連載 ある学徒兵の戦後(18)
        
          上尾 龍介

2003.9.20 229


 朝から殆ど物を食べず、その上、潰れた足裏のマメの痛みに耐えながらの行軍・・・。と聞けば、人は恐らく、蒼古のいにしえの修行僧の荒ぶる苦行を連想するかも知れない。

 その時、僕の意識は既に朦朧としていた。朦朧とした意識の中で、機械のように、足だけを動かしているだけであった。

 眠気が胸のあたりから広がってくる。

 軍隊の頃、長途の夜行軍で、半分眠りながら膝をガクガクさせて歩いたことがあったが、この日の我々の行軍は、それとはまた違っていた。睡眠不足のために睡魔に襲われるのではなくて、飢えているために意識が薄れてくるのであった。

 軍隊の頃は、我々の部隊は給養がよかった。給養という耳なれぬ言葉は、本来は、馬に飼い葉を与えるという意味の古語だと聞いているが、兵隊たちは、軍隊で食事が好いことを「給養が好い」と言っていた。

 大豆の混ぜられた黄色い飯を、いつも腹一杯食っていたのだ。

 当時の日本はひどい食料不足で、一部の農家を除けば国民全部が飢えていたが、軍隊の中だけには充分な食糧が廻されていた。中でも、航空隊などが特別な給養をうけていたということは、当時の国民の常識だったので、重労働の砲兵隊などもそれに近いのかな、などと入隊当時の僕は思ったものだ。

 配給が少なくて、まともな飯の食える日など殆どなかった日本内地の生活から、北京で学生生活に入った時、粗末なはずの寮の飯が、日本の日常の食事などより遥かに豊かであることに驚いたという記憶がある。その後、学徒出陣ということで徴兵され、学校の寮から送り出されて山東省の兵営に入った時、軍隊の飯の方がもっと好かったという更に新しい記憶が、僕には今もはっきりと残っている。

 野砲部隊というのは、砲車の移動や弾薬の運搬など、戦闘訓練の多くは重量物との格闘だったので、その分、体力の消耗も激しかったのだが、それらの厳しい演習は、常に充分な食糧を与えられた上でのことであった。

 その上、八路軍の広大な抗日根拠地内での演習であったために、実弾を携行するという緊張を常に強いられてもいた。だから昔の若い農夫のように、日に日に逞しくなっていく自分を時に振り返っては、家への便りに書いたりもしたのだった。

 僕は、雪に埋もれたタイガの中の道を行軍しながら、きれぎれになり勝ちな意識の中で、まるで反芻でもするように、そんなことを繰り返し思っていた。

 だが、そのようなきれぎれの思いの連なりも、たちまち朦朧と薄れて、形のない湯けむりのように、意識の底から消えていった。

 そのようにして浮かんでは消えるすべてのものが、やがてはどうでもよいものになっていって、けだるい眠気が全身に廻りはじめ、雪の上によろける脚を、まるで撚り合せるように縺れさせた。

 だが、膝がしらがガクツとなるたびに意識は正常にもどり、戻った意識の底から又も様々なことが浮かんできたが、それらは泡のように浮いては消えた。

 それは味噌汁の匂いであったり、学校の近くの、小さな中国人の店から沁み出してくる炸醤麺(ジヤージヤンメン)の匂いであったりしたのだが、それもすぐに薄れていって、まるで体ごとずり落ちてでも行くように、形のない乳白色の世界に呑み込まれていくのだった。

 兵隊というものは、それが身についた習慣になっているので、歩く時は、きまってザックザックというリズムを取って歩くのだが、そのような軍隊風のリズムの中で、この時、僕の両脚も機械人形のように動いていた。そして、機械のように踏み出すひと足ごとに、

 「・・・もう一歩、もう一歩。も  う少し、もう少し・・・」

と呪文のように唱えている自分が居た。前のめりになって、項垂れるように足を運びながら、半ばうわごとのように、それは僕の口から洩れた。

 すぐ前を歩いていた今西が、不意に倒れかかってきたのはそんな時であった。

 よろりと立ち止まったと思うと、隣の佐甲に傾くように凭れかかろうとした。

 驚いて後から背嚢を抱きとめたのと、佐甲が抱き寄せるように首っ玉を支えたのと、殆ど同時だった。
 列が乱れて歩みが遅くなり、隊列はやがて止まった。

 筋骨逞しい佐甲一等兵は、中隊で最も頼りになる四番砲手だったが、その佐甲と二人で、引きずるようにして列外に抱え出すと、ぐったりとなった重い体を道端の雪の上に寝かせ、背嚢を下ろして、綿入れの苦力服の胸をはだける。


 駆け寄って来た兵隊達が肩を揺すって

 「おい。今西。しっかりしろ。今  西」

 「ほれ!立つんだ、今西。立つん  だ!」
などと大声で叫ぶ。一人の古兵は脱いだ防寒手套を抛り出して両手で彼の頬を叩き、別の兵隊は耳もとで怒鳴り続けた。

 気が遠くなっていた今西が、半ば雪に埋もれながら眼を開いたのは、それから間もなくのことであった。

 神戸の元町の商家の息子だった今西は、同じ中隊の砲手班の一人だったが、僕と同じで、彼も目立たぬ非力な砲手だった。同じ学生上がりだったこともあって、親しい同年兵の一人だったのだが、その今西が、ようやくここまで歩いて来て、ほの暗い雪明りの道の半ばで力尽きた。

 中隊の初年兵達は、彼の背嚢を分担して背負い、両脇から代わるがわるその体を支えながら、隊列の後尾を辛うじて歩いた。

 粛々と、隊列は容赦なく進んで行く。

 「ほら、もう家が近いぞ。少しだ  ぞ!」

などと初年兵達は泣きたい思いで口ぐちに叫び続けるのだが、彼らの体力も、既に何ほども残ってはいなかった。

 針葉樹林の奥から音もなく漂い出る寒気は、餓え疲れた二百人の隊列を、厳しく包みこむ。

 朝から、道端の雪を手に固めては、餓鬼のようにむさぼりながら、漸くここまで歩き続けて来たのだったが今日の日は、はやとっくに暮れた。

 闇が深くなると、シベリヤのタイガは気温が下がり、露出した顔がチリチリと痛む。吐く息が白い。樹林を切り裂いた細長い空には、紫色の星が、透明なガラスの破片のように凍りついている。

 餓えた膝が、背嚢の重みでガクガクとよろける。

 その時であった。

 「おう灯りだぞ」

と、若い声が前方の闇の中で上がったのは。それは、踏まれて滑り易くなった薄明かるい雪の路面を、呆けたように無感動に眺めながら、まるで重い荷物でも運ぶように、一歩でも前へと足を運んでいた時であった。

 揺り起こされた時のように正気に戻ると、思わず背嚢をゆすり上げ、ズリ落ちかかった眼鏡を直した。そして深い闇の中に眼を凝らす。

 闇の中に見出したそれは、最初は小さな点であったが、やがて次第に、明滅する黄色い明かりになってくるようであった。

 とうとう我々は歩きつくした。着いたのだ。これまで、雪だけを食べてどれ程の道のりを歩いたことか。家に着いたのだ。飯が食えるのだ。もう倒れてもいい。たとえそれが古びた陋屋であっても、ペーチカの燃える家があるのだ。

 僕がそう思ったように、兵隊たちは皆力を得て、残った最後の力を絞り切るかのように、一歩一歩と歩を進めていった。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授)

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