連載 ある学徒兵の戦後(22)

          上尾 龍介

2004.3.1 234


 先にも述べた、復員後まもなくの頃書いた日記風の回想記に、次のような記録が残っている。
 それをそのまま写すと次のようになる。

   十二月○日
 日に三度ぐらゐ、きのこを取りに行くので、此の収容所附近の地理にも、大分明るくなった。
 北の方に、三メートル許りの小川が流れてゐて、川の向ふには、ソ聯兵の宿舎らしい丸太小屋が数軒見える。

 収容所は、僕達の住む大きな小屋を中心に、東にロザレット(病室)、南に便所、西に小ぢんまりした本部と、炊事とが並んでゐる。それと、かなり傷んだ古い小屋が東南の方角にある。これは現在は使われていない。

   中略

   十二月○日

 正門を出て、北に流れてゐる小川を渡ると、五六軒の小屋が、思ひ思ひの方向に立ってゐる。

   中略

 ソ聯兵の宿舎の横を通り抜けて、思ったより広い道をDD。

 以上のような記録である。後の日付になった部分の最初の所で「正門を出て」とあるが、この正門というのは収容所に鉄條網が張られると同時に造られたもので、現在書き続けている文書では、まだ鉄條網は出来上っていない。

 現在の僕には、収容所の建物の配置についての記憶は、かなり薄れているが、古い文を読み返していると、おぼろな記憶の彼方から、少年の日の水色の夢のように、それはうっすらとよみがえってくる。
 いま思い出してみると、それらの、まさしく地獄の日々であった苦難の記憶が、なぜか忌わしい悪夢のような思い出としてではなく、不思議に浄化された画像として蘇ってくるのである。解しかねることだが、それは一秣のなつかしささえ伴っているように感じられる。生き残っている戦友達に尋ねてみなければわからぬことだが、もしかすると、彼らのかなりの者から、同じ答えが返ってくるのではないかと思えてならない。

 それがなぜなのかわからない。

 思ってみれば、あの頃の日々というのは、たとえて言えば、手負いのけものが、雪の上に血痕を残しながら、よろめく脚で、けもの道をたどって行くような、そんな生死の境の、きわどい断崖を彷徨するにも似た日の連なりであったのだけれども、思えば、それらの日々が、たとえそれが、どのような苦難の明け暮れであったとしても、それは、まぎれもない青春の日々の一部であったのだ。それは、僕だけがそうであったのではない、僕らすべての若い兵隊達の、誰しもの、かけがえのない青春の一部であったのだ。
 生きていること自体が、切り刻まれるような時の連なりでしかなかったあの頃の日々も、六十年という歳月は、その苦痛のすべてを洗い流し、忘却の彼方の遠い画像として、天はいま、僕の前に残してくれているのかも知れない。

 そのような、身を切るような日々を耐えた場所が、この壮大なタイガの中の捕虜収容所であったのだ。

 記憶をたぐり寄せながら、収容所とその附近の見取図を、聊かのなつかしさと共に描いたものが、次の図である。

 図で見るように、北側に三メートルばかりの小川が流れていて、小さな丸太造りの橋が架かっているが、僕と川守田はそちらへは行かずに、南の方へ行ってみることが多かった。そちらの方には森が近く、きのこが多く生えていたからだ。

 南の方へ、灌木の疎林を押しわけながら七、八十メートルもまっすぐに進むと、繁みの陰から、意外にも、幅のある浅い川が見えて、向うの岸には美しい洲さえ出来ている。

 これは、思わぬ発見であった。この時、捕虜の身でなかったとしたら、ここに数日のテントを張って、初夏の木洩れ日の中で心の洗われる日を過ごしたいと思ったことであろう。

 川へ行く方角のすぐ近い所に、一軒の丸太小屋があった。かなり古いもののようで、ひどく傷んでいる。立止まって暫く眺めながら、これは、いつの時代かに囚人が入っていたのかも知れないな、などと語り合った。そして、「流刑場の跡かも知れないな。」「いや、きっとそうだぜ。」などと語りながら、僕達の前途に待っているであろう日のことを語り合い、それを恐れながら帰った日もあった。

 僕たちが帰って行く収容所の建物は、どれも同じような造りの丸太小屋である。子供の頃、絵本などでよく見たリンカーンの生家を思わせるような素朴な家々である。

 やがて鉄條網の外柵が張られはじめた。

 各小隊から五名ずつの使役を出しているのだが、まだ僕の番は廻って来ない。

 この頃から、きのこ取りに行けなくなった。外へ出られなくなってしまったのである。

 数日経って外柵が完全に出来上ると、兵隊達の空腹を満たす余分な食べ物を入手するルートはすっかり途絶えてしまった。

 炊事から供給される高梁粥だけになったのである。

 この食べ物は、高粱(こうりゃん)をべとべとになるまで炊いた物で、高粱の赤みががった薄皮と、白い実の部分とが混り合って、全体として薄赤い感じの糊状の物になっている。

 その中に、時々、高粱の殻がまじっているので、なまぬるい色の糊の中に、赤茶色の粒がアクセントとなって、つぶつぶと着くことになる。

 だが、実を包んだこの殻というやつは、いくら煮ても柔らかくはならぬ物のようで、やがて口の中でそれだけが次弟に異物となって残るようになるが、誰もそれを吐き出す者はなかった。

 最初のうちは、

 「何だこりゃ、馬糧高粱じゃねえか、」

と言って、どの兵隊も、「ペッペッ」と吐き棄てていたのだが、やがて吐き出す者は一人も居なくなった。次第に飢えが募って来たのである。

 きのこという貴重な食料を失ってしまへば、あと、この地上に食べる物とて何ひとつないのである。ある
のは雪だけだが、これは食べた所で、何の足しにもならない。

 だから兵隊達は高粱の殻まで大事に噛んで食べた。敗戦になるまで、僕等の部隊には数十頭の軍馬が居た。これは重い砲車を牽引する貴重な戦力だったので、その飼糧は相当に贅沢であった。切った干し草の中に高粱を混ぜて与えることもあったし、煮た大豆を混ぜることもあった。

 兵隊たちはシベリヤに来て、それを思い出していた。軍隊の頃は、朝早く馬を曳き出しては、脚の蹄の裏の凹みの中まで丁寧に洗って、油まで塗るのだが、廐舎(きゅうしゃ)から運び出した大量の寝稾を乾かしながら、傍らに積み上げてある古い寝稾の中に、大豆を突っ込む古い兵隊達が居るのを、僕たち初年兵は知っていた。馬に食わせる大豆をくすねて納豆を作っているのである。

 彼らは、そんなことまで思い出しては、空しく唾だけを呑み込んでいたに違いない。

 飢えは迫っていた。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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