論壇 アフガニスタン、イラク、ムスリム・テロリスト

               余部 福三

2003.11.20 231−2004.1.1 232 


 イラクではイタリア軍も戦後最大の死者 

(上)−どういう関係があるのか、ないのか

 二〇〇三年一〇月末の時点で見ると、アメリカのブッシュ大統領の中東政策は、大方の予想どおり、行き詰まってきた。アフガニスタンでは「民族」別の軍閥が地方を割拠し、カルザイ政権による実効支配を事実上排除するだけでなく、ターリバーンとアル・カーイダさえ、ムハンマド・ウマル、ウサーマ・ビン・ラーディンの象徴的な指導下で、パキスタンとの国境付近のパクティカー、ザーブル両州の一部を依然、支配し、アメリカ軍と交戦を続けている。秋に予定されていた憲法制定大会議(ロヤ・ジルガ)の開催も一二月に延期された。総選挙は二〇〇四年六月の予定だが、これも延期の公算が強い。

 イラクの混迷はさらに予想を越える規模であり、アメリカ軍やアメリカ主導の連合国暫定統治機構(CPA)のみならず、国連や赤十字の職員も攻撃の対象になり、イラク人民間人の巻き添えさえ厭わなくなっている。攻撃の担い手が旧サッダーム・フサイン政権支持派なのか、占領に抵抗するイラク人愛国勢力なのか、新たにイラク入りしたムスリム・テロリストなのかは定かではない。一〇月一六日、国連安全保障理事会でアメリカ提案のイラク支援決議が全会一致で採択されたにもかかわらず、事実上のアメリカ支配継続に対する各国の抵抗は強い。

 最大の焦点であるパレスティナ問題も、肝心のイスラエルのシャロン政権が占領恒久化・占領地併合をねらい、問題解決の強い意志をもたない以上、アメリカが示したロード・マップの見通しはきわめて暗い。

 アフガニスタンとイラクでは、米英軍の攻撃により、きわめて多数の民間人死傷者が出たこと、劣化ウラン弾の使用により著しい環境汚染を招いたことは、到底、正当化できるものでない。パレスティナでも、イスラエル軍による暗殺作戦に伴う民間人の死傷と住居破壊はすさまじく、これに反発したパレスティナ人によるイスラエル内での自爆テロにより、イスラエル民間人の被害も急増している。

 本稿は、このような最近の事件を短期的な視点から詳細に報告するのではなく、やや長期的な視点から諸事象を検討し、諸問題の本質を理解する一助としたい。とくに、アフガニスタン、イラク、パレスティナに焦点をあてたい。

 パレスティナ問題と石油支配

 欧米諸国を巻き込んだ中東をめぐる現在の争いの根源には、パレスティナ問題、石油・天然ガス資源・輸送ルートの支配権の争奪、国民生活の向上を軽視した世俗主義的独裁体制の長期継続という三つの大きな要素があると思われる。

 パレスティナ問題は、もっとも本質的には、中東にただ一つ残った欧米植民地主義の遺産であるイスラエル国家が、さらに占領地支配を恒久化し、イェルサレムを含む占領地の多くを正式に併合しようとすることから起こっている。中東で事情がこれにやや近いのは、ロシアが一九世紀を通じて、はげしい長期の帝国主義戦争のあと、ようやく占領に成功したチェチェン、ダーゲスターンをめぐる問題であり、この地域の住民(山岳民諸氏族)もロシア、ソ連に対して二〇世紀を通じてはげしい独立闘争を継続してきた。もちろん、パレスティナの方がその歴史的、宗教的、文化的、戦略的重要性から、中東のみならず、世界の人々の関心が非常に高いわけである。

 アメリカがイスラエルを支えることに異常とも思えるほどこだわるのは、もっとも根底的には、パレスティナがキリスト教世界(ヨーロッパという概念や用法は近代のもので、本来はキリスト教世界と自称していた)の主要部分でなければならないとするキリスト教原理主義的な観点からである。これは十字軍運動とまったく同じ発想であり、さらにシリア、イラク、エジプトをキリスト教文明、ギリシア・ローマ文明の発祥地、中心地として、再キリスト教化、再西欧化しなければならないとする極端な考え方にいきつく可能性をはらんでいる。(現ブッシュ政権はそこまで極端な思考をもたないが、最大の支持勢力の一つであるキリスト教原理主義諸団体にはその考えが小さくない。)したがって、現在の中東をめぐる紛争は、一部には「文明の衝突」の要素を確実にもつ。この点は世界史にまったく疎い日本人には非常に理解しにくいようであるが、この認識なしには、世界のことは何も理解できないと言ってよい。

 今回のアメリカのイラク攻撃の根底には、湾岸戦争のとき以上に、イスラエル支援の要素があることはまちがいない。アメリカが次に一方的に攻撃する国があるとすれば、それはアメリカ人の関心が低い北朝鮮などでは決してなく、イスラエルにとってじゃまな存在であるシリア、イランなどであることは確実である。(アメリカはイスラエルにとって大した脅威にはならないリビア、スーダンとは関係改善を模索中である)。

 一方、中東諸地域(ペルシア湾岸、リビア、アルジェリア、スーダン、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、カザフスタンなど)が世界の石油・天然ガス資源の大半をほぼ独占していることが、イギリス、フランス、アメリカなど欧米帝国主義諸国がその支配にこだわる最大の理由であることは言うまでもない。イギリスは第一次世界大戦末期、オスマン帝国領イラク(バグダード、バスラ、モースル三州)を占領したあと、その石油資源に注目して、国際連盟の委任統治領として、その事実上の支配権を獲得したし、形式上、独立を許したあとも、イラク傀儡政権(ハーシム家の王政と議会制)に対し大きな影響力を行使し、石油利権を永続化しようとしてきた。一九五八年の軍人カースィム、アーリフらによるイラク革命は、共産党、ナーセル派、バース党を含む民族主義政権を成立させ、さらに一九六八年のバース党単独政権の樹立によって、イラクは他の中東産油諸国に先駆けて、欧米の石油利権を完全に排除した。

 アメリカ、イギリスが湾岸戦争を断行した最大の理由、そして今回のイラク攻撃の一つの理由は、この石油利権の回復あるいは獲得にあることはまちがいない。言い換えれば、イギリスの影響下にあるクウェートがイラクの石油を支配するのは結構であるが、イラクがクウェートを支配し、そこの石油利権を排除することは絶対に容認できない、ということである。これは明らかに帝国主義戦争としての性格をもつ。

 世俗主義独裁政権

 三番目の問題である世俗主義独裁政権は、イランのパフラヴィー王政、エジプトのサーダート、ムバーラク政権、チュニジアのブー・ルギーバ、ベン・アリー政権、モロッコの王政、ヨルダンの王政、レバノンのキリスト教マロン派政権(レバノン内戦以前)、トルコの軍部のような親米政権と、イラクのサッダーム・フサイン、シリアのハーフィズ・アサド、リビアのカッザーフィーのような反米政権に大別できる。アメリカは後者の政権を倒そうと常に策謀してきた。ソ連崩壊後に独立したウズベキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンなども前者の親米的世俗主義独裁政権の中に加えてよいであろう。

 旧ソ連諸国を除くこれらの諸政権は、一九世紀以来のイギリス、フランス帝国主義による支配への反発を通じて、樹立された。イギリスは一八八一年、突然、反英民族主義政権が樹立されたオスマン帝国領エジプト(副王支配下の自治国)に出兵して、非合法的にこれを占領下に置き、さらにエジプト領であったスーダンを占領した。一方、フランスは一八三〇年からアルジェリア(オスマン帝国宗主権下の副王領)占領を開始して、フランス本国に併合し、一九世紀末にはチュニジア(オスマン帝国副王領)、モロッコ王国を保護国の名目で完全な支配下に置き、非常に大量の貧しい農民を三国の肥沃な土地に入植させた。加えて第一次大戦後、イギリスとフランスは残ったオスマン帝国の領土を分割し、国際連盟の委任統治領の形式で統治した(イギリスはイラク、ヨルダン、パレスティナ、フランスはシリア、レバノン)。イラン王国はイギリスとロシアに勢力範囲という形で分割された。

 イランでは、第一次世界大戦後に成立したパフラヴィー王政は、帝国主義諸国との妥協を図りながら、イランの独立をいったん回復させた。しかし、この王政は一九五三年石油国有化を宣言したムサッディク首相によって打倒され、アメリカによって復活させられたことをきっかけに、アメリカの補完勢力としてペルシア湾における憲兵の役割を果たし、イスラエルとも協力するようになった。一方、イランでは、シーア派法学者(ファキーフ)の指導力がますます高まり、民衆の間では王の権威をしのぐようになった。その帰結が一九七九年のイスラーム革命後の「法学者による統治(ウィラーヤティ・ファキーフ)」である。こうして、イランは例外的に、革命の結果、世俗主義ではなくイスラーム主義の政権が樹立された。(他に一九八九年成立のスーダンのバシール政権もそれに近い)

 イラン以外の諸国では、イデオロギー的にはイスラームを無視し、社会主義傾向をもつ(反共、容共、共産党そのものの場合がある)民族主義運動が高揚し、次々と革命に成功して、帝国主義の支配から独立していった。この中でエジプトのナーセル(正しくはガマール)政権はイギリス駐留軍を撤退させ、スエズ運河を国有化し、ソ連の援助でアスワン・ハイダムを建設し、農地改革をきわめて大規模に実施して、一九世紀末の帝国主義時代に生まれた地主制を大幅に排除した。手法は強権的独裁であったが、かれは珍しく清廉潔白であり、民衆に深く愛され、独裁を世襲化しなかった。こうして、今のエジプトの比較的柔らかい形の独裁体制が生まれた。

 イラクとアフガニスタンの特殊性

 革命で政権を握った他の独裁者の多くは、イラク・バース党のサッダーム・フサインのように、当初こそ、イギリスの利権を完全に排除し、さまざまな改革や国民の教育などに力を入れたものの、著しく私腹を肥やしただけでなく、しだいに政権の自己保存のみを目指し、国民に対しきびしい統制を敷くようになった。しかも、かれら新しい支配層はいずれもイスラーム(伝統的イスラームと、西欧化を受容する形で再解釈された合理主義的な近代イスラームのいずれも)を無視し、熱心な信徒が大半をしめる民衆や知識人との乖離がその面でもはなはだしかった。また、アメリカは腐敗した独裁政権を支援し、ムスリム(イスラーム教徒)の民衆・知識人の反発を招いた。とくにイラク・イラン戦争で、アメリカは対立関係にある革命イランを封じ込めるため、本来対立関係にあったイラクのサッダーム・フサイン民族主義政権を強力に支援した。

 また、イラクは古代メソポタミア文明、中世イスラーム文明(アッバース朝)以来、歴史的、地理的には一つのまとまった地域を形成するが、その統一はイギリスの委任統治時代から困難であった。まず、北東部の雨が多いザグロス山脈にはクルド系の遊牧民や山岳農耕民の諸氏族が存在する。かれらもスンナ派が大半を占めるが、チグリス・ユーフラテス流域地方の歴史的諸都市とは文化的伝統が著しく異なり、しかも雑多な方言を話し、氏族間闘争にあけくれていた。さらに、一九世紀以後に普及したシーア派が南部の人口の大半、イラク全体の過半を占めるようになり(一九三二年のイギリスのセンサスでは五六%、おそらく現在もこれとあまり違わないはず)、その指導者が急増した信徒を率いて、伝統的にイラクの大半を占めてきたスンナ派(中部・北部では今も圧倒的多数)に挑戦しはじめた。イラク南部のカルバラー、ついでナジャフがイランのクンム(テヘラーン南方)をしのいで、シーア派の法学研究の中心になったのも、一九世紀からに過ぎない。

 ただ、イラクのシーア派は、アラブ遊牧民の諸氏族が一九世紀にイラク南部に定着して、農民化し、ほぼ同時にシーア派の信徒になったに過ぎない。したがって、一六−一七世紀のサファヴィー朝時代からシーア派の信徒となったイランとは違い、アラブ的伝統が濃厚で、信徒に対する法学者の指導力も、部族指導者の指導力より弱いとされる。こうして、イラクの政治はアラブ・スンナ派からなるチグリス・ユーフラテス流域の住民と、周辺の山岳部やステップ地帯から侵攻するクルド系、アラブ系遊牧民との伝統的な争いのパターンに加え、中部・北部のアラブ・スンナ派対南部のアラブ・シーア派という対立軸ができあがった。サッダーム・フサイン政権崩壊まで、イラクでは総人口の二五%程度のアラブ・スンナ派による支配体制が続いた。

 一方、アフガニスタンも別な意味で特異なケースを提供する。アフガニスタンは、一八世紀にカリスマ的軍事指導者のもとに結集したパシュトゥーン人諸氏族が征服した雑多な諸都市、諸地域を母体に成立した。その後、インドにおける領土をイギリスに奪われ、パシュトゥーン人の居住地域の東半分さえ割譲した(現在のパキスタンのトライバル・エリア)。したがって、パシュトゥーン人諸氏族や、被征服民諸氏族が国民意識が希薄なまま、王のゆるやかな(あるいは名目上の)支配下におかれた。二〇世紀になって、王は急速な西欧化を首都カーブルに導入したものの、伝統的な氏族社会を維持する遊牧民や山岳民との乖離は極端なものになった。

 西欧化とイスラームとの調和を図る近代イスラーム知識人が欠ける中で、カーブルではマルクス主義が西欧化を目指す運動の中心になり、支配層の若者や軍人の心をもつかんでいった。その結果、マルクス主義者あるいはマルクス主義傾向をもつ軍人や活動家が一九七三年、国内諸勢力の利害の調整に能力を発揮できない国王ザーヒル・シャーを退け、王族の元首相ダーウード・ハーンを政権へと押し上げ、さらに一九七八年にはダーウードを殺害し、政権を奪取した。このあと、マルクス主義者間のはげしい権力闘争と、急激な近代的改革に反対する地方の諸氏族の反乱が起こった。権力闘争に勝利したアミーンの忠誠心を疑ったソ連のブレジネフ書記長は、少数の側近と相談しただけで、一九七九年一二月ソ連軍をアフガニスタンに侵攻させ、アミーンを殺害し、カールマル傀儡政権を樹立したことはよく知られている。

 アフガン戦争とムスリム・テロリストの発生

 現在、世界中で活動しているムスリム・テロリストは、多くの場合、その直接の源をアフガニスタンにおける反ソ・反共闘争の兵士にもつ。アメリカのカーター大統領はソ連軍の侵攻に対し、ただちに反撃を決意したが、ソ連との直接の戦争を避け、アメリカ軍を投入するかわりに、アフガニスタンの諸氏族の反乱を強力に支援した。のみならず、世界中からムスリムの志願兵を募集し、パキスタンの基地でもっとも高度な兵士の訓練を行い、パキスタンの特殊機関ISIを通じて最新の優れた武器と潤沢な資金を供給し、ゲリラの資金源としてアヘン交易すら許した。アメリカ国内でも、各地でムスリム志願兵を募集させ、そのため、テロ支援傾向をもつエジプトの盲目の法学者オマル・アブドゥッラフマーンを国内に入れ、モスクでジハード(ムスリムにとっての自衛戦争)の志願兵を募集させた。インドとの戦争に敗れあとのパキスタンのズィヤーウルハック大統領(クーデターで政権を握った軍人独裁者)や、ソ連と断絶し、イスラエルと平和条約を結んでいたエジプトのサーダート大統領は積極的にカーターに協力した。さらに言えば、ソ連ときびしく対立していた中国もアメリカに積極的に協力し、新疆のキタイとコルラにアメリカのスパイ衛星基地設置を許し、武器やロケット発射台をゲリラに供給した。

 こうして、フィリピン南部のミンダナオ島や、中国、サウディアラビア、エジプト、スダーン、チュニジア、アルジェリアなど、各地から続々と、志願兵がパキスタンに駆けつけ、きびしい訓練を受けたほか、CIA要員からハイテク武器や爆発物の扱い、高度な戦術などを学んだ。サウディアラビアのゼネコン最大手の二代目ウサーマ・ビン・ラーディンもその一人であったが、その潤沢な資金でしだいに独自の部下を育成していった。

 もともと、アメリカは、その帝国主義的政策、イスラエル支援、腐敗した独裁政権に対する肩入れによって、大半のムスリムにとって決して好ましい存在ではなかった。それにもかかわらず、アフガンのソ連属国化(事実上の併合)を防ぐという一点によって、ムスリム武闘派とアメリカとの一時的な同盟関係が成立した。

 志願兵の大半は貧困層出身の失業者か未熟練労働者で、教育程度も低く、一九世紀以来、アフガーニー、ムハンマド・アブドゥフ、ラシード・リダーなど最高の知識人が構築してきた洗練されたイスラーム復興運動の近代イスラーム思想とほとんど無縁であった。アフガンの苛酷な戦場で、かれらの大半が容易に戦闘モード一色に洗脳され、戦後も通常の社会生活に復帰できなくなったのも当然のことである。アフガニスタンではゲリラ組織間ではげしい権力闘争が起き、しかも、ゲリラの多くは腐敗し、匪賊化していった。一方、海外からの志願兵の多くはアフガン戦後、アメリカから教わった優れた軍事技術と武器をもってカシミール、チェチェン、ボスニア、ミンダナオ、新疆などでのジハードに散っていった。ミンダナオ、スールー諸島で誘拐などを繰り返すアブー・サイヤーフ集団の中核は、パキスタンに拠点を置いたアフガンのスンナ派七グループの一つが戦後、移動したものである。

 かれらはボスニア内戦(一九九二−五)ではアメリカの介入を必要としたが、一方では、湾岸戦争中及び戦後のアメリカ軍のサウディ駐留は、「異教徒の聖地侵犯」としてウサーマらをはじめとした、アフガン帰りのアラブ人の反発を買った。こうして、かれらはアフガン戦争以来のアメリカとの同盟関係を捨て、最大の敵アメリカに対するジハードを目指すようになった。各々の祖国に帰還した者も、アメリカと結ぶ世俗主義政権を武装闘争によって倒すことを目指し、支援者を集め、訓練するようになった。アルジェリアで頻発した残虐な民間人殺傷事件も、エジプトのルクソールでの観光客殺害事件(一九九七)も、ニューヨークの最初の貿易センタービル爆破事件(一九九三)も、ケニア・ナイロビとタンザニア・ダーレッサラームにおけるアメリカ大使館爆破事件(一九九八)も、イエメン・アデン港でのアメリカ駆逐艦爆破事件(二〇〇〇)も、かれらの指導下で行われたものである。パキスタンのISIはかれらをカシミールでの作戦に利用さえした。したがって、かれらと世俗主義のサッダーム・フサインとはイデオロギー的には真っ向から対立し、両者が連携していたとは常識的には考えられない。(むろん、短期の戦術的な接触、連携はありうる)

 以上のように、現在、世界中で民間人の大量の犠牲すら厭わない過激なテロ活動を繰り返しているムスリム・テロリストは、もとはと言えば、アフガン戦争時にアメリカとパキスタンが育てたものである。テロリストではないが、ターリバーンも、アフガン戦争後の内戦の中で、パキスタンが武器を援助して育成し、アメリカも支援したパシュトゥーン人の諸氏族連合である。この近視眼的な政策によって、アメリカが手痛い逆襲を受け、パキスタンはインドとの戦争(しかも核戦争)の危機に直面している。今後も、アメリカが中東支配にこだわるかぎり、テロが止むことはないであろう。


(下)−これからどうなるのか?

 前稿脱稿後の二〇〇三年一一月一二日、イラク南部ナーセリーヤ駐在のイタリア治安維持部隊(イタリア警察軍)駐屯地が爆弾を積んだ車に激突され、一九人のイタリア人が死に、一一月二九日にはサッダーム・フサインの出身地であり、その最大の支持基盤であったタクリート(ティクリート)に向かう途中の日本の外交官二人も、アッバース朝の古都サーマッラー(世界最大の壮大な都市遺跡で有名、シーア派の聖地でもある)の北方であとから来た並走車に銃撃されて殺された。

 この二人はブッシュ大統領による戦闘終結宣言以前、バグダード占領直後の四月下旬から、外務省の命令でアメリカ国防省のORHA(復興人道支援室)に協力すべく派遣され、その後もアメリカ主導の連合軍暫定統治機構(CPA)と密接に協力して「復興援助」にあたっており、おそらく偶然ではなく、ねらわれて殺されたものであろう。同じ二九日には、南部ディーワーニーヤに向かう途中のスペインの情報局員七人がバグダード南方のラーティフィーヤで殺された。二九日に起きた二つの事件は、アメリカの同盟国の外交官やスパイをソフト・ターゲットとしてねらい、アメリカへの協力をやめさせる目的をもつと思われる。

 ナーセリーヤは、日本の自衛隊が宿営・活動する予定のサマーワからユーフラテス川を百キロ下った地点にあり、この地に定着したアラブ遊牧民を近い先祖にもつシーア派住民のみからなる同様な新興の地方中心都市である(ナーセリーヤはズー・カール県、サマーワはムサンナー県の県庁所在地)。また、サマーワはバグダードとバスラを結ぶ鉄道と高速道路がユーフラテス川を越える交通の要地であり、距離的にも両者のちょうど中間地点にあたる。しかも、歴史的、地理的にシリア・ヨルダンやアラビアの砂漠から遊牧民や隊商がユーフラテス川に接近・侵攻する絶好の地点に位置し(一〇世紀初頭のカルマト派、一八世紀後半のワッハーブ派などのアラブ遊牧民による大規模な侵攻・略奪は有名)、決して攻撃から安全とは言えない。

 ナーセリーヤとサーマッラーの事件は日本の世論に、派遣される自衛隊の安全を危惧するだけでなく、あらためてアメリカが始めた戦争とその占領統治の正当性をするどく問い直す機会を与えている。また、自衛隊派遣の目的が、小泉首相が言うような国際協調、世界の安全のための日本の応分の負担ではなく、対米支援にあることは、日本国民の間に広く認識が共有されはじめている。人道支援が目的なら、NGOの方がはるかに効果的で安上がりであり、自衛隊派遣によってNGO活動がきわめて困難で危険なものになると予想される。与党(自民党・公明党)内部にも、二〇〇四年七月の参議院選挙への影響を危惧する声が高まり(陸上自衛隊派遣はイラク人政府に主権が委譲され、多国籍軍が展開する二〇〇四年六月以後にせよと要求) 、早々と陸上自衛隊派遣をブッシュ大統領に個人的に約束した日本の小泉純一郎首相は、非常に苦しい立場に追い込まれた。

 しかし、二〇〇三年一二月九日に、派遣時期を明示しないまま、自衛隊派遣の基本計画を閣議決定した。これによって、早ければ二〇〇四年一月中旬にも先遣隊として航空自衛隊のC130輸送機が派遣され、クウェート、バグダード間の米軍物資の輸送にあたり、その後陸上自衛隊がサマーワ南郊外十数キロの砂漠の高台に宿営し、住民への浄水、給水、医療支援にあたることになる。

 また、アメリカ軍とゲリラとの戦闘もいっそうはげしくなり、一一月一五日には比較的占領統治がうまくいっていると思われていたモースル(アッシリア最大の都ニネヴェのチグリス対岸)で、米軍大型ヘリ二機が砲撃を受けて衝突、墜落し、米兵一七人が死亡したし、一一月三〇日にはサーマッラー市街中心部の通りで、現金輸送中のアメリカ軍が、かつての精兵民兵組織フィダーイーイーン(殉教者)・サッダーム部隊(イラク南部の貧しい若者からなるが、高給で雇用されていた)らしき者を含む武装勢力に計画的に四方から襲撃され、戦闘終結宣言後最大の戦闘となった。アメリカ軍は武装勢力の撃退に成功したものの、その無差別的な発砲によって、付近にいた女性・子供を含む八人のイラク人が死亡した。こうした状況で、米兵の厭戦気運が蔓延し、一時帰国を利用してイラクに復帰しない脱走兵などが一七〇〇人、精神的な問題に陥って本国に戻された兵が別に七千人にのぼると、一二月三日発行のフランスの有名週刊誌などに報道されている。ブッシュ大統領は感謝祭の時期に、危険を冒して電撃的にバグダード空港を訪問し、米兵を激励しなければならない事態に追い込まれた。

 イラクにおける最近の一連の騒乱は、広範な住民の支持を受け、アメリカとその同盟国からなる占領軍や外交団の行動予定の内部情報に精通していることを示しており、多くのイラク人やムスリム(イスラーム教徒)の犠牲さえやむなしとするほど過激化しているとはいえ、もはやテロと一括できる性格のものではなく、占領に抵抗するゲリラ的レジスタンス運動と化しつつある。少なくとも、そういう性格が強まったということができる。

 さらに、イラクにおけるゲリラ活動との関係は不明確であるが、後述するように同じ一一月には、アメリカの同盟国サウディアラビアの首都リヤードやトルコ最大の都市イスタンブール(もとローマ帝国とオスマン帝国の首都コンスタンティノポリス)で大規模なテロと言える事件があいついで起きている。

 後編にあたる本稿では、このような最近の情勢を概観するとともに、前編につづいて事件の本質をできるだけ追及し、かつ将来の見通しを筆者なりに立ててみたいと思う。

 アフガニスタンの統一はなるか

 現在のアフガニスタン、イラク、パレスティナの紛争の間に、直接の関係は少ないように見える。そこに共通するものは、アメリカが過去に採ってきた便宜的で短期的な政策の結果としてのネメシス(復讐の女神・因果応報)と、アメリカが今現在も当面の中東支配を拡大、強化する上で、短期的な思惑で採り続けている、本質から目をそらした政策だけである。さらに悪いことは、アメリカの歴代政権の個々の有力者がかつて軍事、建設、石油産業などの大企業の役員であり、あるいは政権から引退後の今現在、役員であり、戦争を巨大な利権と化し、アメリカ全体の帝国主義というよりも、自分自身の個利個略で戦争をひき起こすことであるが、この詳細はアメリカ問題の専門家に委ねたい。

 アフガニスタンでは、早くもカルザイ政権内部の腐敗・汚職が見られ、首都カーブルでは貧しい市民が家から追われ、その土地が安値で特権者に売却されている。しかも、政権内部で、カルザイ大統領が属し、もともとターリバーンの中心勢力であったパシュトゥーン人と、パンジシール渓谷に拠ってターリバーンに抵抗してきたラッバーニー元大統領・マスウード将軍派(イスラーム協会)のタジク人(イラン系スンナ派)との争いが、二〇〇三年一二月一三日にはじまる憲法制定ロヤ・ジルガに向け、表面化してきている。タジク人のファヒム副大統領は大統領職をカルザイと争う構えであり、同じタジク人の中でもカーヌーニー教育大臣は首相職を設けさせ、首相就任をねらっている。憲法草案では、ザーヒル・シャーは象徴的な国父として遇されるだけで、パシュトゥーン人のかなりの部分が望む王政ではなく、強力な大統領制(首相職を設けず、副大統領を指名する)が取られ、イスラームと国際協調を強調したイスラーム共和国となっているようである。

 地方でも、各地で軍閥間の戦闘が頻発し、とくに、タジク人を中心としたファヒム副大統領の勢力とウズベク人を中心としたアブドゥッラシード・ドストゥーム将軍の軍閥とが北部マザーリ・シャリーフ付近で衝突を繰り返している。比較的に安定しているのは、イランと関係が深い、北西部ヘラート地方のイスマーイール・ハーンの地方政府であるが、この地域の住民はかつてサファヴィー朝の支配を受けたイラン系のシーア派(ファールス人)であり、もともとアフガンへの帰属意識が比較的低い地域である。同じペルシア語を話すシーア派であり、イランの支援を受けるとは言え、中央山岳地域のモンゴル系ハザーラ人は強い独自性を維持する。

 こうした中で、アメリカ軍一万と国際治安支援部隊五千だけがカルザイ政権の頼りであり、カーブルから地方都市への進駐・展開が検討されている。そのため、NATO諸国からなるボスニアの平和安定部隊(SFOR)の一部がアフガニスタンに回される予定である。しかし、所詮それだけでは、アフガニスタンの真の統一と平和維持はありえず、近い将来のアフガニスタンは非常にゆるやかな連邦国家の域を出ないものになるであろうし、分裂の可能性をはらんでいる。アメリカとパキスタンがターリバーンを支援したもともとの思惑が、アフガニスタン統一による中央アジアからの石油パイプラインの域内通過であったことを考えると、分裂はこの構想とは相いれない。

 さらにアメリカにとって深刻な事態は、一度、打倒したはずのターリバーンの再結集が最近、進んでいることである。アメリカとカルザイ政権はターリバーンの外務大臣であったムタワッキルを解放するなど、ターリバーンの一部との和解、政権取り込みを進めようとしているが、現段階では大きな成果はあがっていない。逆に、ターリバーンの主力は東部パクティカー、パクティアー、ザーブル州の一部を支配しつづけ、徹底抗戦の構えを見せるほか、もとの反共・反ソゲリラのスンナ派の主要組織の一つヘクマトヤール元首相派(旧イスラーム党)が新たに北東部のクナール州とヌーリスターン州(旧カーフィリスターン)の険しい山岳地域でも再結集しつつあり、アメリカ軍の掃討作戦にはげしく抵抗している。首都カーブルやパシュトゥーン人の中心地カンダハールでさえも、米兵やアメリカ大使館、アメリカ人などが滞在する高級ホテルをねらった爆弾テロが頻繁に起きるようになった。アメリカはもともとパイプラインの確保さえできれば、アフガニスタンからの早期撤兵を望んでいたと思われるが、現在の情勢がそれを許さないことは言うまでもない。

 イラク新政権の性格は

 イラクでは、アメリカは大量破壊兵器の強制廃棄を名目に、国際法違反の疑いがきわめて濃い戦争を断行し(劣化ウラン弾をも使用)、隣国に二度の侵攻を犯したとはいえ、国際的に認められた政権を一方的に打倒し、一万もの民間人を殺した。しかも、アメリカ、とくに国防省は、国外亡命期間が非常に長いシーア派の実業家チャラビー(欧米への亡命者からなるイラク国民会議INC議長)を中心とした傀儡政権に近い親米政権の樹立と、石油利権独占、アメリカ企業主導での戦後復興にこだわっている。このため、イラク企業の再建は非常に停滞し、イラク人の雇用拡大、民生安定は進まず、そのことが社会不安と破壊活動を増幅している。

 できるだけ早期に国連中心の国際的管理下で民主的に選ばれたイラク人政府を樹立し、その要請に基づいて復興援助を行うべきとする国際社会の要求に、アメリカは答えていない。一〇月一六日に国連安全保障理事会で全会一致で採択されたアメリカ提案の決議案も、戦争に反対していた国々にアメリカ主導の統治と復興への協力を求めるものであり、基本的なアメリカの方針を変更するものではなかった。日本の自衛隊派遣やイラク復興資金援助も国連決議のあるなしにかかわらず、行われていたはずである。

 ところが、一一月二日にはスンナ派の拠点の一つ、中部ファッルージャで、米軍の大型輸送ヘリコプターが肩掛け用地対空ミサイルで撃墜され、少なくとも一六人の米兵が戦死した。さらに一五日には、前述したようにモースルで大型ヘリコプター二機が砲撃を受け、衝突、墜落し、米兵一七人が死亡した。より小規模な攻撃は頻発するようになり、一一月の米兵の損失は飛躍的に増加した。

 この情勢を受けて、一一月一五日、アメリカはついに部分的に政策転換を余儀なくされ、これまで想定していた時期よりは早い二〇〇四年二月末までに基本法を策定し、六月末までにイラク暫定政権を樹立し、占領統治を終了させ、主権を移譲する方向を打ち出した。しかし、選挙ではなく、地方の有力者や部族長、政党指導者、法学者を中心としたイラク全土一八州の議員選出集会で議員を選ぶ方針であり、しかもその選出方法が不明確であり、現在のCPAの影響下にあるイラク統治評議会が実質的に議員を指名し、暫定政府を組織する可能性が高い。

 そうなれば、CPAからかなり排除されているスンナ派の有力部族長や、シーア派の中でも反米的、反イラク統治評議会的な若い法学者ムクタダー・サドル(父のいとこ、ムハンマド・バーキルは一九七〇年代にはイラクのシーア派法学者の最高権威アーヤトゥッラーであったが、イスラーム国家樹立を目指すダァワ党を指導していたため、イラン型のイスラーム革命勃発を恐れたサッダーム・フサインによって一九八〇年に処刑された。父も反体制運動を続け、一九九九年に暗殺された)らの激しい反発を招くことは必死である。CPAに対しあいまいな態度を取ってきた非政治主義のシーア派法学者、現在の最高権威であるアリー・スィースターニーも、二〇〇三年一一月末にはアメリカの新構想に反対する意志を明確に示した(かれの師であった一九八〇年代のアーヤトゥッラー、アブルカースィム・ホイーも非政治主義で、ホメイニーの「法学者の統治」理論に反対していた) 。

 したがって、イラク人の大半はアメリカの新構想に反対であり、事実、構想発表後も占領軍に対する攻撃は増えこそすれ、減るきざしはない。これを見たイラク統治評議会のメンバーである一方のシーア派の指導者、アブドゥルアズィーズ・ハキーム(父ムフスィン・ハキームは一九六〇年代のシーア派のアーヤトゥッラーであり、兄ムハンマドはムハンマド・バーキルの協力者であり、イランに亡命し、イラク・イスラーム革命最高評議会SCIRIを議長として率い、アメリカ軍による占領後、イラクに帰ったが、八月二九日に聖地ナジャフで爆弾テロによって暗殺された)もアメリカの新構想に反対しはじめた。

 アメリカは腹を決めて傀儡政権、親米政権の樹立を意図的に画策することを止め、旧バース党員も含め、国連管理下で選挙による民主政権の早期樹立を約束しなければならない。同時に、アメリカ企業優先をやめ、イラク人の雇用拡大を図る必要がある。奨学金支給による若者の大学・高校復帰も人材育成、社会不安の解消の両面で重要である。選挙によるイラク人新政権ができるまでは、戦争に一貫して反対してきたフランス、ドイツ、ロシア、中国と、エジプトをはじめとしたアラブ、イスラーム諸国が中心になって、暫定的な政府を早期に組織すべきであろう。事実、フランス、ドイツ、ロシアなどは、八日から安全保障理事会で始まる暫定政府樹立のアメリカ案(イラク統治評議会書簡の形で提出)の協議でそう主張するはずである。また、当面の治安維持はアメリカ軍が継続するしかないものの、旧軍将校・兵士の再雇用を含むイラク軍の再建を進める一方、イラク人政府が要請する形で、戦争に反対した国やアラブ、イスラーム諸国の軍を含めた、イラク人に受け入れ可能な国際治安維持部隊を創設すべきであろう。アメリカ、イギリスとその同盟国からなる占領軍ははげしく憎まれ(日本の自衛隊も派遣されれば同様になる)、その駐留自体がレジスタンスを生んでいるため、なるべく早いイラクからの撤退か、本国政府の影響力を大幅に減じた形での国際治安部隊への参加が望まれる。

 イラク人の民主政府が樹立されたからといって、その政府が安定するという保証はないし、再建されたイラク軍や、アメリカ軍も参加するであろう国際治安維持部隊に対する攻撃も残るであろう。政権を安定させるためには、スンナ派のアラブ人とクルド人、シーア派のアラブ人、その他トルコ系トルクメン人、キリスト教徒を含む連合政権でなければならないが、多数派のシーア派が中心になるのか、伝統的に中心勢力であったスンナ派アラブ人が中心になるのが良いのかは真剣に検討しなければならないであろう。クルド民主党KDPのバールザーニー(拠点アルビル)や、クルド愛国同盟PUKのターラバーニー(拠点スライマーニーヤ)主導が論外であることは言うまでもない。

 大胆に言えば、スンナ派アラブ人が大統領または首相として中心にすわる方が、他の場合よりもはるかに全体をまとめやすいし、旧バース党員さえ取り込むことが比較的、容易になるであろう。旧バース党員には優秀な人材が多く、むしろ、優秀であるがゆえにバース党員に選ばれたという面もあり、かれらを全面的に排除することは大きな損失であり、治安を悪化させる原因にもなる。レバノンのように、大統領、首相、国会議長の権限を明確に示し、その上で、ポストを三大勢力に振り分けるという方策も考えられる。少しずつでも政権が安定していけば、世界最大級の石油資源をもつ上に、科学技術も含め、多方面で優秀な人材が豊富なイラクの未来は明るいと言えよう。しかも、イラク人の反米感情はきわめて強く、民主的に選ばれた新政権が、ネオコンが想定するようなチャラビーを首班とした親米政権、まして傀儡政権になるとは到底考えられない。

 パレスティナ和平の条件は

 パレスティナでは、現時点では右翼リクード主導のシャロン政権と、第一次インティファーダ初期の一九八七年一二月にヤースィーンを精神的指導者として設立されたイスラーム組織ハマース(イスラーム抵抗運動)や、シリアに拠点を置いてイランの資金援助を受けるジハード・イスラーム団など、パレスティナ人強硬派とのテロの応酬によって、アメリカが提唱したロード・マップは破綻に瀕しているように見える。アメリカとイスラエルは、イスラエルに有利な形の和平案受託に消極的なパレスティナ自治政府のアラファート議長を和平への障害と見なし、ハマースなど「テロ組織」を放置していると非難し、新たに首相職を設けさせ、議長の実権を首相に譲らせようとした。しかし、アラファートはなお治安維持部門を直轄すべく腹心を治安維持担当に据え、あいついで首相に任命したマフムード・アッバース(アブー・マーズィン)、アフマド・クライー(アブー・アラー)に対するある程度の統制を維持しようとしている。シャロンは「テロ組織」を武装解除しない自治政府にかわって、イスラエル自らがテロリストを討伐するとして、多数の子供を含むパレスティナ民間人の多数の巻き添えを厭わない激しい攻撃と住居破壊を繰り返し、そのことがパレスティナ人の怨念を呼んでいる。

 一方、シャロン首相は占領地のヨルダン川西岸に移住して来たユダヤ右翼の入植地の大半を、将来のイスラエル領に編入する意図をもって、パレスティナ側に大きく食い込む形で、分離壁を急ピッチで建設中であり、しかも、人口の自然増を根拠に入植地さえ実質的に拡大しようとしている。さすがにアメリカでさえ、ロードマップに真っ向から反するこの政策を非難しているが、その反対のトーンは弱い。今までは、イスラエル人の多くは核兵器を含む軍事力の圧倒的優位とアメリカの強力な支えに意を強くして、真剣に和平を考えようとはしなかったし、パレスティナ人の方も感情的になって、自らの利益を損なう場面も少なくなかった。

 ところが一方では、ベイリン元司法大臣を中心としたイスラエル野党労働党の和平派と、アーベド・ラッボ(アブー・バシール)元情報大臣を中心としたパレスティナ自治政府との水面下の交渉がスイス外務省の支援で進み、パレスティナ側は一九四八年のパレスティナ戦争で土地と家から避難した難民の故郷への帰還を大幅に縮小するかわりに、イスラエル側は一九六七年の第三次中東戦争で占領したイェルサレムを含む占領地の大半を放棄し、入植地を撤去するほか(イェルサレム付近の大規模入植地は併合)、クッバトゥッサフラ(岩のドーム)を含む聖域ハラム・シャリーフ(ユダヤ側は神殿の丘とよぶ)をはじめ、イェルサレム旧市街の大半をパレスティナ側に返還するという妥協に達した(ただし、ソロモン王の第一神殿のあとにヘロデ王が建てた第三神殿のあととされる嘆きの壁だけは、ユダヤ教聖地としてイスラエル領の主権下におく)。これはジュネーヴ合意といわれる。あとは、若干の領土の交換を含む実際の国境の細かな線引きと、実際に帰還できる難民の範囲の調整が残っているが、これで重大な懸案は、ほぼ解決の見通しがついたと言えよう。

 二〇〇三年一二月一日には、ジュネーヴでアメリカのカーター元大統領など世界の要人や、パレスティナ(自治政府の現閣僚やファタフの幹部を含む)、イスラエルからも政財界有志、文化人など八〇〇人が集まり、盛大な合意式典が行われた。EU、イギリス、フランス、ロシア、エジプト、モロッコなどはただちに合意支持を表明し、アメリカのパウエル国務長官も合意を歓迎し、シャロン首相の強い反対を押し切って、五日両者の代表を国務省に招いて会談した。

 残された問題は、パレスティナ自治政府が帰還権にこだわる難民を説得できるか(代償はぜひ必要)、イスラエルで和平派が右翼勢力より多数を占められるかという点にある。イスラエルでは、国内のアラブ人の急激な自然増の結果(現在では増加率はかなり縮小した)、ムスリム中心(八〇%)だが、キリスト教徒、ドゥルーズ派をも含むアラブ人がすでに総人口六五〇万人の一九%一二〇万人強に達した(二〇〇一年)。イスラエルがもっとも恐れるのはイスラエル自体のアラブ化、イスラーム化であり、これが難民の部分的帰還によってさらに急進することである。したがって、離散家族の再統合など人道的な場合を除いて、帰還がないとすると、アラブ系市民を含めると、イスラエル人の過半がこの条件で和平を支持する可能性は十分ある。一二月一日に『ハアレツ』紙で発表された世論調査では、イスラエル市民の間では、ジュネーヴ合意への賛否が真っ二つに分かれている。

 一方、一一月末、ジュネーヴ協定合意式典に出席しようとしたパレスティナ人代表の出発を阻止しようとし、大規模なデモを繰り返すなど、依然、帰還権放棄に対するパレスティナ人の抵抗は強い。アラファート議長が「勇気ある取り組み」として合意を称賛しているにもかかわらず、パレスティナ自治政府を構成する主要組織ファタフ(パレスティナ解放運動)は式典直前に、公式には合意から離脱した。また、ハマースはパレスティナ全土をワクフ(収益が宗教的公益に寄贈された土地)と見なし、人間によるかってな割譲を認めない立場を取り、イスラエル国家そのものの存在をあくまで認めない。しかし実際には、合意式典後の八日、カイロでの停戦協議で、ハマース、ジハード・イスラーム団などはイスラエル領内での一般市民への攻撃を停止することにクライー首相と合意した(ただし、占領地での停戦は合意できず)。難民の方も、今さらイスラエル領としてユダヤ・西欧化している故郷(古い歴史的なアラブの村は徹底的に破壊されている)に帰還することは、心情的ノスタルジアがある一方では、心理的な抵抗感と実際の困難の予感が大きい。自分たちの権利の正当性、あるいは従来のイスラエルの不当性が国際的に認められれば、自立できるだけの代償を得て、新しいパレスティナ国家やヨルダン、レバノンなどに新天地を開きたいという人の方がはるかに多い。

 したがって、なお双方の強硬派によるテロ活動の継続など大きな障害が必ず待ち構えているものの、前記の条件で和平が成立し得る状況にあると言える。このままテロの応酬がつづくと、シャロン政権への支持が減少し、遠くない未来に和平派への政権交替が起きる可能性は少なからずある。我々はそこに期待をつなぐしかない。イスラエルが和平を結ぼうと決意し、アメリカ大統領がこれを支持すれば、アメリカ国民の過半も支持するであろうし、ネオコンやキリスト教原理主義者、ユダヤ右翼といえども、これを妨げることは難しいはずである。

 アメリカの頂点と没落の始まり

 現時点ではアメリカの中東支配は頂点に近いように見える。アメリカの右翼や右よりの知識人は今や誇らしげに、自らをローマ帝国になぞらえ、「エンパイアー(アメリカ帝国)」と呼ぶようになった。かつては、アメリカ帝国とは、アメリカの政策に批判的な国内外の左翼やリベラル派が非難の意味をこめて使っていたことばであったのに。

 次に、ネオコンはシリアかイランへの攻撃をねらっているように見える。イランでは、アメリカ大衆文化と資本主義化による豊かな生活にあこがれる反イスラーム体制派が若者を中心に急増している。この情勢を踏まえ、アメリカはイランの核開発疑惑を利用して、占領下にあるイラクとアフガニスタンの両面からイランをしめあげ、アメリカ的資本主義志向の親米王政を復活させ、中東でアメリカの憲兵としての役割を再びになわせようと考えていると思われる。

 これに対し、イランのハタミー大統領は二〇〇三年一〇月二一日、国際原子力機関(IAEA)の抜き打ちを含めた強制的な核査察要求をほぼ全面的に受け入れ、ついで最高指導者ハメネイー師も一一月二日これを支持し、アメリカによる攻撃を回避しようとしている。これを受けて、IAEAも一一月下旬、アメリカの強硬意見を退け、イランのこれまでの義務不履行を非難するとともに、国連安全保障理事会には提訴しない決議を出し、今後のイランの対応を見守る姿勢を示した。

 シリアでも、二代目バッシャール・アサド政権の支配は盤石でない。バッシャールは経済や政治の若干の自由化を試み、父の時代の支持基盤である北西部の山岳民ヌサイリー派から、他の勢力に支持を拡大しようと試みている。この情勢を利用し、アメリカはイスラエルと占領下のイラクを使い、さらにできればトルコの協力も得てシリアに揺さぶりをかけようとしている。一〇月五日にはイスラエルはパレスティナ人テロリストの基地をたたくと称して、シリアの首都ダマスクス(世界最古の大歴史都市)に近いかつてのパレスティナ・ゲリラの訓練基地を攻撃さえした。

 イランとシリアで親米政権が成立すれば、アメリカの影響力が強くなったウズベキスタン、アゼルバイジャンも含め、ほぼ中東全域がアメリカの支配下もしくは影響下に入る。アゼルバイジャンからトルコ南部で地中海に出る石油パイプラインが通過する予定のグルジアでも、経済の悪化、官僚の腐敗と選挙の操作に怒った市民の暴動が起こり、一一月二三日、シェワルナゼ政権が倒れ、二〇〇四年一月の大統領選挙と議会選挙でより親米的な新政権が成立しそうな情勢である。アメリカはすでに特殊部隊を派遣し、グルジア軍の訓練にあたらせているが、さっそく軍事的プレゼンスの拡大を要求している。これはパイプラインの警備より、シリア、イラク、イランへのにらみを強化するためであろう。

 しかしよく見れば、アフガニスタン、イラク、パレスティナのいずれでも、アメリカの思惑通りには進んでいない。アフガニスタンでも、イラクでも、アメリカ主導の平和回復と恒久的な親米政権樹立は、実現が困難な情勢にあるし、平和が回復し、民主主義が実現した時点では、アメリカの影響力はすでに失われているであろう。アメリカが戦略上だけでなく、宗教的、文化的に非常にこだわってきたパレスティナさえも、和平によってイスラエル国家の安全は保証されるものの、イェルサレムの主要部分は含まれないであろう。さらに大胆に言えば、イスラエル自体のユダヤ系市民のアラブ化は、現状でも広範に見い出される状況を考えれば、和平の実現と交流の拡大によっていっそう急ピッチで進んでいくであろう。長い目で見れば、アメリカの多くの知識人や支配層が「恐れる」ように、イスラエル自体のアラブ化、イスラーム化も時間の問題と言えるであろう。

 アメリカがアフガニスタンとイラクで手を焼いている以上、イランとシリアでアメリカ資本の大量導入を目指す親米政権が成立する可能性は大きくはないが、たとえできたとしても、国民の支持が長期間、継続するとは到底考えられず、短期で終わるであろう。

 グルジアでも、帝政ロシアが一九世紀にオスマン帝国から奪い、ソヴィエト体制下でグルジアに編入したムスリム中心のアブハズ、アジャール(バトゥーミ)両自治共和国のグルジアからの独立、あるいはロシアまたはトルコへの復帰という問題が大きくなるであろう。さらにアメリカの長年の強固な同盟国であり、イスラエルにつぐ中東の拠点であったサウディとトルコ、モロッコも、激しいテロで揺さぶりをかけられている。

 トルコは、議会こそ民主的選挙で選ばれるが、軍部が政府に日常的に圧力をかけ、ごく最近までしばしばクーデターを起こし、民主的に選ばれた政府を打倒してきた歴史をもつ。軍部のイデオロギーは宗教の影響力をいっさい排除する世俗主義と共和主義、国家資本主義、親米、親西欧であるが、事実上反イスラーム、反アジアであり、熱心な信徒がきわめて一般的な民衆とは隔絶している。ごく一握りのこのようなイデオロギーをもつ軍人、警察官、官僚、外交官、特権的資本家、大地主などがトルコを支配して来た。しかし、福祉や社会正義を重視する民衆のイスラーム運動は近年きわめてさかんになり、一九九五年末イスラーム主義の福祉党のエルバカンを総選挙を通じて首相に押し上げた。エルバカンは一九九七年六月に軍の圧力で辞任を余儀なくされ、福祉党も解散させられた。

 さらに、この流れをくむイスラーム主義の公正発展党が二〇〇二年一一月三日の総選挙で大勝し、ギュル首相を出して政府を組織した。党の指導者エルドアンはそのイスラーム主義のゆえに訴追中であったが、二〇〇三年三月一四日には晴れて首相となった。しかし、エルドアン首相は軍の干渉を防ぐ意図もあって、イスラーム的色彩を薄め、アメリカ、イスラエルとの堅固な同盟関係も継続している。政府はいったんアメリカのイラク攻撃への協力(トルコ領からイラク北部への侵攻)を決定したし、戦争後の一〇月にもトルコ軍のイラク派兵を決定したが、いずれも民衆のきわめて強い抵抗で断念に追い込まれている。こうした状況で、トルコ人民衆の一部イスラーム主義者が過激化し、反米、反イスラエルを唱え、一一月一五日にはイスタンブール新市街(旧ヨーロッパ人地区)と郊外の二つのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を襲撃し、ついで一一月二〇日にはイスタンブール新市街にあるイギリス領事館とイギリス系銀行HSBCを襲い、それぞれ二四人と二七人の死者を出した。かれらがアル・カーイダなど外国の組織と関係あるのかどうかは現時点では不明である。

 二〇〇三年五月一二日、サウディの首都リヤードの外国人コンパウンド(壁などによって周囲から隔絶された住宅・事務所地区)で大規模なテロが起こり、アメリカ人七人を含む二六人が死亡し、四日後には、モロッコ最大の都市カサブランカではユダヤ人センターともよりの高級ホテルで連続爆弾テロが発生し、四〇人が死亡した。リヤードでは一一月八日にも同様なテロが外国系アラブ人を中心としたコンパウンド付近で起こり、一七人が犠牲となった。この一連のテロは、過激なグループがこの三国でかなり広範に存在する事実を明るみに出した。しかも、このような手段には断固、反対であるが、かれらの目指す方向にはシンパシーを感じる者がトルコでも、サウディでもきわめて一般的になっている。今のところ、モロッコでは政治・社会面での影響は少ないようであるが、近い将来のサウディの親米王政転覆、トルコのいっそうのイスラーム化と反米化を予感させるものがある。

 支配力は頂点にあるとき、すでに没落・崩壊が始まることは歴史の鉄則である。アメリカの場合、経済ははるか以前に峠を越えて日本による補完を必要とし、今や軍事力の実際の行使や威嚇のみに頼っている状況である。その軍事力でさえも、アメリカは改憲を実現したあとの日本の軍事力による補完を期待するようになっている。現在では、イギリスとオーストラリアは軍事力と政治力によって、日本は経済力によってアメリカを支えつづけているが、アメリカおよびアメリカ人は世界では、可哀想なぐらい友人もなく孤立しがちになっている。しかも、イギリスでは世論が西欧諸国に同調し、アメリカに批判的になりつつあるし、日本の経済力も衰えが目立ち、今後も長い目で見て没落が避けられない状況にある。いずれ改憲は断行されるであろうが、アメリカを支援する形での大規模な出兵を日本の世論が許さないであろう。今現在からのアメリカの急速な没落を予言することは、大胆にすぎるであろうか。


あまべ ふくぞう/東京経済大学教員

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