって、メディアの回路をとおして安手のイデオロギーを「情報」として大量に流通させ消費させようという戦略だからです。この動きは、人びとが閉じこもっている私的空間に向けてメッセージを発信している側面があります。「南京虐殺なんて無かったんだってさ、マジの話」とか、「従軍慰安婦なんてありえないよね」とか、「おれもゴーマンかましてみよかな」というような、ほとんど私的なおしゃべりにちかい、プライベートな「情報」のレベルで流通することをめざして、ネオ・ナショナリズムのメッセージは作られているふしがあるからです。

 −−先程から話されている「公共空間」の回復についての展望はどのようなところにあるのでしょうか。

 こういう状況に対して、どのようにすれば「公共空間」を回復し、もう一度、政治的共同性を創造的な形で回復する事ができるのかというと、これは難しい問題なのですが、「上と下」という関係ではなくて、「ネットワーク」のような、今までとは全く違った発想で「公共空間」を創る経験をかさねていくしかないと思います。

 また現在の不健全なメディア状況に対する本当の処方箋も、やはり私たちがいかにしたら新たに「公共空間」を構築し、まっとうで民主的な政治的共同性を共有するダイナミズムをつくることができるかにかかっていると思います。

 以前にも話した事があると思いますが(本誌二一二号「語り方としてのアナクロニズム」)、日本の現状を見ても、新しい公共性、新しい政治勢力というのは、それぞれがローカルな関係のなかで生まれています。具体的には、NGOやNPOの動きや地方での新しい政治参加の動きのことです。これが、旧来のようにピラミッド的な中央に政党があってそれが末端をもっている、という形とは全く違った政治的な勢力として形成されてくる事が、もっとも考えやすいと思います。

 こうしたローカルな公共性のネットを、それぞれの人がそれぞれの場で張っていき、それを繋いでいく事で、社会の表面にある政治空間を張り替えていくと、今までとは違った、上から下へとツリー状に命令系統があるのではなくて相互に共存しているような、非常に多義的であるけれども自由なネットワーク型の「公共空間」を、展望として描く事ができるのではないでしょうか。

 こうした事は、日本の社会では、まだ政治的な表現を与えられていません。政治的な表現として、テーマ化されていません。あるいは、部分的にしかテーマ化されていないと思います。これがもっと広がっていく可能性が、明るいパースペクティブ、希望のある方向だろうと思います。もしこれが出来なくて、それぞれが孤立しているままだと、ナショナリズム的なイデオロギーに閉じ込められたり、それこそ天皇制に無意味に統合されたりという、非常に不幸な事になる可能性が高いでしょう。

 これを具体的にどうしていくかというと、それは非常に難しい問題である事も事実です。なぜなら、たとえば「共産主義」とか、ある核になるイデオロギーがあって、それを具現化すれば社会は変わるという、先程から言っている従来のピラミッド型、ツリー型の発想では現在の社会状況に対応できないという事は分かったのですが、それに代わるものをどうするかという事だからです。

 これが現在の日本社会において新しい「政治的オールターナティブ(対抗軸)」をつくるという課題です。この点については、政治学者の山口二郎さんや経済学者の金子勝さんとともに行ってきている(『二一世紀のマニフェスト?日本をどのように変えるか』「世界」編集部編・岩波書店)提言グループの作業でもテーマになっています。

 私の考え方としては、社会のそれぞれの場面で、それぞれの人びとがリフレクシブになる、反省的になる、あるいは少したちどまって色々とちょっと待てよと考えるようになることだけでも、事態は動きだすのではないかと思っています。そういう意味で、人びとがリフレクシブになる時に、さきほどファーストフードの例を出しましたように、自分はいったいどういうメディアの使い方をしているのか、自分はどういうように情報を得ているのかという事が、重要なポイントになるのだと思います。

 社会のそれぞれの場面で、それぞれの人びとが、今までと少し違った動きをする、違った考え方をする、違った見方をするという事が起きて行くと、人びとがあえてラディカルにある所や組織に集結しなくても、少しずつ人びとが変わるという出来事が相互に繋がった時に、非常に面白い事が出来るのではないかと思います。私が最近知った例でも、東京のある下町の定時制高校の生徒が南米の出身者で、日本人の子ども同様に教育を受けてきたのにお母さんがオーバーステイで逮捕され本人も強制送還の危機に陥る。そうすると高校の先生たちや職員たちがみんなでその生徒と親を守ろうと教職員一同で立ち上がる。そういうローカルな人々の連帯が、この社会に公共空間を張り直す具体的な動きになっていくのだと思います。そうした動きを情報として知っただけでも、私たちは励まされるし、自分たちの周囲で同じような連帯の動きを始めるきっかけになると思うのです。またこのような連帯の動きは、現在のように不況が進行し、さまざまな人権侵害が起こってきている社会においてはますます重要になってきています。

 このような動きを勇気づける、ゆるやかな連帯の運動が私たちの社会には必要なのだろうと思います。その動きは、よく注意してみないと見えないものとして、社会のいたるところにあると思いますが、今のところナショナルな政治の場面ではその表現がほとんど出てきていません。あるいは、全国的な政治の場面だけには、出てきていないと言った方がいいかもしれません。中央の政治にはまだ見えないのですが、地方や市民社会のさまざまなレヴェルでは確実に動き出している、この可能性が追求されれば、日本の社会状況は変わっていくと思います。


いしだ ひでたか/東京大学大学院情報学環・学際情報学府・教授

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