インタビュー 二大政党制、イラク派兵、教育基本法・憲法改悪

                   小森 陽一

2004.1.1 №232 


小森 陽一 氏 

 −−二大政党制が喧伝された総選挙で辛勝した小泉政権は、イラクへ自衛隊を派兵しようとしています。新内閣は改憲論者で占められ、民主党も「創憲」をかかげています。まず、今回の総選挙についてどう思われますか。

 今回の総選挙は、財界に買われたマスメディアによって仕組まれた、いわば「情報操作選挙」であったと考えないといけません。アメリカやイギリスが、情報操作によって国民をイラクとの戦争にまきこんでいったのと連動したものとして、今回の総選挙を考える必要があります。

 すべてのメディアが「自民党か、それとも自由党と一体になった民主党か」と煽り、「政権交代のできる政治状況にする」と言って、全面的なキャンペーンを展開しました。これはあまりにも異様で、たとえば朝日新聞の内部では、これで本当に良いのかという大きな議論があったほどです。アメリカ・イギリス型の二大政党制が、自由主義国家、民主主義国家として、何かしら進歩した形態であるかのような幻想がふりまかれました。しかしそれが、いかに間違っているのかということを、はっきりさせないといけません。つまり二大政党制は、大企業にとって、どのようなメリットがあるのかということです。

 すでにIT(情報技術)バブルが崩壊したアメリカにおいては、国家予算がもっとも大規模に落ちる公共事業は、軍需産業です。ですから、国防費の行方をめぐって、企業は生き残りをかけて争っています。しかもその大企業は、国家に税金を納めることから逃亡した、いわば「国籍を捨て」「国家を裏切った」資本であるにもかかわらず、これと政界が癒着して国民の税金が、大企業の懐に落ちています。今回のイラク戦争がはじまるまでの一〜三月期だけでも、たとえばロッキード・マーティン社には、八〇億ドル以上の国費が落ちています。これ一つとっても、どれだけ大きな儲けになっているか分かります。

 現ブッシュ政権の国防長官であるラムズフェルドは、前のクリントン政権時代には、ロッキード・マーティン社のシンクタンクの理事長をやっていました。このラムズフェルドがロッキード社の兵器でイラクを破壊して、その復興事業では、チェイニー副大統領が最高経営顧問をやっていたハリバートン社という石油複合企業が受注する、という構図になっています。このように、ブッシュ政権に連んだ一部の軍需産業や石油産業が、世界の国から金を集めて肥え太るという体制が、今の二大政党制の国の姿なのです。イギリスも同じようなもので、最大の公共事業は軍需産業です。

 どうしてそうなるのか。国家予算にぶらさがっている大企業にとってみれば、政治家を金で丸抱えすることによって、政権がたとえ共和党になろうと、民主党になろうと−−イギリスでは保守党になろうと、労働党になろうと−−国民の税金を使った戦略的な国防を中心とした国家事業費を、必ず確保できるような、政権がどちらの政党にころんでも構わないような、二大政党制がもっとも便利な体制であるわけです。

 ところが、そのような国家体制に日本を転換させるという、きわめて危険な事態が、いっさいの批判を封じられたまま進行しているのです。もちろん、小選挙区制という制度自体が、民意を国会に反映できない仕組みになっていることも大きいのですが、この二大政党制をめぐっては、あのヒトラーのナチズムが国民を戦争に動員していった、「沈黙の螺旋(スパイラル)」が進行しています。マスメディアのなかで、ある政治的な意見が正しいのかどうか検証されないままに、それに対する反対意見がいっさい封殺されています。二大政党制が本当に良いものかどうか検証されないまま、それがあたかも正しいかのように映り、そこで大衆的な思考停止がはたらきます。そうなると、もはや反対意見を出せないような状況がつくられたうえで、つぎに、反対意見を述べる者を徹底してバッシング(叩き)し、「非国民」として排除するのです。

 現在の日本の状況は、文字どおり、マスメディアを中心としたファシズム体制のなかに、すでに入っていると判断すべきなのではないかと思います。

 −−小泉政権は、アメリカとの同盟関係を金科玉条のようにかかげています。それが日本のすすむべき道だとは考えられないのですが、どうでしょうか。

 アメリカのように、軍需産業に国民の税金を投入して経済をまわしていくような在り方に未来があるのかと言えば、そうではないのです。アメリカが、本当に「強い国」なのかと言えば、そうではありません。今回のイラク戦争にしても、国連の経済封鎖や査察によってイラクを武装解除したうえで、アメリカはそれを攻撃しているのですから、「最も弱い国」を叩いて力を誇示しているだけで、実際には内実のないものです。それがイラク戦争で、逆に証明されたとも言えます。国連において、アメリカとイギリスの先制攻撃は、現在にいたるも正当化されてはいません。ですから、外交交渉においても、アメリカは失敗したと言わざるを得ません。

 このアメリカのように、前途がなく、国際世論からも孤立する方向へ、何らの国民的議論もないままに、日本が突入しようとしていることを、はっきり認識しておく必要があると思います。

 現在の小泉政権はアメリカ追従路線をとっていますが、それはクリントン政権時代の新日米防衛協力指針(ガイドライン、一九九七年)以来、ずっとアメリカ側が仕掛けてきた方向に完全にはまって、独自の外交政策さえとれなくなっている、アメリカの一つの州よりもっと従順に、ブッシュ政権に追従する路線を歩んでいるということです。

 ITバブルが崩壊して以降のアメリカは、世界から必要とされない国になっています。唯一、アメリカに存在価値があるとすれば、世界貿易の決済がドル建てでおこなわれており、そのドルという世界通貨をにぎっている国家だということぐらいです。イラク戦争の最中に、アラブ産油国が石油取引の決済をユーロでやるという政策をうちだしましたが、もしそうなっていけば、アメリカは文字どおり「必要のない国」になってしまいます。つまり、アメリカは世界を食いつぶして肥え太っているだけの国である、ということが暴露されることになります。そうなることへの恐怖感が、国連の多国間主義を無視し、イギリスと連んだ過剰なまでの先制攻撃路線へと、アメリカを駆り立てたのです。

 日本は、このアメリカによる国連の多国間主義を無視した、二国間の先制攻撃を中心とした集団的自衛権の行使体制にまきこまれようとしています。新日米ガイドラインにもとづいて、九九年には周辺事態法が成立しました。これは、アメリカがどこかで戦争を始めたら、日米安保条約にもとづいて自衛隊がその後方支援をやるというものです。この後方支援とは「兵站」のことであり、イラク戦争でもあきらかになったように、バグダッドで戦闘するためには、五〇〇・の砂嵐の道を戦車と装甲車とトラックを連ねて、前線へと人員、武器、弾薬、食糧を補給し、退路も確保するということが、必要不可欠なのです。ですから、アメリカの戦争にとって、それ無しでは遂行できないような任務を、日本の自衛隊が受け持つということです。

 しかし、憲法第九条が、日本の集団的自衛権と交戦権の行使をはばんでいるので、アメリカにとってこの憲法第九条が最大の壁になっています。ですから周辺事態法の翌年の二〇〇〇年には、いわゆる「アーミテージ報告」(米国防大学国家戦略研究所=INSSの『米国と日本:成熟したパートナーシップに向けて』、アーミテージは現国務副長官)で、ヨーロッパでイギリスが果たしているのと同じような役割を日本が果たすために、集団的自衛権を行使できる国家になるべきだ��というアメリカ側からの要請がありました。つまり、ヨーロッパ地域はアメリカとイギリスとの二国間同盟の集団的自衛権によって軍事的に制覇する、中東はアメリカとイスラエルとの二国間軍事同盟で制覇する。このアメリカとイスラエルとの結びつきを強化しようと、ネオ・コンサバティブ(新保守主義)がねらったのが、アメリカに対して批判的なイスラム諸国を、軍事力によってアメリカに追随する国家に変えてしまうことであり、それが今回のイラク戦争です。

 そのような二国間の集団的自衛権行使によって軍事的に制圧できない地域が、アジアです。だからこそ、アメリカの世界戦略を実現するためには、日本をイギリスやイスラエルのような国にすることが、戦略的に不可欠なのです。小泉政権は、そこにまきこまれているという構図になっています。二〇〇三年には武力攻撃事態法が成立しましたが、アメリカに日本が追従していけば、アメリカの手先として攻撃を受ける可能性があるということは、今回イラクで日本人外交官二人が殺されたことに、はっきりとあらわれています。日本が攻撃を受けることが予測されるような事態というのは、日本がアメリカの戦争にまきこまれたから、そうなるのですが、これに対応して日本の国土全体で自衛隊と米軍が軍事的に行動できるようにするというのが、武力攻撃事態法と安全保障会議法・自衛隊法の改悪です。それは、朝鮮半島での戦争を前提にして、「本土決戦」ができるようにするというものです。

 イラクへの自衛隊派兵についてみると、九〇年代は、出口のない不況で仕事がない社会状況のなか、自衛隊はそれなりに「おいしい仕事」だったのですが、これからは「常時、人が殺される可能性のある仕事」へと逆転してしまうということです。そのなかで、志願兵制度である陸海空自衛隊の二六万人の体制を保持すると同時に、どう拡大するのかということが問題になってきます。

 −−「ボランティア」の義務化、「愛国心」教育、そして教育基本法の改悪は、その問題と関係があるのでしょうか。

 確かに、日本の財界や政府にとって、教育基本法の改悪が不可欠になっているのです。今回の総選挙で、自民党の七三歳定年制によって宮沢とともに中曽根が切られました。中曽根はこれを「政治的なテロだ」と言ったのですが、そのとき彼は、今度の国会は自分が政治生命にしてきた教育基本法と憲法の改正をやる国会なので、ここで引退する訳にはいかないと言いました。これが彼らの本当の狙いです。しかし今回の総選挙では、この本当の狙いは徹底して押し隠されました。憲法第九条の改悪を二〇〇五年までの行動計画としておきながら、それを絶対に総選挙の争点にはしない、つまり国民の眼から最も中心的な争点を押し隠すかたちで、今回の選挙がおこなわれました。マスメディアが荷担して、中心的な争点について国民に目隠しをしながら、「政治的選択」をせまったのです。

 中曽根は、まだ小泉内閣が教育基本法を改悪する路線を確定していない二〇〇一年一一月、『教育改革のめざすもの』というシンポジウムで、基調講演をしています。そのなかで中曽根は、改憲は一〇年以内にできるだろう、教育基本法はその根をつくる意味で憲法に先駆けて改正しなければならない、小泉首相は蛮勇をふるえ��と言っています。このような政府自民党の攻撃に対する、私たちの運動によって、二〇〇三年の有事法制がとおった国会には、教育基本法改悪案を上程させなかったのですが、この策動がこれから、いよいよ本格的なものになって来るのだと思います。

 忘れてならないのは、日本とアメリカとの軍事同盟のなかで、日本がアメリカに追従して「戦争をする国」へと、大きく歩を進める法案がとおった国会では、必ず教育改悪の法律がとおっているということです。つまり、「戦争をする国」にするための国民攻撃のもっとも中心的な現場として、とりわけ公の学校教育が位置づけられているのです。九九年の国会では、「日の丸・君が代」が法制化され、これによって全国で重点校を決め、広島や東京など、教育現場への徹底した問答無用の「日の丸・君が代」強制の攻撃がおこなわれました。それによって、学校組織そのもの、学校の管理職を、教育委員会の手先・末端にしてしまい、学校を「教育の場」から「国民統治・管理の場」へと一八〇度転換させるというのが、「日の丸・君が代」強制のなかでおこなわれてきたことです。

 この「日の丸・君が代」強制で、もっとも重要な手段として使われたのが、同じ国会でとおった教育三法改悪(「学校教育法」「社会教育法」「地方教育行政の組織と運営に関する法律」)のなかの、「不適格教員の摘発」です。つまり職務命令と処分が出されながらも、学校現場で「日の丸・君が代」に反対するような先生たちを、「不適格教員」として摘発し、追い出していくのです。実際に、子どものいわゆる「いじめ」より何倍もひどい個人攻撃がおこなわれてきたのです。

 教育三法改悪の二番目は、「ボランティアの義務化」です。「ボランティア」とは、もともとは「志願兵」という意味ですが、その字義どおり、国に対する奉仕のなかでの自衛隊の位置づけを、教育のなかで鮮明にしていくということです。学習指導要領のなかで、「愛国心」について、社会科では「国土を愛する」とはっきり書かれています。「国土防衛」は自衛隊の本務ですから、そうしたかたちで、学校教育と自衛隊がむすびつけられています。それは例えば、総合的学習のプログラムを防衛庁が組んで、すでに全国の四〇〇以上の学校で、自衛隊への体験入学がおこなわれていることを見てもあきらかです。また、この間の「個人情報保護法」などをめぐる議論のなかで、防衛庁こそがもっとも子ども達の名簿を把握しているということもあきらかになりました。ここにははっきりと、財界が要請している自衛隊の海外派兵を、常時おこなえるような体制にしていくという、基本的な戦略が見てとれます。

 教育三法改悪の三番目は、学校に来させたくない子どもを排除する、出席停止処分です。そこではいわゆる校内暴力の問題などが言われていますが、二〇〇三年三月二〇日に出された中央教育審議会の答申『新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について』のなかでは、まったく何の根拠も無いのに、今後五年間でいじめや校内暴力を半減させるとしています。このように数値目標化するということは、「不適格教員」と同じように「不適格児童」を学校から排除していくということです。都合の悪い子どもは、学校に来れなくさせてしまえば良いという考えです。

 こうした攻撃が、教育基本法改悪の以前から、すでに実行に移されているのです。その一つの典型は、二〇〇三年七月の東京日野市・七生養護学校への攻撃です。「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書をバックアップしている自民党の古賀都議が、先鞭をつけ、そこで行われている性教育をやり玉にあげ、教職員一一六人を処分した事件です。障害者にとっては、自分の体の部位を正確に言語的に把握することが必要で、性の知識は自分の命を守る生命線でもあります。そのために、「からだ歌」という身体の部位を性器も含めて歌にして覚えたり、人形を使って理解したりという教育が行われ、その成果はすべての保護者から理解を得ていました。ところが古賀都議は、これを「口に出すのも憚られる猥褻な事を言わせている」と偏向教育としてフレームアップし、都議会で横山教育長が謝罪しました。これを口実に、都議・市議と『産経新聞』の記者を引き連れて、七生養護学校に押し入り、翌日の『産経』には教材の人形を裸にした下半身の写真とともに、「ポルノショップまがいの過激な性教育」という記事がデッチあげられました。その後、教育委員会がこれについて一人一人の教職員を尋問したのですが、彼らは当然、正しい教育をしていると答えたために全員が処分されたのです。このような特高警察まがいのことを、東京都教育委員会がやったのですが、これを突破口に、さらに都内全ての障害児教育の現場に査察を入れ、不当に多くの人材・予算が使われているかのように描きだしました。障害児教育には、生徒数に比して普通より多くの人材・予算が必要なのは当たり前なのですが、それを問題化して、障害児教育そのものを切り捨てようとしているのです。

 −−国は、教育の内容そのものに介入しようとしているように思いますが。

 あきらかに教育基本法改悪の前段階から、教育行政が教育内容に全面的に介入していく、それぞれの学校現場の管理職と教職員との間で交わされていた様々な約束を、上からの査察で反故にしていくという事態が進行しています。先程あげた三月二〇日の教育基本法改悪に向けた中教審答申では、教育行政に関して、その直前まで入っていなかった見逃せない一文が急きょ挿入されています。「国・地方公共団体の責務」という項目のなかで、教育基本法第一〇条二項の「この自覚(一項=教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われる・・・)のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」という内容について、「『必要な諸条件の整備』には、教育内容等も含まれることについては、既に判例により確定していることに留意する必要がある」としています。この判例とは、旭川学力テスト裁判のことです(一九七六年最高裁判決、「必要かつ相当」な範囲で国が教育内容にも関与できるとした)。

 まさにこの一文は、国と地方公共団体が教育内容に介入するという宣言です。その典型的な事例が、文科省の発行している「心のノート」です。それは文科省が勝手につくった「国定道徳教科書」なのですが、二〇〇三年五月、文科省はこれをどのように使っているのかという調査を、各都道府県教育委員会に対しておこない、七月には「心のノート」についての具体的な活用の手引きが出されました。それは、学校の授業のすべての時間で、「心のノート」を使うというものです。そうすると、例えば東京都で行われている人事考課制度のようなシステムのなかで、年間計画を一人一人の教師に出させて、校長や文科省の方針にどう従うのかということをチェックすれば、全国の義務教育課程の教師一人一人が、「心のノート」に忠誠を誓っているかどうかをチェックできるのです。このようなかたちで、「愛国心教育」を刷り込んでいくということが、教育基本法改悪の前段階からおこなわれています。
 しかもこの「心のノート」は、「学校と家庭をむすぶもの」として位置づけられているのですが、先に見た中教審答申の「家庭教育」の項目では、「教育行政の役割としては、家庭における教育を支援するための諸施策や、国・地方公共団体と企業等が連携・協力して子どもを産み育てやすい社会環境づくりを進めていくことなどにより、家庭における教育の充実を図ることが重要であることを踏まえて、国や地方公共団体による家庭教育の支援について規定することが適当である」と述べています。つまり、国・地方自治体・地元企業が、どのように家庭教育に介入するのかを、教育基本法で規定すると言っているわけです。ということは、「不適格教員」の摘発、「不適格生徒」の摘発からさらに「不適格家庭」を、学校をつうじて摘発していくことを狙っているということです。このように、教育基本法の改悪は、日本を「戦争をする国」とするために、すべての国民に「愛国心」を刷り込むことを目的としているものだということが、具体的に目に見えるかたちで、はっきりあらわれているのです。

 −−文部科学大臣の河村建夫は、『教育勅語』を念頭において「教育改革」をやる、というようなことを言っています。

 まさに、そのとおりだろうと思います。『教育勅語』による教育は、「国家のために死ぬ国策人材」を育成することに最大の狙いがあったのですが、国家のために人を殺すことを正当化する、国家のために自分の命をささげる思想は、学校教育をとおしてしか刷り込むことができません。それを逆に見ると、戦後の教育基本法そのものが、そのような「国策人材教育」をさせないための、子どもたちの心をそのような思想教育からガードするための、重要な法律だったということができると思います。

 教育基本法が制定された一九四七年には、まだ『教育勅語』は失効していませんでした。そのなかで、当時の文部大臣自身が、日本がしなくても良い戦争をし続け、止めなければならない戦争を止められなかったのは、余りにも軍国主義的で国家主義的な教育に問題があったからだと考えたのです。考えてみれば、近代国民国家の発生と同時に、近代学校教育がはじまったのですから、原理的には、子ども達を家族や地域から切り離して、国家にとって必要な人間に洗脳するというのが、学校教育なのですから、放っておくとそうなるのです。それを、もっとも徹底してやったのが、日本の『教育勅語』による教育でした。しかし敗戦後、これについての深い反省から、教育基本法の前文と第一条では、個人の尊厳を重んじるということを前面に掲げ、個人の尊厳をもった一人一人の子どもの持って生まれた人格を完成させるということをうたったのです。そのことによって、国家にとって都合の良い人間を学校教育によってつくりだすことに、歯止めをかけようとしたのです。

 教育基本法第一条では、教育を人格の完成をめざすものとすることが、平和的な国家の建設の前提になる、としています。すなわち、教育基本法は、憲法第九条と不可分にむすびついたものとしてあるのです。国家主権の発動としての戦争をしない、つまり軍隊を持たないということは、全ての国民が国家を守るための国民兵になる−−という、近代国民国家における個人と国家の間のもっとも大きな矛盾を、無くすための論理だったわけです。憲法第九条を改悪しようとする勢力が、なぜ教育基本法を目の敵にするのかというと、それは憲法九条と教育基本法がお互いにささえあう、不可分の構造になっているからなのです。

 日本のような反省をしなかった第二次世界大戦の戦勝国のアメリカやイギリスは、ずっと学校教育のなかで、国家に対する忠誠、国家のために死ぬこと、国家のために人を殺すことを正当化し、単なる記号でしかない国旗に対して異様なまでの宗教的な忠誠心を誓わせています。象徴的な話があります。イラク攻撃が始まる前のアカデミー賞授賞式で、『ボウリング・フォー・コロンバイン』というアメリカの銃社会を批判したドキュメンタリー映画を撮ったマイケル・ムーア監督が、今はデッチあげの理由で国民が戦争に動員される時代を生きている、ブッシュ大統領よ恥を知れ!というスピーチをして、大きなブーイングと大きな拍手を受けました。この映画の題材になった、コロラド州コロンバイン高校での銃乱射事件を体験した生徒たちは今年ようやく卒業したのですが、現在でもこの学校に建っている「兵士の像」の銃は撤去されています。学校でそうした軍事教育をやることが、アメリカの多くの銃乱射事件の現場が学校であるというような事態を生み出していることを、私たちは認識しておく必要があると思います。

 教育基本法は五七年前の法律だから旧い、という意見もあります。しかし実は、教育基本法の基本的な思想は、一九八九年に国際的に採択された「子どもの権利条約」の教育についての基本的な考え方を先取りしているのです。その第二九条では「締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する」「児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限までに発達させる」としています。これは文字どおり教育基本法第一条の精神です。つまり教育基本法第一条こそが、二〇世紀の終りに多くの国々にとって必要な、子どもの人権を前提にした教育思想のカナメになっているのです。すなわち、個人としての子どもの人権を尊重すれば、たとえ国家といえども、「国家のために死ね」とか「国家のために人を殺せ」とか、国家のために人間の倫理観の基本を歪めることは許されない、と明確にしているのです。このことの重要性は、あらためて主張していく必要があると思います。

 −−最後にあらためて、イラクへの派兵という事態に、どう対処すべきだとお考えですか。

 現在、小泉首相がブッシュ大統領に約束した、イラクへの派兵がおこなわれようとしているのですが、自民党の加藤紘一をはじめとする人達でさえ、もはやイラクへの自衛隊派兵の大義はどこにもない、と主張しています。日本では、イラクでの一連のアメリカ軍などへの襲撃を「テロ」と言っていますが、国際社会はアメリカとイギリスのイラクへの攻撃を正当化してはいません。国際世論や国連が止めようとしたにもかかわらず、「やってしまった」のだから、占領軍は占領軍としての治安維持の任務を果しなさいというのが、例えば国連決議一五一一の内容です。イラクは占領下にあるのですから、その占領軍に対する攻撃というのは、「レジスタンス」ないしは「ゲリラ」として、国際法的にも認められていることなのです。これを「テロ」として描き出すことは、許されないし、それはあきらかに国民をだますためのものだと思います。

 しかもこの最大の問題を、自民党は総選挙の間中、徹底して隠しつづけ、その後、自衛隊を派兵するかどうかは「状況を見極めて判断する」と小泉首相は言っているのですが、その「状況そのもの」についてどう考えているのか、その基準がどこにあるのか、まったく説明すらしていません。『産経』の世論調査でさえ、イラクへの自衛隊派兵について政府は説明不足であるというのが、もっとも多い意見になっています。二人の外交官の殺害以降は、反対の声がさらに強くなっています。ですから、これはアメリカに追従して、小泉政権を維持するために、自衛隊員の命を人身御供にするということです。自衛隊を派兵することは、あきらかにアメリカに対する意志表示であり、アメリカ国内でさえもイラク戦争についての反対論は増加しているのですから、来年の大統領選挙を控えてブッシュが国際社会から支持されているかのように、小泉がバックアップするというものです。個別の政権を維持するために、人の命を人身御供にするものです。

 そもそも、自衛隊の海外派兵は、自衛隊法第八章「雑則」と「付則」で災害救助と同じようなものとしておこなわれます。そこで死んでも「名誉の戦死」にもなりません。アメリカからの「援助」がほしい、あのトルコでさえイラク派兵を止めたのですから、日本も「名誉ある自衛隊派兵撤回」をやり、そのことでアメリカ・イギリス主導の占領体制から、どのように早くイラクの人びとに主権を渡していくのかを考えないといけないと思います。

 そこで大事なことは、あらゆる問題において、憲法第九条が中心的な課題になっているにもかかわらず、この事について政府もマスコミも、最大野党の民主党も、ひた隠しにしているということです。何故ならば、これが前面に出たときに、彼らが一気に世論の支持を失うということを恐れ、なし崩し的に、憲法第九条が「邪魔者」であるかのように描いてそれを変えていくというのが、彼らの意図していることだからです。ですから、反戦平和運動の側としては、いま私たちが直面している事態の最大の焦点が憲法第九条にあるということ、この問題の「あらためての重要性」をあきらかにすること、憲法九条をあらためて「選び直すこと」が日本のもっとも大きな「国際貢献への道筋」だということを、はっきりさせていかなければならないと思います。イラクをはじめとするイスラム諸国でも、日本が憲法第九条をもった国だ、ということが広く宣伝されています。その日本がアメリカに追従してイラクに派兵するとは何事なのか、ということも広く知られることになります。そこで日本が、国際社会に対して憲法第九条を前面に掲げて判断を下せば、中東でのさまざまな問題について、新たな国際世論を形成するきっかけとすることができます。私は「国益」という言葉は嫌いですが、それこそ「日本が中東の石油に依存している」という問題にしても、その選択がもっとも有効な道ではないでしょうか。

 雪崩を打って軍需産業に連もうとしている財界と小泉政権の延命にしか寄与しない、憲法第九条改悪と、その露払いとなるイラクへの派兵を阻止することが、今もっとも重要な課題になっていると思います。


こもり よういち/東京大学大学院総合文化研究院教授

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