「反教育的教育改革」を考える

             宅川 昭典

2003.6.20 226


 一、教育改革の名のもとに行なわれていること

 いま日本全国を教育改革の嵐が吹き荒れている。広島県でも、小・中・高の学校現場に県教委から次から次へと新しい指示が下ろされ、その対応に全教職員が振り回されている。

 そして学校はその一方的な指示によって急激に変化している。ここ一・二年で学校は今までになかったような大きな変貌を遂げるであろう。

 この急激な変化のなかで、現場から最も多く上げられている教師の声は、「県教委の指示の対応に追われて生徒対応の時間がなくなった」というものである。そういう状況であるから教職員にこの改革の是非についてじっくり考えるゆとりはない。

 この改革は、まず現場からの声を封じるという一方通行の学校管理態勢を作り上げることから始まった。だから県教委には、生徒対応の時間がないとか、現場に教育論議の時間がないということを問題にする意識は初めからない。このことはこれから続くこの改革の反教育的内容を暗示するものと言える。まずこれまでの経過を整理してみる。

 (1)ヒロシマの教育

 私たちはヒロシマの教育として、解放教育(一人一人の子どもを大切にする教育)を基底に据えて教育実践を積み重ねてきた。それは言ってみれば、切り捨てられる子供たちをどう学校教育につなぎ止めるか、という取り組みである。どの子も自分の人格を形成し、社会人としての生活ができるようにならなければならない。日本ではその任を担うのは学校である。そのことを正面から受け止める努力をして来たのである。

 (2)是正指導

 しかし文部省是正指導という名の下に解放教育つぶしが猛威を振るった。県教委はまず県教委の意に添わないあらゆる団体との話し合いの窓口を閉ざすことから始めた。

 学校に対しては民主的校務運営をやり玉に上げ、校務運営規定を変更することを校長に指示した。校長は教職員に諮ることなく独断で校務運営規定から「民主的」の文字を削除し、同時に職員会議を決定機関から伝達機関へと変えた。全ての決定を校長の独断で行えるようにしたのである。

 かくして校長を通じて下ろされる県教委の意思が職員会議で否決されるということがなくなり、教育行政の上意下達は一直線に徹底した。もとより校長は県教委に対して弱い立場にあったが、今や校長は県教委に対して戦々恐々である。実際の校長の言葉だが「県教委に対してもの申すことなど以ての外」、という実態になってしまった。県教委に異論を唱えるなど、打ち首覚悟の直訴に等しいといった状況で、まさに封建的身分制度が貫徹したかのごとくである。教育現場の要求が県教委に届くという道筋はまったくなくなってしまった。

 (3)変わっていく学校

 現場の要求を全く聞かないということが教育行政としてあり得るのか、時代錯誤も甚だしいと思うのだが、実際にいま広島ではこのような教育行政がほぼ貫徹したと言っていい。

 校長は県教委の指導を受けて、反対意見が出ようものなら「校長命令でやってもらいます」、と命令、命令を連発するし、職員会議で意見が出ても「ここは議論するところではない」と言ってうち切ってしまう。

 学校教育にとって職員会議が伝達機関になるということは致命的である。それは学校から教育論議の場がなくなり、教師が互いに学び合う場がなくなるということである。

 いままでは職員会議は、一年間の教育活動の総括など様々な相互研修の場であったし、一人の生徒の指導を全員参加で考える場であった。

 例えば、一人の生徒の進路に係わる問題については教師としての経験と学習の全てを出し合って議論してきた。それを聞き、自らもそれに参加しながら教師はその力量を高めてきたのである。それがいまは決定は管理職と何人かの教師で行なわれ、「意見を言ってもどうにもならない」という投げやりな雰囲気の職員会議で報告されるだけである。

 直接生徒に接するのは教師であり、教師が教師としての力量を高めることは学校教育の必須条件である。しかも学校では、様々な経験の教師が等しく責任を負って教育に当たっているのである、教え合い協力しあうという職場の和がなければ学校は成り立たない。みんなの知恵で解決するというシステムをなくして、教職員間に協力や和よりもギスギスと責任を問うという雰囲気すら陰に陽に漂いはじめている。

 いま学校は教師が「教育」を学び合う場をなくして、学校が教育機関であることを放棄する道をまっしぐらに進んでいる。

 (4)管理職が教諭を指導することの限界

 県教委は管理職が教諭を指導するのだといい、個人評価システムを学校に導入している。これをもって教師の力量を高めるということであろうが、これが今までに行なってきた様々な形の教師の相互研修に代わる役目を果たしうるとはとうてい思えない。教師の学習システムとして誠に不安を抱かせるものである。

 まずこれは、上からの管理機構に組み込まれたものである。教師の自主的・自発的学習意欲とはかけ離れている。指導といってもマニュアル的になるであろうし、しかも、管理職一人の指導であるから管理職の能力に決定的に左右される。指導の内容には自ずと限界があるだろう。

 次に、いま目標を数値化することが流行である、数値はその扱いようによっては表面的数値解釈に堕してしまって、かえってものの本質を見えなくしたり深まりを阻害してしまう危険がある。教育は目に見えない数値化できない部分が大きい。そこを軽視し殺してしまう危険が大である。

 そして管理職の資質の問題もある。今まで、管理職になるためにはそれまでの自分の教育的信念を捨てなければならないというのがほぼ一〇〇%の教師の認識である。指導する管理職は県教委を笠に着るしか方法のない状況にある。

 個人評価システムは定められた手続きであるから教職員は従うが、そういう中での指導であるから、深い教育論に裏打ちされた指導はほとんどの場合期待できないであろう。

 (5)会社化する学校

学校は子どもたちの人格の形成を担うところである。営業や製造を仕事とする会社や工場とは多くの点で違っている。このことを校長に言うと、校長は「学校は会社ですよ」、という言葉が返ってきてびっくりした。

 校長が学校の基本方針を示すときは、それは「経営理念」である。用語は「経営理念」とするように県教委から指導を受けている。従わなければやり直しをさせられる、それは問答無用である。

 校長は、「経営理念」という言葉の問題としてではなく、いまのこういう県教委と校長との管理のあり方が会社的と言っているのであり、今まさにそういう管理が校長の教職員管理に求められているということを言っているのであろう。

 いまや、学校と会社はどこがどう違い、また、違わなければならないか、という点も言葉にして確認しなければならない状況に来た。

 違いは個々に上げれば数多くあろうが、最も違う点は、会社や工場では不良品を間違いなく廃棄するということが大切になるであろう。しかし学校は、一人一人みな違う子どもたちの、その全ての子どもたちに、それぞれに人格の形成が取り組まれなければならないのであり、誰一人として廃棄されてはならないという点である。

 だから学校で子どもについての様々な評価をするが、それは一人一人の成長に資するためのものであって、序列をつけるためであってはならないし、まして序列の下位を廃棄するためであってはならない。

 いまの広島県の改革は、学校からはみ出す者はどんどん切り捨てる方に進んでおり、そういう意味でまさに学校が会社化しているのである。

 (6)是正指導のもたらしたもの

 是正指導以降急増したものは、定員内不合格、休・転・退学である。それらは適格者主義という名の下に、県議会文教委員会の意向を受けて県教委が校長に指示し成ったことである。そしてそれは、職員会議が決定機関でなくなったから可能になった。

 しかし、県教委の指示で強引に定員内不合格を強行した管理職も、その前は定員内不合格反対を言っていたはずである。是正指導以降、手のひらを返すように今のような状況が発生したのである。是正指導は、管理職は県教委の指示通りにしか動かないという状況を完璧にしたのである。

 このまま進めば不登校の生徒や学校から切り捨てられる生徒が急増し、いま社会問題となっている青少年をめぐる様々な問題を益々悪化させるであろうことは火を見るよりも明らかである。

 また、一連の職員管理体制の強化にともなう校内機構の変更作業、県教委への報告事項等が激増し、超勤時間が益々増加している。物理的時間と精神的ゆとりがなくなり、腰を据えて教育論を闘わすという雰囲気はなくなってしまった。教材研究の時間さえままならないといった実態で、ある教師は思わず「教育職でなくて行政職になったような気がする」、と言った。

 このように現場無視の指示が過重な超過勤務を生み、ことさらに上下関係を強調する管理強化がギスギスした暗い雰囲気を生み、教職員のやる気を削ぎ、職場環境を破壊している。そしてそれは確実に生徒に跳ね返ってくるということが県教委に理解されていない。

 その具体的事例は学校現場に溢れかえっているが、それは行政と学校の間の意思の流れが一方通行(問答無用)になったということから発生しており、だから、これに対抗し教育を取り戻す手段が今の学校では難しくなったということである。

 (7)文教委員会

 いまの教育行政や学校と県教委の関係については前述したとおりであるが、県教委の上に位置する県議会の文教委員会の考えも様々な場における関係者の発言から明らかになっている。

 例えば、神道を学校教育の中心にしなければならないとか、教育勅語を復活しなければならないとか、どこかで聞いた言葉のオウム返し、例の「日本は天皇を中心とした神の国である」、という主張の流れに沿ったもので、まことに教育行政に責任を持つ者の意見とは信じがたい。

 そのような主張は今や多くの一般の人が参加できる場でも臆することなく述べられている。それは世の中がある程度それを受け入れるようになってきているという読みがあって、さらなる世論作りのためにあえて試みられているのであろう。広島県に限らないかもしれないが、民主主義に逆行する流れが渦を巻き逆立っている。

 (8)反教育に対抗するために

 権力の魔力にとりつかれた者、教育の何たるかを少しも考えない者たちによって学校教育が蹂躙されていっている。これを阻止する闘いは学校を通して行なう以外にない。

 しかし、この教育破壊を阻止する闘いは上記理由で学校だけでは不可能である。教育改革は結局は、保護者を中心とした学校を含む地域社会がそれを受け入れるかどうかということである。

 校長が県教委に行って、「いくらそう言われても保護者が、地域社会が許しません」といって帰る、という状況をいかに作っていくかということである。

 いま学校で起こっていることを学校現場は発信し、地域住民も学校現場に行ってまずそれを知る。それ以外に教育破壊を阻止する道筋はないように思われる。

 二、教育の目的

 教師生活を振り返って考えてみて、教育の目的を教育基本法に確かめなければならないようなことはほとんどなかった。実感としては、教科指導と日々の生徒対応を行っていれば、教師の仕事の八、九割は全うしていると言っていいだろう。それが互いに学び合い協力し合うという民主的職場で、教育基本法の理念に基づいて行われているなら。

 しかし、民主的校務運営が破壊され、教育の目的がねじ曲げられ、生徒間の競争が煽られ、学校教育の破壊が進行していっている今、真の教育を取り戻すためには教育論の闘いは避けられない。やはり、教育の目的をどう考えるかが基本であると思う。

 いま教育基本法の改正をめぐる論議で、教育の根本的なとらえ方の違いとして、「個」の確立が先か、共通の価値観を伝えることが先か、とうことで議論されている(読売新聞、二〇〇三・五・二七)。教育の目的をどう考えるかによって改革の方向は大きく違ってくるように思う。

 (1)人格の完成

 私は、教育の目的は「人格の完成」であると思っている。そして、教育破壊はこの教育の目的を「国民の育成」にすり変えることから始まると思っている。

 人は誰でも「豊かに自らの人生を全うする」権利を有しており、そのことが憲法によって保障されている。この憲法に保障された権利を実現するために教育がある。全ての人に「誰のものでもない自分の人生を、自らの意志と自らの責任において全うする」ということを教育が保障するのである。その教育の目的は当然「人格の完成」でなけらねばならない。

 (2)曲げられた教育の目的

 明治以来の日本の教育を振り返ってみる。明治政府が憲法に先立ち学制を頒布し教育に取り組んだのは、明治政府が行った欧州先進国の視察によって、国力を付けるためにいかに教育が大切かを知ったからである。

 植民地化されないために国力を付けることが国家の最大の課題であると考えたこの時代に、教育の目的を国家建設のための人材育成としか考えられなかったのはある意味やむを得なかっただろう。

 しかし、教育基本法のもとでの戦後の教育も、国の「工業立国」の方針のもと、教育基本法の理念に反し、財界の「少数のエリートと大多数の従順で質の高い労働力」の育成、という一貫した要請に沿って行われてきた。国力を付けるために人材を育成するという目的は終始一貫変わらなかったのである。

 すなわち、学校は全人格的教育よりも技術者養成を目指す機関であった。そして、時代とともに競争が激化し、子どもたちがしのぎを削って競争する場となり、やがて、偏差値教育、受験戦争という言葉がマスコミを賑わしたことでわかるように大きな社会問題となっていった。

 財界も、このような教育では必ず社会からドロップアウトする者ができることを予想し、それによって生じる社会不安の増大が大きな社会問題になることを恐れた。その対処に細心の配慮が払われたことも事実であるが、しかしともあれ、文部省は、教育の目的を人格の完成ではなく「国家(財界)が要請する国民」の育成ととらえて教育行政を行なってきたということである。

 教育の目的が「人格の完成」であるとするなら、教育の場に、競争や選別はそぐわないことは明らかであろう。すなわち、学校は一人ひとり違う子どもたちがそれぞれに自分の人格の完成を取り組む場であり、決して競争させて生徒を選別し、不適格者をふるい落とす機関ではないからである。

 しかし、教育の目的を「国民の育成」とするなら、まさに今までの教育行政に見られたように、その時々の国家の要請に従って国民を効率的に育成することが教育の目的になるのだから、競争も生徒をふるいにかけることも当然なこととして行われることになる。

 今の教育改革も、教育改革国民会議の「荒れた子の隔離論」(河上亮一)に見られるように、この路線上にあって、さらに厳いものになるだろうと思われる。

 (3)教育基本法では 

 教育基本法は教育の目的をどう定めているであろうか。

 第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

とある。一見「人格の完成」とも「国民の育成」とも取れる表現である。しかし、ここに言う国民は「平和的な国家及び社会の形成者」としての国民であり、国家については前文で、

 われわれは、さきに、日本国憲法を制定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。・・・

とあるように、民主化を押し進めることを世界に宣言した国家である。

 教育基本法は、そういう国家の建設を担う「国民」の育成を教育の目的にしている。無条件に国家に従う国民ではなく、国家が反民主化に進んでいるときはそういう国家の転覆を図る国民、の育成である。教育基本法が教育の目的としている「人格の完成」と「国民の育成」は同じことを言っているのであって矛盾はしない。

 (4)私の教育の目的 

 教育基本法には教育の目的を「人格の完成」としているが、今のところ私はそれを子供向けに、「子どもが大人になること」と言い換えている。そしてその大人の条件は、

 @自分の行動は自分で考え自分で決定できる。

 A行動の結果に責任が持てる(他人に対しても、自分自身に対しても)。

 B我慢力(自制心)がある。

の三つにまとめることができると思う。

 これが十分に備わっているのが「大人らしい大人」で、そうでないのが「子どものような大人」である。

 (5)学校は教育の目的に添った教育をしてきたか

 学校は「大人らしい大人」を育てる機関として十分機能しているであろうか、という視点から今までの学校教育について考えてみたい。

 @は自主性ということだが、自主性は指示多きところには育たない。自主性は、生徒自らが考えて行動し、例えそれが失敗しても、その失敗に生徒自らが気付き、自らの考えと意志で修正するという体験を通して育まれるものだろう。失敗をさせないようにきめ細かく手立てすることが正しい指導とならない場合も多い。

 Aは責任感ということだが、他者の指示による行動に行動者の責任は生じないのであり、そんな体験ばかりさせていたのでは責任感が育まれるはずがない。かえって、自分の行動の不調な結果を人のせいにするという最も困った習性が身についてしまいかねない。

 Bに自制心・自律心を育むために、生徒に様々な負荷(規則で縛る)をかけるという主張を散見するが、悲しいことだ。

 そのような規則はその必要性の説明が付かない場合がほとんどであるが、必要性の説明ができないような規則で生徒を縛るということの理不尽さを認識しなければならない。説明できないときは問答無用でやるのだが、問答無用は教育以前の暴力だ。

 そして、「規則はそれに従う者(集団・社会の構成員)が討議を通して作る」という民主主義の大原則は相手が生徒だからといって無視されてはならない。いや、生徒だからこそ、常に変化していく社会にあって、未来の自分たちの社会のルールを自らの手で作り出されるように学校で指導し教育されなければならない。これこそが教育の第一の目的である。
(Bは、「社会の構成員としての自覚を持つ」、といい変えた方がいいかも知れない)

 (6)生活指導について

 今までの生活指導のあり方は、とかく「問題行動の取り締まり」的になり勝ちであった。そして、問題行動の発生数の減少を望むあまり罰則を強化するということも見られた。多くの学校で、いかに生徒を強い管理下に置くことができるかが生活指導の成功を左右すると考えられた。

 このように、生活指導は本来の教育の目的を見失い勝ちになる指導領域であるが、「角を矯めて牛を殺す」式の指導になったのでは本末転倒である。

 しかし、この傾向は、あらゆる評価を数値化しておこなうという「学校評価制度」の導入とともに益々強まることが予想される。

 「大人らしい大人」を育てるためには、学校は何をしなければならないか、何をしてはいけないかを、もう一度考え直してみる必要があるように思う。特に生徒指導関係で、中でも「生徒心得」に関わって。

 (7)生徒のため

 教師は「生徒のため」という言葉をよく使う。教師の仕事は、その内容は全て「生徒のため」であるから当たり前といえば当たり前であるが、この「生徒のため」ということで行なわれる具体的教育活動は、教師によりずいぶん違う。ときにはその評価が一八〇度違うこともある。

 (5)(6)に述べたことは、全ての先生が両手をあげて賛成、とはいかなかった内容であり、実際このように学校が動いていないと思うからもう一度検討してほしいと思う。教育の目的をしっかりさせなければ「生徒のため」はいくらでもぐらつく。

 (8)教育基本法改正

 生徒と教師は命と命のぶつかり合いである。だから、教師さえしっかりしていれば教育基本法がどのように変えられようと日々の教育活動はそんなに直接的な影響を受けないだろう、という思いも一方にはあるだろう。

 しかし、私達は国旗・国歌法を思い出さなければならない。たった二条数語の法律である。しかも国会であれほどはっきりと強制するものでないことが確認されたのである。しかしながら、この法律によって憲法に保障された思想信条の自由は無惨に蹂躙されている。悪法がいかに猛威をふるうかを思い知らされる事件が次々と学校現場に起きている。

 「我々を守る法は、その法が我々を守るのではない、それを我々が活用できるというだけである。逆に我々の権利を制限する法は、それがあるだけで我々の権利は制限される。その法を活用しようとする者がいて作ったのだから」、ということを痛いほど教えた国旗・国歌法である。


たくがわ あきのり/広島県元高校教員

  トップページへ  ページの先頭へ