連載 ある学徒兵の戦後(16)

          上尾 龍介

2003.7.20 227


 駅舎のまわりには石ころがゴロゴロしていて幾らかの広さがあった。日暮れ時のせいか人影はどこにもない。

 駅の構内を仕切るのは白く塗られた木の柵だが、それは頭の方に切り込みのある卒塔婆の形をした棒の連なりである。立枯れた草がそれを蔽っていて、もの淋しい田舎の停車場の風情である。それが少しずつ闇に包まれていった。

 今の僕には、方角も判らなければ、立っているこの場所が広いシベリアのどの辺りなのか、など、何もかもがまるで判らぬ。判っていることと言えば、この三日間、時々どこかで停車しながら、ただ走り続けたということだけだ。

 ウラジオに居た頃の、それなりに安定した気分は急に崩れはじめ、絶望の見え隠れする不安が心を支配するようになっていた。それは、どこまで運ばれて行くのだろうという不安と、もしかすると、このまま帰れなくなるのではないか、という恐怖であった。

 列車が走っている間、貨車の小さな窓から何とかして外を見てみたいと思ったが、覗き窓は高い所にあった。同乗している同じ班の兵隊の中には、「働いている日本兵の姿が見えたぞ」という者もいた。

 僕は手帳を破ると、住所と部隊名と名前と日付を書き、今から伐採作業に行く者である旨を書き添え、覗き窓から投げた。それを日本兵の誰かが拾ってくれることを願ったのだ。もし拾ってくれたら、万に一つだが、それが親の手もとに届かないとも限らぬと思ったし、北京の学生寮から同時に五十九師団に入隊した学友の誰かが拾ってくれるかも知れないとも思った。そうなれば、今日までの僕の生存は少なくとも確認されることになるだろう。などと考えたのだ。しかしそんなことをしながら、一方では、まるで子供がするようなことをする自分を、恥ずかしいと思ったりもした。

 そのような思いのなかで輸送されて行ったのだったが、その果てに着いたのが、原野の中のこの小さな駅であった。

 ここで乗換えるというのだが、乗換えの貨車らしいものはさらに見当らない。石ころをそのまま無造作に敷いた構内のデコボコの上に腰を下ろして、列車を待つことになった。

 あたりはすでに、シベリアの濃厚な闇に塗りつぶされていた。民家の灯りらしいものなど見当らない。

 耳がチリチリと刺すように痛む。軍手をした両手で掩う。しかし腕を動かすと、却って寒さが襲ってくる。身体が芯から冷え切っているのか、絶えず小便を催す。ぼそぼそと声のしている周圍も静かになる。

 兵隊たちは背嚢から毛布を取りはずすと、めいめい頭から被っている。闇の中を、毛布を引きずった黒い影が、妖怪のように辺りを動きわる。僕は、戦友の川守田の分と二枚重ねにしてすっぽり被る。刺すような外気から辛うじて逃れる。二つの背嚢を座布団のように石の上に置いて腰を下ろすと、そこは柔らかい毛布の壁に護られた小世界となった。

 だが、夜が更けるにつれて、気温が急角度で落ちて行くのか、体が底の方から顫え出してくる。下腹に力を入れ、奥歯を噛みしめながら、冷え切った石像のように、川守田とがっちり抱き合っていた。そして身動きもならず、互いの小刻みに顫える肩を押さえ合っていた。毛布を透して、氷を当てたような寒気が背中に徹る。僕は、小刻みに顫え続ける川守田の苦力(クーリー)服の肩に顔を埋めるようにして、その夜はシベリアの寒気に耐えた。

 軍歴証明によって推定すれば、これは昭和二十年の十一月二十八日に当る。

 その夜、たとえ切れ切れの眠りであっても少しは眠れたかどうか自分では判らなかったが、気が付いた時は、夜明け間近い闇の中に、何人かの兵隊の声が、冷気を破って甲高く聞こえていた。

 それは「飯上げ」の役目を担う者たちの幾らか威勢のいい声であるらしかった。

 やがて各班ごとに分配された朝食は、噛めばボロボロと屑の落ちる粗悪な黒パンであったが、僕は半分ほど食べると、残りを靴下に包んで背嚢に入れた。次の飯上げがいつになるかは見当もつかなかったからだ。

 わずかなパンを胃の中に入れると、眼を覚ましたように空腹が拡がるのだが、それは、たとえ支給されたパンの全部を腹に入れたとしても、変ることはなかった。すでに体じゅうが飢えていたのである。
 その朝、何時頃乗車したのか、どのような列車だったのか、それらのすべてを僕は全く記憶していない。

 シベリアから帰ると間もなくのことだが、僕は記憶をたどりながら、回想記を綴った。それは半ば日記形式のもので、かなり克明に書き残している。それは当時の粗悪な原稿紙と大学ノートに書いていて、二冊の原稿紙の束と一冊のノートとなって手許に残っている。その茶色に変色した原稿の行間を丁寧にたどって見たのだが、その日の早朝に乗せられた機関車や列車の外見については、どこにも記されていない。ただ、その列車が思いもよらず客車であったこと、そして、当時の日本の田舎でよく見かけた軽便鉄道の座席のような木の座席であったこと、そしてそれが、薄汚れしていたことなどを、なつかしさの見える筆致で記録している。

 客車という座席の付いた列車に、まるで生まれて初めて乗ったような嬉しさで、その朝僕の心はどうやら弾んでいたようだ。

 中国の山東省から長城を越えて移動した時は、がっしりと二段に造り付けられた軍用の貨車であったし、ウラジオの街を出て、荒野の中のこの小駅まで運ばれて来た時は、氷室のようなロシアの大型貨車であった。

 その二度の貨車輸送は、どちらも、兵隊達にとっては心に鉛を呑んだような重い旅であった。山東省歴城県を出る時は、三光作戦の中で捕らえた捕虜を銃殺して、穴に埋めての出発だったし、その上で次の戦場に移動して行くのだという無気味な思いに、誰の心もささくれていた。

 敗戦で捕虜になり、ウラジオに連行されて、そこの収容所から、更に奥地へと送り出されたのは数日前だったが、その頃には、どうせなるようにしかならないのだ、という捨て鉢な無力感と絶望があった。

 しかしその二度の貨車輸送と違って、この日は幾分か気が軽いようであった。

 汽車はそれ程速い速度では走らなかった。日本の田舎を走る簡便な支線の、ひなびた駅のような小さな駅が、忘れた頃に現われては過ぎて行った。幼年の頃、時々母に連れられて乗った田舎の汽車の、小さな駅のことを思い描いていたのかも知れない。

 日本の汽車もそうだったが、シベリアの支線の駅にも、近くに一軒か二軒の家が見られたし駅の施設だけで、あたりに木立ちが見られるほかは何もないような所もあった。駅を離れると、平野の中に所どころ葉の落ち尽くした林があったり、時にささやかな森もあったが、それらは、どこまでも無表情に続く曠野が、思い出したように見せてくれる微笑のような点景であった。

 駅に着くと子供の姿が眼に入ることがあった。子供たちはどの子も白い頬をしている。幾つめかの駅で見かけた少年は、停車場の白い柵にもたれて汽車を見ていた。卒塔婆型の柵は、丈高く茂った枯草に蔽われていて、その子は柵に首をもたせてじっと眺めていた。

 この少年達は、申し合わせたように同じ帽子を被っていた。ウラジオストクで見かけた街の子供達は、どの子もきまって鳥打帽であったが、シベリアの田舎の子供達が被っているのは、まるで鬼の頭のように、中央にニョキッと、角が一本立ったような鼠色の帽子であった。

 そう言えば、この型の帽子は何かの写真で見たような気もする。第一次大戦の頃のドイツ兵が被っていたものが、あんな形のものではなかったか、などと思ったりする。

汽車を降りると、そこはどうやらこの支線の終点らしく、やや大きな部落だった。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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