連載 ある学徒兵の戦後(21)

          上尾 龍介

2004.2.1 233


 早朝に起きて昨日と同じように戸外を歩いてみる。

 タイガの奥の小さい空は、寒ざむと冴えて紫色に凍りついている。

 明けてゆく濃紺の大気の奥には、壮大な針葉樹が神秘な静寂をたたえながら、収容所を大きく包み込むように聳え立っている。

 その静まり返った造化の荘厳の中に、人間の声も姿も小さく吸い込まれてゆくようだ。
 二重に鉄條網の棚に囲まれたウラジオストツクの収容所から移って来た僕にとっては、この森林の奥の、取り残されたような山小屋は、何かなつかしいような親しみと、自由を感じさせるような場所としてうつる。

 そこには兵舎というものの持つ厳しい表情よりは、むしろ、民家の持つ平穏な生活が待ってくれているように思われた。

 この日、僕は背嚢から袋を取り出して腰に下げると、川守田と二人で森へ入って行った。
 昨日の午後、きのこの生えている場所を発見したのである。飢餓に苦しむ僕たちにとっては、これは予想もできぬ救いであった。

 灌木の繁みを押し分けて入って行くと、堅い枝が、まるで鞭で打ちでもするように、バチツと、冷えた頬を弾く。何の枝か知らぬが、紅い色をした細長い枝である。頬が冷えているので、痛さが強い。小さな怒りが、そのたびに心をいら立たせる。

 繁みを分けて入ると、やがて僕たちの体は、背丈ほどの灌木の茂みに隠れるようになってしまう。そのあたりまで来ると、土は半ば湿ったようにうるおっていて、その上に深い落葉が重くかさなっているので、踏む土が柔らかい。

 落葉の匂いの中に、伐り倒されてそのままに放置されたと思われる大木や、朽ちて自然に倒れたような巨木が、あちこちにどつかと寝そべっている。

 その黒く朽ちた大木は幾らか湿っぽくて、見たこともない薄茶色のきのこや、黒いペロペロした、これも始めて見る奇妙なものが、あちこちにかたまって生えている。

 その気味の悪いきのこを摘まんで、

 「この黒い奴、食えるのかい」

と川守田に見せると、ひよいと顔を上げて、

 「食えるさ。“木くらげ”って言うんだよ。シナ料理の高級品なんだ」

 と、この新京育ちのボンボンは、いささかの講釈を垂れる。見せてくれた彼の袋をのぞくと、高級シナ料理が、すでにいっぱい詰まっていた。

 僕達は、更にきのこを探して、タイガの中を、ずいぶん奥まで歩いて行った。薄青い透けるような空気の中に、巨大な針葉樹が競うように聳え立っている。壮麗な原始の姿である。

 森林の奥はどこまでも深く寂として何の物音もない。冴え渡った鋭い空気が、僕達の体をひーとばかり取り巻いていて、刺すように痛い。

 きのこで袋が一ぱいになるころ帰途についた。

 灌木の茂みまで来た時、僕は赤い枝を二本折って帰った。

 枝を折る時、僕は日本のことを思っていたのだ。大家族の我が家では、十人もの人間が食卓を囲むので、いつも賑やかだったが、その食卓にはいつも真ん中に箸立てが置かれていた。めいめいが箸を取って食べるためなのだが、その箸はいつも丸い形のもので赤く塗られていた。

 そんなわけで、箸というものは、赤く丸いものだと、長い間、ずっと思い込んでいたのだ。

 灌木の赤い茂みのあたりまで帰って来た時、僕はそんなことをあれこれと思い出していた。

 そして、どれくらいの枝が、ちょうど我が家の箸の太さだっただろうか、などと思い迷いながら、何本もの枝を折っては捨てた。

 あの頃は、中学三年になる弟とその下の弟、小学校にかよう妹たち、そしてまだ稚ない二人の妹。そして父と母。そんな家族の誰かれが、学校の話や友達のことなど、何やかやと賑やかに語り合いながら夜の食卓を囲んだものだった。

 父が宮崎から四国に転勤になる時、お手伝いのツチ子さんも、家族と一緒に引っ越して行ったので、中学の五年になった僕だけが一人、下宿に残ることになったのだった。

 学校の正門に近いその下宿屋の箸は、家で使い慣れていた赤い丸箸ではなかったが、これは僕を妙に孤独にした。

 鹿児島の田舎の方から来ていたツチ子さんは、僕より一つ年上で、幼ない妹たちの面倒を見てくれていたのだが、やっと夏休みになって、初めて帰って来た四国の家の二階で思わず顔を合せた時、僕は少しばかりどぎまぎした。その日、白い浴衣の彼女は「お帰りなさい」と言って僕の顔をちょっと見て笑うと、下へおりて行った。

 宮崎の家でもそうだったのだが、僕の勉強部屋を掃除に来てくれていたのだった。ただそれだけのことに過ぎなかったのに、僕はその日、なぜかどぎまぎしてしまっていた。

 僕を孤独にした下宿の淋しい食事時のその孤独は、もしかすると、箸だけのせいではなかったのかも知れない。そんなことを、あれこれと思った。

 その日、袋一ぱいのきのこを採って帰った僕たちは、飯盒に何度も雪を入れて溶かし、それに採って来たきのこを入れて煮た。

 部屋の中ほどに築かれたペーチカは、煉瓦を積んで造られたものだが、それは、昔、日本で普通に使われていた木の林檎箱のような、長方形の箱型になっていて、その手前の方の面に焚き口が設けられている。その焚き口から割った薪を抛り込んで燃やす。すると乾いた薪は、ごうごうと唸るような音を立てて、煉瓦造りの箱の中で燃えさかるのである。

 ペーチカの横幅は、七、八十糎もあっただろうか。縦長い方、つまり奥行きは、ざっと二メートル近くもあった。高さは人間の腰あたりまであったから、かなりの大きさであった。

 縦長い向う側は、煙突につながっている。煙突は煉瓦で四角に積み上げられた大きなもので、それは屋根を突き抜けて、そこから屋外に煙を出す仕組みになっている。

 手前の焚き口から投げ入れられた薪は、煉瓦造りの四角い空間の中で燃え、その煉瓦を熱くしながら煙突に至り、その煙突の煉瓦をも更に熱くしながら屋根まで届くのである。

 つまり、焚き口から煙突の先端までがすべて熱を持つので、その構造物全体が高温の発熱体となって、部屋全体を適温に温める。という仕組みなのである。これがロシヤのペーチカである。

 僕等の場合、シベリヤの丸太造りの建物しか知らないので、都市の建築物のペーチカがどのような構造になっているかは、僕は全く知らない。

 所で、僕等のペーチカの箱の部分であるが、それには、箱の上の面に、二カ所、円形の穴があけられている。その穴には、二カ所とも円い鉄板がはめ込まれていて、薪が音を立てて燃えるようになると、それが灼けて真っ赤になるのである。

 その真っ赤に灼けた鉄板の上に、兵隊たちは飯盒を乗せる。ウラジオストツクでは、荷役作業でくすねて来た小麦などを煮たりした。

 この、山の丸太小屋に来てからは、どの兵隊も、せっせときのこ採りに精を出したので、ペーチカの上では、一日じゅう、誰かの飯盒が、きのこを煮ていた。

 僕も川守田も同じようにしてきのこを煮た。だが塩がないので全然味らしい味がしないのである。しかし何の味もしない妙なきのこの煮物も、僕たちの餓えた食欲を充分に満たしてくれた。

 どの兵隊も餓えを満たすために、毎日タイガの中にきのこ採りに出かけた。

 しかし、ぎっしりときのこを詰めた飯盒の底が見える頃には、さしもの「高級シナ料理」もまるでゴムでも噛んでいるような感觸だった。

 兵隊たちは、黄色いゴムや黒いゴムを噛みしめながら、誰も皆、味気ない、という日常語の持つ切実な実感を、ただひたすらに、味気なく噛みしめていたに違いない。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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