連載 ある学徒兵の戦後(20)

          上尾 龍介

2003.11.20 231


 泥のような眠りから目覚めた。
 
それは、まるでこの朝が、この世に生まれ出た最初の日ででもあるかのような深い眠りであった。
 窓の外はすでに明るくなっているようで、はじめて眺める室内には、どんよりとした明るさが淀んでいる。

 僕が目を覚ました場所は、四角な部屋の奥まった一隅で、見上げると、この建物は天井まで丸太で組み上げられて造られている。その構造は、ここが厳寒の地であることを思わせた。

 今日は仕事はないようで、兵隊たちの動きはゆったりとしている。

 余裕のある気分で、改めて周囲を見まわす。白く塗ったペーチカは、積み上げた煉瓦の上から泥を塗り固めたような造りである。誰かが、小枝や木切れなどを集めて来てくべているのか、赤い焔が、めらめらという感じで燃え上がっている。


 室内には暖かい空気が満ちていて、異国の冬の、どことなく懐かしいような気分が漂っている。

 寒気を遮る窓は二重になっているので、その小さな窓を通して入ってくる光は鈍い。

 その鈍い光が、カーキー色の軍用毛布の上に暖かい影を落としている。

 この安堵の気分の漂う朝の光の中で、僕の向かい側に居場所のきまった年輩の上等兵は、背嚢から、何やらボロ布を引き出して靴下を繕っている。畳んだ毛布の上にあぐらをかいて座った彼の背は少し丸い。

 その横では、髭づらの佐甲一等兵が、大事な飯盒を無心に磨いている。飯盒を布などで拭き上げることを兵隊たちは“磨く”と言った。彼は磨きかけた飯盒を持ったまま、こちらを見てニッと笑った。

 飯盒は、軍隊の頃も大事な必需品だったが、捕虜生活に入ってからは、それなしには生活して行けぬ程に日常と密着した用具となった。

 軍隊では、もっぱら野営の際の、飯盒炊餐の時に用いたが、捕虜になってからは、毎度の食事のたびに、それが大きな役割をはたすことになった。というより、それがなければ食事の分配はできなかったのである。

 というのは、食事分配の時には、各人は、まず自分の飯盒の“蓋”を、分配の場所に並べておかなければならない。その並んだ蓋の中に、わずかな高粱(コーリャン)の“飯”がと言うべきだが粥に近いベトベトしたメシが、分配されたのである。

 蓋は、そのまま食器となったので、これを紛失でもすれば、彼はその日から飯を食う手段を失うことになる。シベリヤでは、それに代わる物がないから、飯盒はその兵隊の、体の一部のようなものとなった。何よりも愛着の深い物となっていったのである。だから彼らは、それを大事にし、ナイフで傷をつけて自分の名を刻みこみ、毎日きれいに磨いた。

 作業に出る時には、食べ残しておいたわずかなメシを、大切に飯盒にいれて腰に吊るすのである。

 だがそれは、忽ち石のように凍結するので、作業場では焚火のそばに置いて溶かさねばならない。

 飯盒を無心に磨いている佐甲を見ながら、僕は捕虜になってからの様々なことを、あれこれとなく思い出していた。

 幾らか穏やかな気分で、ぼんやりと壁にもたれていたのは、朝から夜中まで、雪だけを食べながら歩いた昨日の難行軍で、体がいくらか弱っていたからだけではない。

 昨日と違って、この日は、僕の腹には貴重な一切れのパンまでが納まっていたのだ。その幸せな気分の中に、どうやら僕はひたっていたようだ。

 六十年経った現在、改めて振り返ってみると、この日から一カ月も経たぬうちに、仲間の兵隊達のかなりの部分が、このタイガの奥の丸太小屋で、短い生涯の、みじめな終末の日を迎えることになるのだが、殆どが餓死状態で死んで行った彼等にとっては、この朝の食事が、生涯における最後の住居での最初の朝食となったのだった。

 現在見られるシベリヤ抑留の記録は、このことについて、

 『約六万といわれている死亡者の  八割ぐらいはこの時期における  死亡であったろう』

と記し、

 『抑留された年から翌年の春ころ  までは、まさに飢餓の集団が収  容所内をうごめいていたといっていい』

と記している。
 (「アルバム・シベリヤの日本人捕虜収容所」朝日新聞社刊)

 この朝、はじめて配られたパンは、長方形をした、褐色の煉瓦のような物であったが、それを台の上に並べて、一つずつ切って行くのである。

 褐色の黒パンは、部屋一杯に好い匂いを拡げた。

 当番の兵隊は、改めて全員の人数を確認すると、等分に分けるために長さを測り、更に測りなおして印をつけると、真剣な顔で、注意深く切りはじめた。

 台の周りに集まってきた兵隊達も、その後ろからのぞき込む兵隊達も、誰一人瞬きもせず、切り分けられてゆくパンの大小を、自分の目で確かめようとした。

 彼等の頬は、みな落ち窪んでいたし、目も奥深く沈んでいたが、パンの分配を見つめる眼は生きて光っていた。

 彼らは、一切れ切られるごとに、ナイフの刃からこぼれ落ちる粟つぶのようなパンの屑を、目ざとくつけては、口ににじんでくる唾を呑みこんだ。

 先日まで暮らしていたウラジオストツクの収容所でも、食料の支給は至って少量だったので、常に空腹感に苦しめられはしたけれども、それなりに一定の供給の安定は保たれていて、途切れるようなことはなかった。

 その上、最初のうちは、波止場での荷物の積み込みや荷下ろし作業だったため、積み荷の食糧をくすねて帰ることも、それが発覚するまでは可能でもあった。

 発覚してからは、そのような魅力のあるコソ泥も全く望めなくなってしまったので、兵隊達は少しずつ飢餓感の中に追い込まれていったのだが、定時の支給が途絶えがちになったのは、ウラジオの収容所を出て伐採作業に出発したその日の夜からのことであった。

 これは「軍歴証明」をもとにたどれば、昭和二十年の十一月二十八日に当る。ウラジオストツクは、すでに深い冬の中にあった。

 僕たちの集団が、厳しい飢餓感に陥ったのはこの時期からであった。

 食糧難に苦しんだ戦時下の日本の都市においても、戦後の混乱の中の都市においても、死がちらつくほどの飢餓感に襲われることを僕は経験しなかったが、ウラジオを出てからの僕達の集団は、シベリヤの寒気の中で、忽ち飢餓地獄の中に落しこまれることになった。

 軍隊時代の厳格な規律は、北朝鮮で受けた武装解除の日以来、かなり穏やかになっていたが、シベリヤに足を踏み入れて以後は、それはまたずっと穏やかになって、板に縛り付けられたような理不尽な窮屈さは、もはや、僕の周囲ではあまり見られなくなっていた。

 捕虜という未だ経験したことのない、他律的な、あなたまかせの生活の中では、そんなやたらと細かい規則や規律などは、もはや無意味なものになり果てていることを、誰もが自然とさとりはじめていたのであろう。

 軍隊に居た間じゅう、細かい規律に棒のように縛り上げられて、判断の基準を失い、途方にくれていた自分であったが、敗戦から日が経つにつれて、次第に判断の目途を取り戻して行く自分を、この当時の僕は感じはじめていた。

 死へ向かって急速に逼迫してゆく捕虜生活の重圧に喘ぎながらの、これは奇妙と言えば奇妙な思いであった。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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