インタビュー 大学をアメリカ型国策研究機関化する法人法

                       小森 陽一

2003.7.20 227


  国立大法人法反対の意見広告

 −−政府が提出した国立大学法人法について、大学人を中心に新たな反対の世論と運動がありますが、この法律はどのようなものでしょうか。(同法は七月九日成立)

 今年の二月二八日に閣議決定された国立大学法人法案は、これまで国立大学協会(国大協)などで議論され、文部科学省とのあいだで一定の共通認識を得たはずであったものとは、まったく違ったものになっています。これまで伝えられてきた議論の推移と、大きく違っています。したがって、法律が出されてはじめて、これが何を狙いとしたものであるのか、はっきりしてきました。すべてが密室で議論され、国大協さえもだまして、闇討ちのように出された法律だということです。

 決定的に違うのは、法案の第二条で、「この法律において『国立大学法人』とは、国立大学を設置することを目的として、この法律の定めるところにより設立される法人をいう」とされていることです。つまり、国立大学法人とは、国立大学を「設置するための法人」なのです。この間の議論のなかでは、法人と大学を分けるこうしたやり方を「間接方式」と呼んできました。しかし、国大協が要求したのは、国立大学それ自体を法人にすることで、これが「直接方式」です。それが完全に裏切られたのですから、本来なら国大協は全体としてこの法案に反対するのが筋なのです。

 それでは何故、大学とそれを設置するための法人を分けるのか、ということが問題です。一つには、法人が大学経営を支配することによって、大学の教育と研究を圧迫するためです。もう一つは、法人が大学を設置するので、国が設置者ではなくなることによって、国の大学に対する財政責任を放棄するためです。これが「間接方式」に反対する最大の理由だったのですが、まさに寝耳に水で、出てきた法律はこの形になったのです。国が財政責任を負わないということは、国家財政を削減するという意味での行財政改革の一環として、国立大学が餌食にされたということになります。

 また、今までの議論では、国立大学が独立行政法人化されると言われてきました。それでは、国立大学は独立行政法人になるのか。行政改革をすすめる勢力は、大学を独立行政法人化するのは当然だと考えてきました。しかし、大学側は独立行政法人化にはつよく反対してきました。国大協も当初は反対していました。少なくとも、現在すでに存在する独立行政法人に関する通則法に則ったものではダメだと主張しました。けれども、今回の国立大学法人法は、実際には、独立行政法人の通則法が運用されています。

 −−具体的な問題点はどのような点にあるのでしょうか。

 そのなかで、いちばんのポイントになるのは、国立大学法人をとおして、国立大学が徹底して文部科学省の統制の下に置かれるということです。この点が国会でもいちばん問題になっています。この法律の第三十条の1項は、「文部科学大臣は、六年間において国立大学法人等が達成すべき業務運営に関する目標を中期目標として定め、これを当該国立大学法人等に示すとともに、公表しなければならない。これを変更したときも、同様とする」とされています。つまり、文部科学大臣がそれぞれの国立大学の目標を「定める」のですから、文部行政や国立大学の教育と研究を、完璧に「国策化」していくことが決められているのです。

 しかも、三十条の2項で中期目標の最初にあげられているのは、「教育研究の質の向上に関する事項」です。ですから、教育研究の内容について、具体的に「ここを、こうしろ」と言うように、まさに立ち入った目標が文部科学大臣によって定められるのです。これとセットになっているのが、「業務運営の改善及び効率化に関する事項」「財務内容の改善に関する事項」ですから、教育研究の内容について文部科学省の言うことを聞くかどうかということと、予算措置の問題が連動させられているのです。

 さらに大事なことは、「教育及び研究並びに組織及び運営の状況について自ら行う点検及び評価」「当該状況に係る情報の提供」「その他業務運営に関する重要事項」を中期目標に定めるとされていますから、各大学の教育研究組織の統廃合なども文部科学大臣が決めるということです。すでにこれは先行してすすめられており、例えば三〇人以下の研究所などは、研究の内容はぬきにして、単に小規模だという理由で廃止されることになっています。東大の社会情報研究所が廃止されるのも、この一環です。

 このように、中期目標という大学の教育研究の屋台骨にあたる部分を、文部科学大臣が定めるのですが、これを実現するために大学側は中期計画を提出することになっています。そして法案の第三十一条では、この中期計画も文部科学大臣が認可するとされています。目標を与えて、それに対する具体的なプログラムに関しても、文部科学大臣が認可するのですから、徹底して各大学の手足を縛り、文部科学省の思いどおりにするための法律なのです。

 かつて、独立行政法人化することによって、大学が自由になる、文部科学省からの自主性・自立性を獲得する、などという議論がありましたが、この法案をみると、それとは一八〇度違ったものになることがはっきりしています。国会の証言では、佐和隆光さんが、これは「大学をソビエト化するものだ」と評価しています。「何年計画」などというのは、経済でさえうまくいかなかったのに、学問研究でうまくいくはずがない、という話です。しかし、事態はそのような方向にすすんでいます。

 −−大学運営に学外者が参加すると言われていますが、大学の組織はどうなるのでしょうか。

 もうひとつ、各大学について定められた目標に対する業務の実績に関する評価は、評価委員会によってなされるのですが、この評価委員会に関する事項は「政令で定める」(第九条3項)ことになっています。このように、国立大学を文部科学省がすべて支配するのですから、大学は文部科学省とのパイプをつくることでしか、生きていけない訳です。これに、国立大学法人の組織問題が深くかかわってきます。

 法案第十一条の2項では、「学長は、次の事項について決定しようとするときは、学長及び理事で構成する会議(「役員会」という)の議を経なければならない」とされています。この「役員会」とは何かというと、理事は学長が任命するのですが、すでに各大学法人毎にその理事の人数も、二名から八名のあいだで、この法案の別表に定められています。現在の大学の役員は、学長と副学長二名ぐらいですから、これが大幅に増やされるということです。ですから、東京新聞などは、これはあきらかに天下りのポストを増やすことになると暴露しています。すでに各大学では、退職した文部官僚を招くという話もあります。端的にいうと、現在ある九七の国立大学と一五の大学共同利用機関を、八九の国立大学法人と四の大学共同利用機関にするのですから、最低でも八九以上の天下りポストが生まれるということです。

 他方で、この法律によって、大学の経営と教育研究が実際の運営においては分けられることになります。法案の第二十条では「国立大学法人の経営に関する重要事項を審議する機関として、経営協議会を置く」とされています。しかも、その3項では、学外委員(大学法人の役員や職員以外の者)の数が委員総数の二分の一以上でなければならない、とされています。したがって、大学法人の経営に関しては、学外委員の方が発言力をもつことになります。それでは、その学外委員にはどういう人物がなるのか、という問題があります。ちなみに、今回の法律で、国立大学法人は、長期借入金をしたり、債券を発行することが認められ、大学の経営が企業化されることになります。そうすると、当然のことながら、経営協議会の学外委員には、主要取引銀行や証券会社の役員それに文科省からの天下り組が入ることになるでしょう。

 こうなると、あきらかに、「官」と「産」が一体化したかたちで、大学の教育研究の方向を決めていくことになります。大学の外から大学をコントロールする、しかもそこには、文部科学省のがんじがらめの支配があるのですから、大学における学問の自由、教育研究の自由は、徹底してつぶされていくし、大学は利潤をあげることを第一の目標とした組織になり、基礎研究や人文社会科学がつぶされていくのは間違いないでしょう。

 教育研究に関する機関としては、この法律の第二十一条で「教育研究評議会を置く」となっています。学長、理事、学部・研究科・研究所などの長、その他学長が指名する職員で構成されるのですが、ここでようやく学内者が入ってくるのです。教育研究と経営は現実的には、絶対に分離できるはずがないのですが、これを経営協議会と教育研究評議会に分けてしまうことで、経営を優先した組織になってしまいます。事実上は、学長をトップとした経営協議会に大学全体が支配されてしまいます。

 しかも、今回の法律は「国立大学を設置するための国立大学法人」についてのものですから、これまでの教授会や評議会などの学内組織については、一切法律化していません。にもかかわらず、文部科学省は、国会で法律も決まっていないのに、それらの事項を中期目標に盛り込めという違法な指示を出しているのです。ということは、教授会の下に各学部が自治をもち、そこから選出された委員によって構成される評議会で、大学の意志決定がなされる−−という、これまでの大学の自治のあり方は、完全につぶされるということになります。

 −−そうなると、日本の研究や教育はどのように変えられていきますか。

 教育基本法の改悪をめぐる中央教育審議会の答申では、少数のエリートとなる国策的人材を大学で育成する、その領域もIT(情報技術)、ナノテクノロジー、ライフサイエンス、環境という四つに限定し、そこに行政が全面介入する方向になっています。ですから、すべては国家と財界の意のままの研究をする場としての大学にしたいし、しかも短期的に成果のあがる研究しかしない、という方向です。

 これが実際に研究をどのように変えていくのかということに関して、内閣府・総合科学技術会議の「競争的研究資金制度改革について」(四月二一日)という文書があります。その「具体的方策・競争的研究資金獲得に対するインセンティブの向上」というなかで、「研究者本人の給与」として、「国立大学の法人への移行後においては、その自主的な判断により、競争的研究資金の獲得及びその研究開発成果等の業績が適切に給与や人事に反映するシステムを導入すべきである。その中で、競争的研究資金における研究者本人の人件費の計上及び給与への反映のあり方を検討する」とのべられています。これまでの競争的資金は、文部科学省の予算でいうと科学研究費で、それを申請すると日本学術振興会で選定して割り振っていました。今度は、そこから給与まで出していくことになります。そうすると、二重三重の産学官の連携のなかで、必要とされた研究だけにお金が付けられることになります。しかも、この競争的資金の獲得に関して、「競争的な給与・人事システムの構築」の項で、「法人化後の各大学においては、その自主的な判断により、競争的研究資金も含め、外部資金獲得やその研究開発成果を研究者の実績として適切に給与や人事に反映する給与・人事システムを積極的に導入し、競争的メカニズムを創っていくべきである」とのべています。ですから、競争といいながらも、基本的には今の財界と政府が必要なところに重点化していくということです。

 こうした方式は、すべてアメリカの競争的研究資金配分システムの模倣で、まったく自主性もなくアメリカ型をめざすということです。アメリカのNSFやNIHといった競争的研究資金配分機関の真似をしようというのです。ところが、アメリカの研究開発というのは、国家安全保障・国防が基本になっています。国防に関連する研究には莫大な国家予算=軍事予算がつぎ込まれ、そうでないものは、桁違いに少ないのです。冷戦構造の時もそうでしたし、冷戦構造が終わった今でもそうなっています。アメリカの「IT革命」と呼ばれるものを考えてみても、それはITハイテク兵器開発による軍事革命の成果を、民間に開放し利用するなかで、経済的にも「ITバブル」のような現象が生まれたのです。例えば、レイセオン社が製造しているトマホーク・ミサイルを支える衛星測位システム(GPS)のように、国防予算を投入して秘密裏に研究開発し、冷戦構造が終わって、それを湾岸戦争で世界にデモンストレーションし、アメリカには絶対にかなわないと各国に思わせて、ロシアや中国が軍事費を減らして経済に傾注するようになり、そのなかでアメリカはハイパー・パワー軍事大国としての地位を占めています。こうした国防予算を投じたITの研究開発による軍事革命に連なって、いわゆる「IT革命」がある訳です。

 日本で一連の経済団体が、憲法九条を改悪すべきだという方針を出したりしているのは、これまで憲法九条や非核三原則などによって日本が直接にアメリカが開発・保有しているような兵器を生産したり輸出することに制約があったものを、突破していこうと意図があります。そのために大学の研究も利用していく、国家や財界に気に入られる研究において競争することによってしか、お金も獲得できないようなシステムになっていくことが、はっきり見えてきたのではないでしょうか。

 アメリカの大学で莫大な国家予算が注ぎ込まれて、ある限定された時期に世界的な競争力をもった科学技術は、基本的に軍事技術あるいは世界制覇をねらうための技術であり、それは今のブッシュ政権を見ても明らかなように、アメリカの「国益」にすら反して、ごく一部のインサイダー情報をもっている人たちだけが利益を得、残りの圧倒的多数は切り捨てられていく−−これをささえる技術や学問です。理系や文系にかかわらず領域を越えて、私たち研究者に問われているのは、そうした方向を行くのか、それとも、本当の意味で全人類がともに二一世紀を生き延びて、地球のかなり壊れた環境も再建していく−−そのような学問や研究をすすめていくのか−−ということです。こうした流れ、二一世紀の人間が負っている責務からみても、今回の国立大学法人法は、それを踏みにじるものになっていると思います。

 −−大学人や研究者のあり方が深刻に問われてきますね。

 この一〇年間、日本の大学はさまざまな努力をしながら、それぞれの研究領域でも世界的なレベルを達成してきましたが、このような努力はつぶされてしまいます。例えば、ノーベル賞を受けた小柴さんや田中さんの研究をとっても、本当に優れた研究は、短期的に結果や成果が出るものではないし、さまざまな試行錯誤を経て生まれるものです。その意味で、本当に水準の高い研究をすすめようという学問の芽を摘み取ってしまうことになります。逆に、きわめて短期間に利益をあげることだけを追求する、いわば独創性のないものしか生まれなくなるでしょう。これは長期的に見ると、日本の研究や教育を空洞化させてしまうことになります。現在の産業界が必要とするエリートを養成すれば良いということですから、誰も構想しなかったような新しい学問の領域や科学技術の研究が生まれてこなくなり、日本の学問を砂漠化することになります。

 これは、文部省・文部科学省が日本の教育研究についての根本的な構想をもたずに、つねに場当たり的に、ある時は政府、ある時は財界から言われることに右往左往してきた、戦後の文部行政のお粗末さ加減が、最悪のかたちであらわれてきたともいえます。彼らが予算を確保して、その分配によって権力を確保するという、まさに官僚的な下卑た感覚、日本の学問研究の「百年の計」を崩してもかまわないという感覚でやってきたことの結果でもあります。こうした問題が、密室的に国大協さえも情報を隠して、国民に知られないままにすすめられてきたこと自体、この法律そのものの姑息さがあらわれています。

 しかしこれに対して、抜き打ち的な法案提出から、その内容の深刻さがあきらかになり、これに気づいた大学人の反対のうごきが、全国の大学からあらためて急速に起こってきました。この東大でも各学部教授会から学部長名で反対の意見が表明されました。これは、文部科学省に盾をつくと不利益を被るぞという、反対の声を事前に押しつぶそうとする策動をはねかえしていくうごきとなりました。また、法律がとおってもいないのに、成立を前提として文部科学省が準備を指示していることも国会で暴露され、参院での審議は一時ストップしました。

 その法律がどのようなものであれ、官僚が決めたら通るものとして、大学当局が意見を言わずに国に媚びへつらう−−これ自体が、大学の自治や学問の自由を権力に売渡すことになる−−その危険性について、この間のたたかいのなかで明らかになってきたと思います。これは、今後それぞれの大学の中でも、当局にどう対応していくのかという教訓としての意義もあったと思います。四回にわたる新聞への意見広告運動も、ほとんど知られていなかった、この法律の危険な本質を社会的にあきらかし世論をつくるきっかけとなったし、国会での審議過程そのものが、それを暴露する場となり、文部官僚が答弁できない状況をしばしば生み出すことになりました。

 これから、この法案が成立したとしても、日本の研究教育がアメリカ型の短期的利益のための国策研究で行くのか、日本独自の学問研究の独創的展開をめざすのか、という問題はひとつの大きな議論になっていくと思います。


こもり よういち/東京大学大学院総合文化研究院教授

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