高須小学校だから起きた事件なのか
  -民間出身校長の自死について-

               小川 龍一

2003.4.20 224 


 民間出身校長の自殺を報じる新聞 

 新しい年度も近づいた二〇〇三年三月九日、尾道市立高須小学校の校長が自死するという事件が起きました。私たち高須小学校の職員にとっては、その日までの一年間このようなことが起きなければよいのだが、と案じてきたことでした。しかし、これが私たちの勤務する高須小学校だから起きた事件なのかどうかというと、はっきりと「NO」ということができるのです。これは、今の広島県、特に尾道市の小・中学校においてはどこで起きたとしてもおかしくない事件だといえます。

 この一年間高須小学校に何があったのか、そして広島県や尾道市の教育現場に何があったのか、現場で過ごしてきたものとして、記憶をもとにふり返ってみたいと思います。

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 辰野教育長が広島県に持ち込んだ「是正指導」という名の教育に対する統制は、これまで私たちの先輩たちが創り上げてきた広島県の教育を大きく変貌させてきました。人権を大切にする教育や平和教育、「ヒロシマ」の教育すら例外ではありませんでした。

 平和教育研究所発行の「夏休み帳」は、平和教材が充実している教材ですが、原子力発電所についての記述がいけないということで、学校で採択することに対して、強い抗議がありました。内容の変更があってから後も、採用する学校は減少しています。そこには「平和教育」「ヒロシマ」の教育をつぶそうという意図がはっきりと感じられます。

 また、「日の丸・君が代」を学校に持ち込むことだけが是正指導の中身なのか、といいたくなるような学校行事への強制も年を追って厳しいものになってきました。そういう動きの中で、学校現場の教職員が話し合いの中で教育を創り出していくというのではなく、学校長の権力を強化することで、校長一人の考えにすべての教職員は従わなければならないという方式を持ち込み定着させてきたのです。様々な行事などで、「学習指導要領」こそが唯一絶対の法であるかのような愚にもつかない論理で「日の丸・君が代」を強制してきました。結果として、卒業式においては自分の意志で「君が代」の斉唱時に起立しなかった児童・生徒に対して管理職や彼らの意を汲む者が直接起立するよう命令する、ということまでやっているのです。

 そして一昨年度、尾道市教育委員会は、市内の全ての小・中学校の卒業式の形式を統一してしまうという行動に出ました。「卒業式」と呼称してはならない。「卒業証書授与式」でなければならない、としたうえでステージバックには児童・生徒の作品ではなく「日の丸」と「校章旗」のセットを配置しなければならないということで、全校にこのセットを新しく作り配布したのです。しかも、「君が代」の伴奏については、ピアノの生演奏でなければならないということで「職務命令」をちらつかせながら音楽の担当教諭などに伴奏を強制してきたのです。

 まさに県教育委員会のいうトップダウンそのものです。現場で子どもたちに関わる者たち、実際に教育活動を行っている者の考えや子どもたち自身の考えや思いについては、一切考慮しないまま上からの命令に従わせる、ということが正しい教育活動だというのです。その他、是正指導以降の広島県、尾道市の教育現場の状況については、書き出せばきりがない状況です。

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 そのような状況の中で、二〇〇二年度、尾道市立高須小学校に民間出身の校長が就任することが決定したわけです。

 高須小学校というのは尾道市で二番目に規模の大きな小学校で、七〇〇人以上の児童が学んでいます。尾道市内や近隣の企業に働く外国籍の人たちの子どもたちも多く、その国籍も何カ国にもなります。教職員の人数は、様々な職種をあわせると三〇人以上にもなるのですが、是正指導以降、尾道市教育委員会が他市町村に先駆けて導入してきた様々な施策により、全員これまでにもまして超過勤務が増えていました。

 「このような状況の現場に、なぜ県教委は民間からの校長を配属したのだろうか。」というのが職員の気持ちだったのではないかと思います。「これ以上働けというのだろうか。」漠然とした不安を職員皆持っていたと思います。職員として話をしていたことは、学校現場の抱える課題などについて話を丁寧にしていき理解をしてもらわなければならないということでした。具体的には、どのように話ができるのかはおろか、それができるのかどうかもわからないまま四月一日を迎えたのです。

 学校で歓迎会を兼ねた昼食会を催したときも報道陣に囲まれた中でした。しかし校長先生は、強烈な個性だとか、自分の考えを強烈にアピールするということはなく、むしろ物腰の柔らかさが目立っていました。

 そういう校長先生と赴任当時から職員は様々な話をしてきましたが、その最初は尾道市役所まで校長を車で迎えに行った者との会話です。「夏休みがあるが、どのくらい休めるのか。」というものです。また、出張するときに公用車が学校にはないことや出張承認願いに「自家用車・公用車・交通機関・同乗」など細かく記入しなくてはならないことについても、「どうしてそこまでしなければならないのか。」と驚いてもいました。また、前任校長からも「夜の会に出ることも多いのだから、広島からの遠距離通勤は無理だ。」と聞かされていたが当分の間、自家用車、新幹線、在来線を乗り継いで自宅から通勤していました。当然自宅に帰れないことが多かったり疲労も蓄積するということで、「どこか安いホテルはありませんか。」という質問を私たち職員にするまでに多くの日数はかかりませんでした。

 つまり、学校という現場がどういうところなのか全く知らないまま、全く知らされないままこの学校に赴任してきたのだということが、かなり早い段階で明らかになっていたのです。また、遠距離通勤の理由についても、母親の介護のこと、新築したにも関わらず転勤続きでほとんど住んでいない自宅のことなどをあげ「何で尾道なのか、自宅の近くに勤務したかった。」と話していたのです。企業戦士として過ごした彼は自分の子どもたちの小学校の参観日にも運動会にも全く行ったことがなく、知っている小学校というのは自分が通っていた四〇年以上前の学校だったのです。

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 小学校現場に対する知識もないまま赴任してすぐの四月三日、彼が「第一の試練です。」と私たちに語った事件がありました。

 小・中学校の学級の児童・生徒数は四〇人ということになっています。この前年末の高須小学校の五年生(新六年生)は一二一人でした。つまり三学級にすると四一人の学級ができてしまうために四学級編成にすることになっていました。ところが、新年度になって新六年生の児童のうちの一人が転校することになり、急遽三学級に編成変更しなければならなくなったのです。新校長として転校する児童の保護者の説得にも取り組んだのですがうまくいきませんでした。結果として、学級減に伴い二名の臨時採用職員は解雇となり時間割も組み直しとなったのです。説得することができなかったことを自分の責任だと感じていました。

 この一件以降、小学校現場が新年度を迎えるに当たっての忙しさや地域やPTA関係の夜の集まりなどへの出席などで肉体的な疲労や精神的な疲労が重なってきたのは、私たち職員にも見て取れました。

 しかし、尾道市においては教育改革を実行するという尾道市教育委員会によって次々と新しいことが導入され、私たち職員も連日連夜の超過勤務が続いていたのです。しかし、新しく降りてくる書類の記入方法などについては、校長に対してのみ教育委員会から説明がされるのです。私たちは、その校長に対してのみ質問ができるわけですが、質問をしても何も答えられず、つらそうな校長先生に対しては、質問すること自体もひかえるような雰囲気になってきました。何もわからない校長先生に対してできることは、仕事以外のことについてでも良いから、とにかく話しかけるということしかなかったのです。

 また、仕事についてわからないということとは別に、小学校の教育に関わって「自分はこのようにしたいのだ、だからどのように協力してほしい、」とか「このようにやっていこう。」というような話を最後まで聞くことはありませんでした。教育委員会からの文書に対しては、最後まで「通達」と呼んでいた校長先生です。自分なりの教育内容を創造するということについては、第一の試練から立ち直ることがないまま、具体的には考えていなかったのではないかと思います。

 そして、おそらく第二の試練だったであろうことが五月に起きます。それまで、学校の仕事に関して全面的に頼っていた教頭が倒れたのです。教育委員会から来る文書の言葉を理解するのにも全て教頭の説明を受けていたし、それを職員に説明するのにも教頭にどう伝えたらよいのかという説明を受けていました。そういう説明だけで一日に二時間ほど校長と教頭は話していました。教頭にしてみれば通常の業務に加えての二時間ということですから確かに負担にはなっていたと思います。校長自身も「教頭が倒れたのは、自分の責任だ。」と発言するなど、責任を感じていました。

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 このとき、尾道市教育委員会の対応は素早く丁寧なものでした。二人目の教頭が決まるまで午前午後に分けて市教委から人を派遣して、校長の補佐としてくれたのです。

 しかし、今年二月に二人目の教頭が倒れたときには、尾道市教育委員会はどのような対応をしたでしょうか。これが、第二の試練の時の対応とはあまりにもかけ離れたものだったのです。

 市教委からは誰かが来てくれたとしても午前中の二時間程度だったり全く誰も来ない日が多かったのです。結局、教頭と校長の仕事も職員でできる部分は職員が分担して行っていたのです。しかし、校長としては教頭のいない分自分がやらなければならないのだという思いが強かったようです。所在なげに遅くまで残っている校長に「学校の戸締まりは私たちがやりますから、帰ってください。」という声をかけても帰ることはありませんでした。

 この途中一〇月には、子どもたちの飼育しているウサギが一七頭殺されるという事件もありました。このときの尾道市教育委員会の対応についても不可解な点があるのです。この事件については、校長と教頭が発見し現場の片づけをしたのですが、事件が起きた土曜日から二日が経過した月曜日まで、私たち職員に対しては何の連絡もなかったのです。職員の中には残酷で不可解な事件であるため「マスコミ対応が必要になるだろうから、その点しっかり市教委の指示やアドバイスをもらった方がよい。」ということや「児童の登下校の安全についてはすぐに対応しましょう。」と話をしたものもあるのですが、しばらく具体的な動きはなかったのです。「取材の申し込みがないので大丈夫でしょう。」とその日の夕方校長が話していたことからみて、様子を見るようにという指示が教育委員会からあったのではないかと思います。その後のマスコミ対応にも校長は追われることになりました。

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 学校の実務や現実についての理解の乏しい校長故に何を援助しなければならないのかということは分かっていたはずなのに、なぜこのような市教委の対応になっていったのだろうかと考えたとき、文部科学省の指定校となった尾道市立土堂小学校の件に思い当たります。

 市内の他の小・中学校には「学習指導要領」の遵守を命じながら土堂小学校については「学習指導要領にとらわれないすばらしい学校」ができますとアピールする市教委なのです。この学校への思い入れは相当なものでした。そして、この学校の校長を公募するということで、尾道市教育委員会の興味・関心は民間校長からはっきりと土堂小学校へと移ったのだとしか考えられません。五月にはあれほど素早くてあつく対応していたにも関わらず、一〇月のうさぎ事件、二月の教頭の病気休養という動きの中で民間人校長の魅力は市教委にしてみれば急速に色あせたということなのでしょう。

 そういう尾道市教育委員会の体質が明確になったのが、三月九日校長の自死直後の市教委の動きなのです。

 九日の夜のPTAの緊急総会で教育委員会の対応策を発表するということで、職員に対して事前にその対応策を話してもらいました。その内容は、今年六月まで病気休養となっていたはずの初めに倒れた教頭を翌日の三月一〇日から復帰させるというものでした。これは、職員全員の反対で何とか撤回させることができたのですが、人の命を何とも考えていない尾道市教育委員会の考えをはっきりと示しているのではないでしょうか。

 こういう体質の尾道市教育委員会が、教育改革と称して次々に新しい施策を投入してくる状況の中では、高須小学校だからというのではなくどこの学校でも同様の事件が引き起こされて不思議はありません。文部科学省の意向をそのまま各市町村教育委員会に命じる広島県教育委員会とその県教委に対して先取り率先して新しいことを取り入れようとする尾道市教育委員会。彼らの指導・命令は、二〇〇二年九月にも一人の中学校教諭を勤務中突然の死に追いやっているのです。また、病気休養に入る学校職員は現在も増え続けています。

 このような広島県・尾道市を取り巻く状況から考えて、高須小学校の校長の自死は、広島県教育委員会・尾道市教育委員会によって引き起こされた人災と断定せざるを得ません。


おがわ りゅういち/広島県小学校教員

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