ノ・ムヒョン大統領誕生で考える韓国政治

                 出水 薫

2003.2.20 222−2003.3.20 223


  ノ・ムヒョン韓国大統領 

 韓国の第一六代大統領にノ・ムヒョン(盧武鉉)が当選した。本稿が掲載される時点では、すでに大統領に就任しているはずである。ノ・ムヒョン大統領は一九八七年の民主化後の四人目の大統領である。任期は二〇〇三年二月から五年間で、憲法の規定により再選はない。

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 二〇〇二年一二月一九日の選挙は、事実上の一騎打ちであった。キム・デジュン政権与党の新千年民主党(民主党)からは当選したノ・ムヒョンが出馬した。最大野党ハンナラ党からは、前回も出馬したイ・フェチャン(李會昌)が立候補した。

 選挙結果はノ・ムヒョンが一二〇一万四二七七票、イ・フェチャンが一一四四万三二九七票であった。絶対得票率(有権者数に占める得票の割合)ではノ・ムヒョンが三四・三一%、イ・フェチャンが三二・六八%で、その差は一・六三ポイント。ノ・ムヒョンは前回のキム・デジュンの得票と比較すると一・三九ポイント減らした。逆にイ・フェチャンは〇・一四ポイントと、ごく僅かだが前回よりも得票を増やした。まさに大接戦、本当に「僅差」の勝利であった。

 今回の選挙の争点を、どう理解すればよいのだろうか。一言で言えば、今回の選挙は「旧い政治」と「新しい政治」の対立だったと見ることができるだろう。それでは「旧い政治」とは何か。「旧い政治」とは、いわゆる「三金政治」と呼ばれるものであり、「地域対立」を基調とする政治である。

 民主化後の韓国政治はキム・ヨンサム(金泳三)、キム・デジュン(金大中)、キム・ジョンピル(金鍾泌)の有力三政治家を中心に動かされてきた。彼らは政治家として、民主化以前からの長い経歴をもつ。民主化後は、自らの地盤を中心に政党を組織し、たがいに熾烈なかけひきによって権力闘争を繰り広げてきた。

 「三金」が出身地域を基礎に議員を系列化し、政党を組織する「地域割拠現象」は、一般に「地域対立」や「地域主義」と呼ばれ、韓国政治の「病理」とされてきた。それは政策的な対立軸の形成を妨げ、政党政治が権力をめぐるパワーゲームに堕する原因として批判されてきたのである。

 さらに「旧い政治」は、ソウル大学を頂点とする学閥、血縁や姻戚関係を中心とするコネのネットワークを中心とした「特権」の体系でもあった。そしてその特権の体系の中心・頂点には大統領が位置する。本人の「清潔」さとは無関係に民主化後の歴代大統領はすべて、縁故者の収賄によって傷ついた。キム・デジュン前大統領も息子の収賄事件に見舞われた。

 今回の選挙で次点であったイ・フェチャンは「旧い政治」の継承者とみなされた。もちろん本人は、選挙期間中、これまでの政治を批判した。しかしソウル大を卒業後、司法試験に合格し、最高裁判事として頂点をきわめ、政界入りしたイ・フェチャンは、明らかに特権の体系の典型的な住人であった。息子の兵役忌避問題も、そのような文脈から受けとめられるものであった。

 またイ・フェチャンを候補としたハンナラ党は、「三金政治」の「遺産」であった。その前身はキム・ヨンサム元大統領が育てた政党であり、地域主義をまさに反映した政党であった。さらに遡ればキム・ヨンサムとキム・ジョンピルが野合した結果できた政党に、その源流は行き着く。

 その結果、ハンナラ党は典型的な地域主義の政党でもある。イ・フェチャンがノ・ムヒョンの得票の二倍の得票を獲得した地域がある。プサン市・テグ市・慶尚北道・慶尚南道である。これらの地域は、歴代の軍事政権の地盤であり、キム・ヨンサムの地盤であった。

 以上のように、イ・フェチャンとハンナラ党は、今回の選挙で「旧い政治」を代表していたのだった。

 それではそのような「旧い政治」に対立する「新しい政治」とは何だろうか。ノ・ムヒョンが象徴したものは何だったのだろうか。端的に言えば「新しい政治」とは、前述のような「旧い政治」を刷新するものであろう。

 イ・フェチャンの既成政治の刷新というスローガンは、文字通りスローガンとしか見なされなかった。それはその言葉とは裏腹に、イ・フェチャン自身が「旧い政治」を体現する政治家だったからだ。

 それに対しノ・ムヒョンの主張は、彼の存在そのものと一緒になってメッセージとなりえた。まさに彼自身が当選することが、「旧い政治」の打破であり、「新しい政治」の幕開けであると言えるのがノ・ムヒョンの「強さ」であった。ノ・ムヒョンという政治家は、基本的に「旧い政治」のアウトサイダーであったからだ。

 もちろん彼を候補とした民主党は、キム・デジュンのつくった政党であり、ハンナラ党同様に「旧い政治」の政党、地域主義の政党であった。今回の選挙でノ・ムヒョンがイ・フェチャンの得票の二倍の得票を獲得した地域がある。クァンジュ市・全羅北道・全羅南道である。これらの地域は、四半世紀近くキム・デジュン前大統領の固い地盤である。

 しかしノ・ムヒョンは、この「旧い政治」を反映した民主党内での予備選挙を勝ち抜き、大統領候補の座を得ることによって、逆説的だが民主党と「断絶」したのであった。

 昨年、民主党内予備選挙が始まった当初、ノ・ムヒョンは「泡沫候補」であった。彼を公式に支持する議員は、わずか一名であった。彼は「主流派」ではなかったし、「子飼い」をしたがえるボスでもなかった。しかし、だからこそ党員の投票にもとづく予備選挙を勝ち抜くことによって、彼は「旧い政治」の打破を託される立場を得たのであった。

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 ノ・ムヒョンは、まさに「旧い政治」のアウトサイダーである。

 彼は一九四六年八月に慶尚南道金海市近郊の農村で生まれた。貧しい農家の末っ子として、奨学金があることを理由にプサン商業高校に進学し卒業した。大学には進んでいない。キム・デジュン前大統領は三回の落選を経て、四回目の挑戦で大統領に当選した。キム・デジュンも高卒であり、彼が大卒であったならば、もっと早く大統領になれたはずだとは、しばしば言われることである。ノ・ムヒョンはキム・デジュンと同様に学閥の恩恵にあずかれない人物だった。

 高校卒業後に務めた会社を薄給のあまりすぐに辞めると、彼は司法試験の準備を独学で始めた。司法試験準備中に兵役を終え、夫人と恋愛結婚をしている。一九七五年に司法試験に合格し、修習を経て弁護士となった。彼が弁護士となったのはパク・チョンヒ(朴正煕)政権が、もっとも独裁的になった、「維新体制」の時期であった。しかし弁護士ノ・ムヒョンは、最初から「反体制」的な「人権派」だったわけではなかった。七九年のパク・チョンヒ暗殺を契機とする「ソウルの春」についても、著書では一定の距離感をもって回想している。

 彼がいわゆる「人権派」に変身したのは、チョン・ドファン(全斗煥)政権期である。チョン・ドファン政権初期に、プサン市で拷問を受けた学生運動の活動家の弁護をしたことがきっかけであった。かなり素朴で率直な憤りが、彼の立場を変えていったことが著書で述べられている。

 ノ・ムヒョンは「制度圏」と呼ばれる政界の外で民主化運動や労働運動に関わってきた。いわゆる「在野圏」の人物であった。その意味でも彼は「旧い政治」のアウトサイダーであった。

 その彼を政界にひき入れるきっかけをつくったのは、キム・ヨンサム元大統領である。一九八八年におこなわれた民主化後の最初の総選挙で、ノ・ムヒョンは国会議員となった。彼はキム・ヨンサムの率いる統一民主党に所属し、キム・ヨンサムの地盤であるプサン市から立候補した。この駆け出し政治家としてのノ・ムヒョンが初めて脚光を浴びたのは、チョン・ドファン政権期の不正を追及する議会の公聴会であった。その鋭い追及は、多くの人々に印象を残し、彼の政治家としてのイメージの原像をつくった。

 一九九〇年にキム・ヨンサムがノ・テウ政権の与党やキム・ジョンピルの率いる政党との統合に踏み出すと、ノ・ムヒョンはそれを「変節」として批判した。キム・ヨンサムと袂を分かち、三党統合に合流しなかった。この頑なとも言える原則的な行動は、この後も一貫する。

 ノ・ムヒョンはキム・ヨンサムと袂を分かった後、巨大与党に対抗する野党の統合の流れの中でキム・デジュンと合流する。そのため九二年の総選挙では前回と同じプサン市で落選する。「地域主義」の影響を、もろに受けたかたちであった。しかしノ・ムヒョンは同年の大統領選挙でキム・デジュンをひき続き支援した。

 キム・デジュンが落選し、一度は政界を「引退」したにも関わらず、九五年に政界に復帰すると、ノ・ムヒョンはキム・デジュンにも反旗を翻した。キム・デジュンが自らの「子飼い」を連れて、党を割ったからである。ここでも「三金政治」の全盛期に、あえてその趨勢に抗うアウトサイダーとしてのノ・ムヒョンの姿を確認できる。

 最終的にキム・デジュンの率いる政党に再度合流し、九七年の大統領選挙ではキム・デジュンを支援した。しかしもちろん「主流派」ではありえなかった。ノ・ムヒョンは九八年の補欠選挙でソウルで立候補し、ようやく二度目の国会議員の座を獲得した。

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 政治家としてのノ・ムヒョンの決定的な転機は、二〇〇〇年の総選挙であった。それは「泡沫候補」が党内の予備選挙で勝ち抜くための遠因となったし、さらには大統領選挙で勝利し「旧い政治」の打破を託されるための遠因ともなった。

 この二〇〇〇年の総選挙で、ノ・ムヒョンは二度目の議席を獲得したソウルの選挙区を捨て、プサン市の選挙区からの立候補に挑んだ。国会議員の座の「保証」を捨て、「冒険」を試みたのである。

 当時のプサン市は、キム・デジュン政権下で「冷遇」されているという「地域主義」感情が渦巻いていた。野党のハンナラ党は、その感情を煽るかたちでプサン市を地盤として囲い込んでいた。ノ・ムヒョンは、そこに「風穴」を開けようとしたのである。

 キム・デジュン政権与党の政治家が、反キム・デジュン感情の強い野党の地盤とされる地域から当選すれば、「地域主義」を壊すきっかけとなる。これがノ・ムヒョンの「大義名分」であった。

 選挙前の世論調査などでは当選の可能性がないわけではなかった。しかし結果としてノ・ムヒョンは落選した。政治家としては「愚か」な選択の結果であった。 自らの政治生命の終わりを覚悟したと、ノ・ムヒョンは著書で述べている。

 ところがこのノ・ムヒョンの「蛮勇」は、本人も予想外の共感の波紋を広げることになった。「地域主義」の厚い壁に正面から挑むノ・ムヒョンの姿は、選挙区を超えて多くの人々に強い印象を与えた。マスコミが、皮肉にも当選者よりも多くの関心を落選者であるノ・ムヒョンに寄せ、インタヴューなどをおこなったことも、彼の「冒険」の意義を人々に伝えることに貢献した。

 そしてインターネット上での議論がきっかけとなって、韓国政治史上「初めて」と言われる、政治家のファン・クラブが誕生した。「盧武鉉を愛する人々の集い」(韓国語の略称「ノサモ」)である。

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 「新しい政治」を象徴するノ・ムヒョンが、大統領への道を歩む転機となったのは、先にも指摘したように二〇〇〇年の総選挙であった。日本でも注目されたように、この選挙では、若年層を中心に「落選運動」が展開された。振り返れば、今回の大統領選挙結果をもたらす「予兆」とも言える動きが起きた選挙だった。

 この二〇〇〇年の総選挙において、ノ・ムヒョンは国会議員の座を約束されたソウルの選挙区を捨て、プサン市の選挙区から立候補した。「地域主義」打破の大義名分を掲げ、「冒険」を試みたのである。しかし結果は落選であった。ノ・ムヒョンの政治生命は危ぶまれた。

 ところがこのノ・ムヒョンの「蛮勇」は、本人も予想外の波紋を広げた。マスコミの注目を集め、選挙区を超えて多くの人々に共感の輪を広げた。そしてインターネット上での議論がきっかけとなって、韓国政治史上「初めて」と言われる、政治家のファン・クラブ、「盧武鉉を愛する人々の集い」(韓国語の略称「ノサモ」)が誕生した。

 「ノサモ」はインターネットから自発的に生まれた緩やかな組織である。その会員はホームページ(韓国語、URLはhttp://www.nosamo.org/home/index.asp)の数字によると八万人を超えている(二〇〇三年三月現在)。彼らは地域対立を克服することが韓国民主主義の発展に不可欠であるとの思いを共有する集団である。だからこそノ・ムヒョンの行動に共鳴したのであった。

 またインターネットを日常的に利用する彼らは、言うまでもなく若年層が中心となる集団であった。彼らはインターネットを媒介に、二〇〇〇年の総選挙において前述の「落選運動」を主導した集団でもある。当時彼らは「386世代」と呼ばれた。この命名は、彼らが三〇代で、八〇年代に大学に入学し、六〇年代生まれであることを、パソコンのCPUの型番にひっかけてつくったものであった。

 彼ら「386世代」は民主化を街頭で担った世代である。彼らは民主化という大きな変化を実体験し、変化の可能性を強く信じることができる。さらに彼らには「制度圏」と一線を画す「在野圏」において民主化の一翼を担ったという自負がある。したがって彼らは、「旧い政治」に対しひときわ批判的である。彼らは旧態依然たる大物政治家の取り引きを軸にした「制度圏」内の政治全体に否定的であった。

 「旧い政治」のアウトサイダーとしてのノ・ムヒョンを、「旧い政治」に対し批判的である「386世代」が支えた。これが今回の選挙結果のひとつの特徴である。韓国のマスコミも各種世論調査をもとに、相対的に二〇〜三〇代ではノ・ムヒョンが優勢、五〇代以上ではイ・フェチャンが優勢という世代間の投票行動の「分裂」を指摘している。

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 「旧い政治」の打破を標榜し、「旧い政治」の打破を期待する層の支持を集めて当選したノ・ムヒョン。しかし現実に「旧い政治」の打破に取り組もうとする大統領としてのノ・ムヒョンにとって、その環境はかなり厳しい。例えるならばノ・ムヒョンは、自らが破壊しようとするピラミッドの頂点に落下傘で降下したような立場にある。「旧い政治」のただ中に大統領として降り立った彼の前にはいくつもの障害がある。

 例えば前で指摘したように、そもそもキム・デジュンの「ボス支配」下にあったため、ノ・ムヒョンは自らの与党内で少数派であった。したがって与党としての本来の役割を、自分の所属政党に当然のものとしては期待できなかった。だからこそ当選したノ・ムヒョンは政権引継ぎまでの期間、まず与党を「掌握」する努力をしなければならなかった。

 またこれもすでに指摘したように、「旧い政治」を代表すると見られる野党のハンナラ党は、現在、国会の過半数の議席を占めている。したがってノ・ムヒョン大統領が首相に指名したコ・ゴン(高建)の国会承認では、やはり多数派野党の強い抵抗を受けることとなった。

 そのような障壁を乗り越え「旧い政治」を打破するためにノ・ムヒョン大統領は、国民の支持を直接引き出す手法を採る。それは「ノサモ」結成の火をつけ、一般党員の支持を集めて党内予備選挙を勝ち抜き大統領候補の座を射止めたのと同じ手法である。この手法は組閣早々にさっそく利用された。検察の人事をめぐってである。

 「検察の国」という言い方が韓国にはある。検察は政権が対抗勢力を弾圧するための手段として利用されてきた。その「政治性」と権力の強さ、影響力の大きさを示したのが前述の言い方である。言うまでもなく韓国は反共と反北を長く体制の基本原理としてきた。そして国家保安法に代表される治安立法を体制の「骨格」としてきた。したがって治安立法を運用する諸機関は、大きな権力、影響力を行使してきたのである。

 もちろん民主化の進展にともなって、そのような治安機関の権限は制限されてきた。例えばキム・デジュン政権下では「国家安全企画部」(その前身は悪名高いKCIAである)が大規模な組織改編によって「国家情報院」へと改組された。しかし検察は、司法関連機関であることもあり、「司法の独立」を盾に手つかずのままであった。そして民主化後も野党や政権に対抗する勢力の政治的な弾圧に利用されてきたのであった。

 ノ・ムヒョン大統領はこの検察にメスを入れる組閣人事をおこなった。法相に四〇代の女性弁護士を抜擢したのである。彼女は「人権派」の弁護士であり、「在野圏」の運動にも関係する人物である。ノ・ムヒョン大統領は、この法相に検察組織の刷新を図る人事を命じた。そこにはもちろん、弁護士であったノ・ムヒョン大統領自身の経験からくる判断があったであろう。「旧い政治」の一部としての検察組織を「体質改善」しなければならないと考えたに違いない。具体的には、拷問などの違法な取調べを過去におこなったものや、特定の政治家との関係が疑われるものを幹部からはずすことが人事の眼目であった。これに対し、検察組織は年功を機軸とする組織秩序を破壊する「不当な介入」として反発した。

 この検察組織の反発に直面して、ノ・ムヒョン大統領は、現場の検察官達との直接対話を国民に公開するかたちでおこなった。当事者を「説得」する過程をテレビを通じて公開することによって、国民の支持を集めようとしたのである。結果として組織の刷新人事に抵抗していた検事総長が辞任し、人事は断行されることになった。

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 この事件をめぐって韓国のマスコミの一部は「民意の独裁」、「民意による強権政治」への警鐘をならした。「旧い政治」の打破という目的が、あらゆる手段を正当化できるとばかりのノ・ムヒョン大統領の大胆な手法に対する批判である。

 確かに司法の独立や行政組織内部の自立性の尊重という観点からすれば、この批判は、まったく的外れというわけではない。今後も「民意」を梃子に「正面突破」を試みる際には、この種の批判が常に起きるだろう。当然ノ・ムヒョン大統領には「民意」を「隠れ蓑」にした恣意的な強権の行使ではないことを国民に納得してもらうよう、説明することが求められる。「民意」を「追い風」に「旧い政治」打破するためには、「民意」を形成する努力が常に求められる。

 もちろんそのようなあり方こそが「新しい政治」のひとつの表現であり、ノ・ムヒョンこそは、それを可能にする政治家であるとの期待が、彼を大統領に押し上げたことは間違いない。ノ・ムヒョン大統領自身、そのことを良く理解しているだろう。しかし政党内での予備選挙の勝ち抜きの過程と異なり、大統領として国民の多数派の合意を形成するのには、また異なる与件があることも見落としてはならない。今回の大統領選挙の結果は、かってない「接戦」であり、裏返せば「民意」が「二分」しているのである。

 「二分」のひとつの軸は、韓国のマスコミが報じたように依然として「地域主義」対立である。前稿で紹介したように、選挙結果には従来と同様の「東西対立」現象が現れた。イ・フェチャンが慶尚南北道でノ・ムヒョンの二倍以上の得票を獲得し、逆にノ・ムヒョンが全羅南北道でイ・フェチャンの二倍以上の支持を受けたのである。これはノ・ムヒョンの主張とは裏腹に、それぞれの候補者の所属政党の「地域主義」的な特性を維持していることを示している。

 「旧い政治」の代表的な「病理」がなかなか払拭できないでいることは確かに問題だろう。しかし「地域主義」的な対立軸は民主化後の政治史の経緯と、政党の組織の特徴に起因するものであり、直接に政策的な争点と結びつくものではない(だからこそ「病理」と言える)。

 おそらく、より大きな影響を及ぼす軸は前述した世代の「分裂」であろう。ノ・ムヒョン支持の中核となった前述の「386世代」は、「既成世代」批判をおこなう。この「既成世代」と言う言葉は、すでに一定の社会的な地位などを獲得した世代を指す言葉として韓国で使われる言葉である。言うまでもなく、それはイ・フェチャンに相対的に優勢な支持を与えた世代(五〇代以上)と重なる。つまり「386世代」の「旧い政治」批判は実は「既成世代」批判と表裏なのである。

 この世代間の対立は、政策的な対立軸とかなり重なるものになるだろう。おそらく、この世代間の「溝」は民主化という大きな政治変動が残したものに違いない。どのような立場で民主化に臨んだのか。どのように行動したのか。それらが「世代」によって、かなり異なるはずだ。そこから、ある種の価値観や個人の行動様式にまで世代間に「断絶」がもたらされている可能性が高い。

 世代間の対立が、現在の「二大政党」状況と、どう絡みあっていくのかは不透明である。しかし価値観の「断絶」を背景に、世代間の対立を反映する政治的対立軸が形成されていくのであれば、直接国民に働きかけ、多数派の合意を形成していくノ・ムヒョン大統領の手法は、かなりの困難に直面するだろう。

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 最後に外交政策を例に、この世代間対立に直面するノ・ムヒョン大統領の困難を考えて本稿を終えたい。

 今回の大統領選挙の主要争点のひとつは、キム・デジュン政権の北に対する「包容政策(太陽政策)」の評価であった。ノ・ムヒョン大統領は基本的に「包容政策」を継承する立場をとる一方、敗れたイ・フェチャンは「包容政策」に批判的であった。

 この「包容政策」への評価は対米関係への態度と表裏になっている。「包容政策」に批判的なイ・フェチャンは、アメリカとの同盟関係の強化を基盤に、北に対する「アメとムチ」を強調した。包容政策は「甘い」というわけだ。これが反共・親米の価値観を強くもつ「既成世代」と親和的な主張であることは容易に理解できる。

 他方、「包容政策」を継承するノ・ムヒョンにとって、アメリカ(とりわけ対外強硬路線のブッシュJr.政権)との関係は「微妙」なものとならざるをえない。かってノ・ムヒョンは在韓米軍の撤退を主張したことがある。もちろん現在のノ・ムヒョンの立場は、そこまで「急進」的ではない。ただ選挙期間中には「堂々とした自主外交」を強調し、既存の「弱腰外交」を批判している。在韓米軍基地の整理も政策として提起している。

 そのようなノ・ムヒョンの態度は、彼の中心的な支持層である「386世代」の「反米」的な強いナショナリズムと共鳴する部分であった。彼ら「386世代」は民主化の過程で「既成世代」の反共・親米的な価値観を、相対化する機会をもった。その傾向は今回の選挙期間中に発生した在韓米軍による中学生轢殺事件で示され、選挙の動向にも影響を与えたのである(詳細は、前々号の金未来氏の論考を参照のこと)。

 さらに彼らは、その強いナショナリズムに裏打ちされた統一への志向をもっている。彼らは二〇〇〇年の南北首脳会談から衝撃を受けた世代であり、キム・ジョンイル「ブーム」を体験した世代でもある。彼らにとってアメリカは、民族の自律的な統一への努力に水をさす存在である。したがってここでも彼らは「反米」や「嫌米」の傾向を示す。

 当選したノ・ムヒョンは、「包容政策」の「継承」を、以上のような世代間の対立を前提に、おこなわなければならない。国会の多数派を「既成世代」が占めている状況で、「386世代」の「民意」を結集して「正面突破」を試みても、それは「民意」を「隠れ蓑」にした恣意的な強権の行使との批判を招く結果となるだろう。しかし「既成世代」との中途半端な妥協は「旧い政治」への妥協として、自らの支持基盤の離反を招くことになる。まさに文字通り「民意」の形成の手腕が厳しく問われるのである。ノ・ムヒョン大統領が、その困難な事業を、どのようにやり遂げていくのか。注目したい。


いずみ かおる/九州大学大学院法学研究院教員
http://homepage2.nifty.com/IZUMI_Lab/

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