連載 ある学徒兵の戦後(17)

           上尾 龍介

2003.8.20 228


 この鄙びた支線の客車に乗り込んだのは、ようやく夜が明け初めた頃だったが、終点の駅に降り立った時は、午前の日が既に高々と昇っていた。

 そこはやや大きな部落で、山間に開けたかなり広い土地に、木造の粗末な家が二十軒ばかり、道を挟んでバラバラといった感じで建っている。

 それは、絵や写真などで見かける北欧の静かな村を思わせた。そのおだやかな牧歌的な風景は痛めつけられた体や心をなごませてくれた。

 凍ったボロボロの黒パンが分配されたのは朝の暗いうちであったが、もう誰も持っている者など居ない。空腹の苦痛が次第に募ってくる。先ほどから戦友の川守田がしきりと空腹を訴える。

 捕虜生活に入って以来、食料の支給は常に少なかったのだが、ウラジオストクの収容所を出た時から、その配給は不規則になって、何度かの絶食に見舞われることになった。

 降り立った駅前の広場には、山から伐り出したままという感じの太い材木があちこちに積み上げられている。

 その広場の中ほどに、僕たちは整列した。隊長の姫野少尉だけは旧陸軍の服装で、腰には軍刀を吊っていたが、ほかは全員が苦力の綿入れ服である。それは、上衣とズボンに分れたブクブクという感じの衣服で、その上から、各人がそれぞれ日本軍の背嚢を背負っている。といういでたちである。

 やがて一人のソ連軍将校が近付いて来て、姫野少尉をまじえた何人かで話をはじめた。少尉はずんぐりと背が低いので、向き合ったソ連軍の将校と釣り合わない。

 話が終ると、整列した全員の前に高木曹長が現われて

 「昼食は、現地に到着した後支給される。それまで辛抱して歩いてくれ」
という旨を伝えた。

 兵隊たちは重い気分であったが「あと少しの我慢だぞ」と自分にしかと言い聞かせながら、駅前の広場を後にした。足の重い出発であった。

 駅を出はずれてかなり歩き、林の陰を曲ると農家らしい家が寄り添うように建っている。

 次第に近づいて見ると、それらは、横にした木材を組み上げて建てたような、軒の低い家屋であった。屋根も板葺きだったが、すべてが白木で造られた古い家なので、全体が灰色にくすんでいる。それでも窓枠だけは暗い色の緑か白かに塗られていることが多いので、そこだけが何となく童話風に見える。家の外の、板や棒などで無造作に囲った柵の中では牛や豚が無心に遊んでいる。

 柵の傍らの立枯れた草の中に、何人かの農婦が立って僕たちを眺めているのが眼に入ったが、彼女たちは申し合せたように、灰色やカーキー色の長いスカートを履いていた。その、かなり着古したスカートは、腰のあたりから下がわずかに傘のような形にふくらんでいて、その姿は、まるでミレーの描く農婦を見るようであった。

 或る者は、両の手を胸のあたりで握って、食い入るように僕たちの列を見ていたし、或る者は、傍らの人と何やらしきりに話しながら、不思議そうに眺めていた。

 恐らくは変化にとぼしい日常を生きているのであろう彼女たちにとって、この日、はからずも眼にした日本兵の長い列は、きっと、生涯に二度とは出合うことのない特別な出来ごとであったに違いない。

 ソ連軍の兵士達とはまるで違った珍らしい服装の、しかも背の低い若者の集団が、隊列を作って歩いて行くのだから、これは彼女達をして眼を見張らせるに充分であったと思われる。そしてその晩のささやかな食卓では、彼女らの語るヤポンスキー・ソルダツトの話に、どの家の子供たちもきっと眼を輝かせ、家族の耳は、恐らく、吸い寄せられるように一つになっていったに違いない。

 村を出はずれると、暖かく黄枯れた野の窪みを、澄んだ水が流れるともなく流れていた。そこには何羽かの家鴨が泳いでいて、波紋の漂う水の面には初冬の雲が揺れていた。

 僕はシベリヤの農家の素朴なたたずまいを眺め、あたりのおだやかな景色を眼にして、時に空腹を忘れたように重い足を運んでいた。更に進んで行くと、道は幾らか細くなり、その道は森の中へと續いていた。

 森には丈の高い針葉樹が鬱蒼と聳えて、それらが、まるで競い合うように森を奥深く見せていた。針葉樹の間の所どころには白樺が枝を広げ、それらの喬木にまじって、丈の低い木々が遠慮勝ちな顔をのぞかせてもいたし、点々と見え隠れする白樺は、広げた枝々に金色の葉をそよがせてもいた。
 シベリヤの森は、日の光も届かぬほどに繁った密林ではない。それは疎林である。ロシヤ人は、この
 北の涯ての美しい森をタイガ(tayga)と呼んだ。

 森の中を歩いて行くと次第に雪が深くなった。

 一定の距離を歩いたと思われる頃 「小休止!」
の声が前の方から逓伝されて来る。兵隊たちは救われた思いで両側の雪の上にどかどかと腰を下ろす。雪の冷たさが心地よい。そして雪を頬張って乾いたのどを潤す。と言えば聞こえはよいが、それは実は空腹を埋めているのである。だから兵隊たちは貪欲に雪を頬張るのである。中には背嚢のままぐったりと仰むけになる者もいる。時には雪の下から枯れた草が覗いていたりする。

 本部からの命令が伝達されて来たのは、何度めかの小休止の時であった。

 軍隊という戦闘集団は、必ず「本部」とか「指揮班」というものを作って、その指令に基づいて行動するのだが、それは捕虜になった後も維持されていて集団を統制していた。

 この時伝達されて来たのは、出発の時に聞いた達示と似たようなことであった。それは
 「目的地への到着は三時か四時頃になる予定。到着すれば食事の準備も整っていると思われる。今暫く辛抱せよ」

 という内容のものであった。

 兵隊たちは幾らか元気づけられ、力を絞って立ち上ると再び歩きはじめる。背嚢の重みが、忽ち飢えた肩に喰い込んでくる。

 夜明けの暗いうちに、薄い一切れの黒パンを口に入れただけの腹には、すでに何も入ってはいなかったし、ここ数日の間に、追い討ちをかけるように何度か繰り返された「欠食」の状態に、空腹感はやがて飢餓感となり、飢餓感は次第に五体を苦しめるようになっていた。

 嘗て入隊当初の軍隊時代に、内務班で時計を失って以来、僕には時計というものが無かったので、この日もはっきりした時間はわからなかったが、もう四時間近くは歩いていたに違いない。その頃から、足の裏がひどく痛むのを感じるようになっていた。

 出発する前に、ウラジオストクの波止場で、着慣れた軍服を着換えた時、靴も新しいのと履き換えて来たのだが、それが現在の靴なのである。これは、内側に犬の毛皮らしい物が張り着けられた温かいもので、関東軍の防寒靴だと聞かされていたが、この履き慣れた靴を履いての行軍が、足の裏にマメを作り、それが潰れて痛んでいたのだ。

 これは僕を苦しめた。背嚢に圧迫された胸の苦しさと、靴の中の刺すような痛みとが、歩を運ぶたびに容赦なく僕をさいなむ。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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