連載 ある学徒兵の戦後(23)

          上尾 龍介

2004.4.1 235


 外柵の鉄條網は三重に張りめぐらされた。十重二十重とまではいかないが、三重に張られた鉄條網は兵隊たちの心を重くした。

 ウラジオストツクの収容所を出て以来、ずっと「収容所」という囲いの中の生活から離れていたので、このように、しっかりと囲まれてしまうと余計に重圧を感じるのかも知れない。逃げ出したくさえなってくる。

 だがそれは気分だけのことではなかった。外へ出られなくなって三、四日も経つと、飢餓感は急速に強くなって、兵隊達を一層苦しめるようになった。

 この頃になると、誰もが、食事の前に水を腹一杯飲むようになった。小便が出てしまえば、腹はゲッソリと小さくなってしまうのだが、それでも、まるでそれがずっと以前からの習慣ででもあったかのように、誰もが、飯盒にぎっしりと雪を詰め、溶かした雪の中に、更に雪を詰めて溶かし、またその中にぎっしりと詰めては、それを食べるようにして飲んだ。

 自由にきのこ取りに行った日々のことが、今は過去のこととなってしまった兵隊たちは、そのことを、しきりと残念がって、繰り返し語った。
 「露助の兵舎のずうっと前の方の森だがなあ、あそこにゃあ黄色い奴が、どこよりもたくさんあったよなあ


と誰かが言えば、

 「いや、そうでもねえ。川の手前を少しばかりさかのぼってさ、左に行った所のほうがもっと採れたぞ」などと、めいめいが手柄話のように語り合った。

 そして、俺は毎日、飯盒に何本ものきのこを食べていたんだ。などと、自慢げに誇張して語る者さえ居た。

 一般に世間では、どんな風に言うのか知らないが、兵隊たちの間では、たとえば、飯盒に一杯炊いた飯のことを、飯盒一本のメシ、と呼びならわしていた。

 そんな具合だったから、夜になると、赤々と音を立てて燃えるペーチカの周りでは、ほかのどんな話よりも、食べ物の話に花が咲いた。

 兵隊という種類の動物は、五人も寄ればきまって女の話になり、その話は間違いなく猥談へと広がっていくものだが、シベリヤではそんなことはあまりなかった。

 移って行った山の収容所には、当初は電気がなかったので、夜になると、丸太小屋の中は真っ暗になった。

 そこには、小さな二重窓から入ってくる雪明かりが、ぼんやりと、窓の輪郭を四角に見せているだけだったので、ペーチカの焚き口をガタンと開けて、誰かが薪をくべたりすると、バチバチとはぜる赤い炎のゆらめきが、しばらくの間、小屋の内部を明かるくした。がっちりと組み上げられた丸太の壁は、そんな時、鈍い光の中で、まるで赤く隈どられた物が動きでもするように、ゆらゆらと影のように揺れた。

 古いロシヤの辺境の村落でなら、或いは見られたかも知れないような、暗く重い小屋の中で、兵隊達は、切ない思いで、誰も彼も食べ物の話をした。

 彼らは、たとえようもなく飢えていたので、まるで極楽の物語りでも聞くように、みんな好い顔をして、乗り出すように耳を傾けた。そして話に割り込んでは自分なりの解説を加えたり、異説を唱えたりして、時に賑やかに時を過ごすこともあった。

 兵隊達は、北関東の出身の者が多かったが、満州での現地召集の人が居たり、在学中に召集された者なども居たりして、各地方の人から成る雑多な集団となっていた。

 そんなことで、各地方の郷土の食べ物のことをなつかしげに語る者が多かった。

 「君ね、九州だったよな」

と話しかけられたのはそんな或る日のことであった。

 その人は僕らとは少し年の離れた、中年の上等兵だったが、彼は

 「九州にはね、ダゴ汁ってのがあるんだってね」

と言って親しげな顔を向けた。

 この温和な感じの古兵は、満州で銀行員だったと聞いていたが、彼は時々、何かと僕に話しかけてくれた。

 「はい、ありますよ。おいしい物ですよ」

と僕は答えた。

 「あれ、何で作るの」

 「メリケン粉で作るんです。平たくして、手でちぎって汁にいれるんですけどね」

 「ああ、メリケン粉ねえ。手でちぎるってねえ。うまいだろうなあ」と、まるで憧れるように語尾が延びた。
 「味は何でつけるの」

 「醤油です。いりこを入れてダシを取るんじゃなかったかと思いますが」

 「いりこで、ダシを取るねえ。DDうまいだろうなあ」

と、また夢を見るような、そして共感を求めるような顔で僕を見た。

 「ねえ君。あれ、本当はダンゴ汁ってのが本当かも知れないねえ。そうかも知れないよねえ」

 「そうかも知れませんね。で、あれですけどね、醤油じゃなくて、味噌汁のようなものにすることもあるんですよ。芋や大根なども入れますが」

 「ほう、味噌ねえ。どっちがうまいんだろうなあ。味噌もいいよなあ。朝は毎日味噌汁だったなあ」

 「そうでしたね。DDで、九州にはね、このようなダゴ汁のほかにね、“いきなりダゴ”ってのもあるんですよ。DDこの方がもっとおいしいなあDD」

と僕は言った。


 「え、何て言うの」

 「いきなりダゴです」

 「え、なに? イキナリDD」

 「ダゴです」

 「ふうん。“いきなりダゴ”か。それ、どんな物なの」

 「それはですね。薩摩芋の切った奴をね、メリケン粉で包んで蒸すんです」

 「ふうん。蒸すのか。ふかし芋の一種だね。どうして“いきなりダゴ”って言うんだろうねえ」

 「そうですね。多分ね、これはメリケン粉で包む物ですから、饅じゅうのような物になりますよね。」

 「そうだよね」

 「でも、餡このような、造った物を中に包むんじゃなくて、切った薩摩芋を、そのまま包むので、いきなり包んだ団子、という意味じゃないでしょうかねえ」

 「そうか、なる程ねえ。いい匂いがするんだろうなあ」

 「そうですね。どんな匂いがしたか忘れましたけど。蒸しますからねえ」

 「そうだよなあ。蒸す時は好い匂いがするからなあ。DDうーん。君の話は、いいねえ。それねえ、イキナリダゴって言ったよなあ。それは、そのまま食べるのかい」

 「はい、そうです」

 「熱いだろ」

 「熱いのも食べるし、冷えたのも食べますよ」

 「熱い方が旨いだろ」

 「そうですね。どっちも旨いですよ」

 「そうか。熱い方が僕はいいねえ。DDそれなあ、そのまま手で持って食べるのかい」
 「そうです。」

 「こうやって、手で持つんだねえ。いいねえ。DDたまらんな」

と彼は、感に堪えぬ表情でしぐさをした。寄って来た何人かの兵隊達も、僕たちのダゴ汁の話を、真剣な顔で聞いている。

 「それでね」

と僕は言った。

 「いきなりダゴじゃなくてですね、いきなりダゴ汁ってのもあるんですよ」

 「え?DDいきなり、ダゴ汁ねえDDうん、それ、どんな風に作るの」

 「ああ、それは簡単ですよ。それはですね、いきなりダゴを、そのまんま、汁の中に入れて煮るだけなんです。」

 「うーん。いきなりダゴを、汁の中に入れて煮るんだねえ。うーん。DD旨そうだなあ」

 「造ったことはないんですけど」 「だけど、煮てるうちに、皮が破れることもあるだろうなあ。ギョーザを煮ると、皮が時々破れてたからね。ギョーザも旨かったねえ」

 「そうでしたね。僕は学校の寮に居ましたから、ギョーザのような街の旨い物は、あまり食べられませんでしたけど。」

 「そうかね。君は寮生活だったのかね」

 「はい。そうです」

 「だけど満州のほうでは、薩摩芋を食べることはあまりなかったなあ。」

 「はあ、そうですか。北京の街頭ではね、薩摩芋の煮たのを売ってることがありましたよ」

 「そうかね。旨かったかい」

 「旨かったですね。とても甘い物でした。丼のような器に、汁までかけてくれるんですが、その汁がとても甘くてDD」

 「へーえ。そうかい。北京には旨い物が随分あっただろうねえ」

 「あったと思いますけど、日本内地からの学生は金がなくて、寮のメシだけしか食えませんでしたから」
 「そうだろうなあ。物価が違ってたからねえ。粗食に耐えたってわけか」

 「まあ、そうですかねえ」

 「でもさ、今の高粱メシに較べれば、天国だったよなあ、寮のメシでもさ」

 「そりゃそうですよ。腹一杯食べられたし、それに時々は豚の切り身が皿に一切れずつ出たりしましてね」

 「へえ、そりゃまた豪勢だね。学生寮にしちゃあデキ過ぎだね。それにしてもだ、でっかい豚肉だろ。DDうーん。DDなあ。家に帰りてえよなあ」

 「そうですよねえ。帰りたいですねえ。DDで、さっきの豚肉ですけどね」

 「あ、そうだったな。豪勢過ぎてびっくりしたんだろ」

 「それもありますけどね。あの時の大きな切り身というのはね、豚肉とは言っても、豚の、皮の方に近い部分だったんです」

 「ほう」

 「厚さも、かなりの厚さだったんですが、皮の外側の方にね、何と、毛が生えていたんですよ」

 「え?DD毛が?DD毛が生えていたって? そりゃ、皮付き豚肉だねえ」

 「ええ、そうなんです。毛がまばらに付いているんです」

 「ほう。それは又凄いね。凄みがあるねえ」

 「凄いでしょう。多分、ひと通りは毛も取ったんでしょうけど、それでもまだ、可なり生えているんですよ
ねえ。驚きましたよ」

 「そりゃ驚くよねえ。誰だって。それが皿の上に乗っかって出て来たんじゃねえ」

 「そうなんですよ。DDだけど、毛はどうやって取るんでしょうか。」

 「そうだねえ。火で焼くんだろうかねえ」

 「まさかかみそりで剃るんじゃないでしょうねえ」

 「そりゃ君、違うね。あの大きなゴロゴロした奴をさ、小さなかみそりで剃るってのはどだい無理だよ」

 「それもそうですね」

 「僕にも解らんな。満州に居たけど、経験ないねえ。DDだけどさ、君の居た学校は、シナで活躍する人材を育てる学校だったんだから、ここらで一つ、内地から出てきたような、ウブな学生の度胆を抜いてやれ、ってことじゃなかったのかねえ。」

 「さあ。どうでしょうか。でも、僕は困りましたよ。困ってしまいましてねDD」

 「どうしたの」

 「友達と話し合って、寮の近所の飯屋に皿ごと抱えて行ったんです」

 「へえ、それでどうした?」

 「これを何かと替えてくれ。って頼んだんです」

 「ほう」

 「だけど、まだ入学したばかりで、二人とも、シナ語なんてまるでできないでしょう」

 「そりゃそうだ。で、どうしたの」

 「それで、仕方ないから、毛を引っ張って見せて、必死になって『不能吃』『不能吃』と言ったんです」

 「アハハ、それはよかったね。不能吃(プノンチ)か。それは傑作だ」

 「そしたら、にやにや笑いながら饅頭(マントウ)と替えてくれたんです」

 「そうかね。それは面白い話だねえ。でも、得したのか、損したのか、どっちだろう」

 「どっちでしょうねえ。DDでも、それはもうどうでもいいことですよね。終ってしまった学生時代の遠い話ですから」

゛ 「そうだね。だけど、昔を思い出すね。ちょっと寂しいな」
 
「日本に帰りたいですね」

 「帰りたいねえ。いつになったら帰れるか」

と呟くように立ち上がると、

 「だけど、今日は楽しかったよ」と言いながら自分の寝場所に帰って行った。

 一緒に笑い合った川守田たちも、それぞれの所に帰って毛布に顔を埋めた。

 ペーチカ当番が、割った薪を焚き口に放り込むと、暖かい色をした束の間の明かりが、小屋の闇の中に広がる。焚き口がガタンと閉じられると、やがてペーチカはごうごうと音を立てはじめる。その上面にはめ込まれた丸い鉄板が真赤に灼ける。

 鉄板の上には、この日も誰の飯盒も乗せられることはなかった。

 希望のない朝を迎えねばならぬ兵隊たちは、今日も飢えた夜を眠る。

 深々と積もった雪の中の古い便所に、今日はじめて行く。

 ほんのわずかな食料では、ろくに糞も出ない。山へ着いて、今日で四日めになる。

 まぶしい太陽の反射を感じながら、ぽっくり、ぽっくり、と大股に雪を踏んで歩く。

 歩いていると、後ろから太いバスが

 「おい、おい」

と名前を呼ぶので、ひょいと振り返ると、高木曹長が大股で歩いて来る。

 突っかけた営内靴の中に雪が入って冷めたそうだ。

 営内靴というのは、踵の付いた革のスリッパのような物で、これは一般の兵卒は履けない。彼は、これをシベリヤの果てまで携帯して来ていたのだった。

 便所は全くの露天で、何の遮る物もない。それは、野戦の塹濠を、幅を狭めて掘ったような細長い濠で、それが何本か掘られている。

 その濠の上に板が渡してある。ただそれだけの所である。

 凍りついた雪に足を取られぬように注意が必要だが、それよりも、とにかく尻が冷めたい。

 「糞をするのも楽じゃないのう」

と、血色の好い顔が、僕の方を向いて笑う。

 「はあ、尻が冷めたくて」

と、並んだままの恰好で答えながら、曹長の方を見ると、ロシヤ文字が一面に詰まった紙片を彼は握っている。

 「ご勉強ですか」

と聞くと

 「うん」

という答。

 戦場を駆けめぐった歴戦の曹長は、浅黒い横顔を見せて、今、ロシヤ語の紙片と格闘している。

 この収容所に来るまでに、彼が、その立場上、ロシヤ語を必要とする場面に、しばしば直面したであろうことは、僕たち兵隊にも見えていた。

 それにしても、ウラジオストツクの収容所を出てから、このタイガの奥の小さな収容所に着くまでの、そして、着いてから今日までの様々な用件を、どのようにして通じさせたのだろうかと思う。

 この山の収容所に来た二百人の兵士の中では、彼の階級は、姫野少尉に次いで二番目であったから、隊長の補佐という立場にあったので、もし少尉が倒れでもすれば、彼は代って指揮を執らねばならなくなる。そして、その可能性は決して低くはなかった。

 高木曹長の横顔を見ながら、ふと、そんなことを思った。

 便所の中には、埋もれた雪の間から、凍った古い糞のあとが見える。よく見ると、消化されないままの黄色い粟の粒が無数に固まって、糞の形になっている。それは、過去のいつの頃かに、この丸太小屋に住人が居たことを物語っている。

 そして、誰言うとなく、ここはシベリヤの流刑場の跡ではないのか、と噂していることが、実感として迫ってくる。

 ウラジオストツクで、伐採に出発する日、僕達を見るソ連兵の中には、否定的に肩をすぼめたり、首を横に振ったりして、出発して行く兵隊達の不運を憐れむ素振りを見せる者が居たりしたが、それが今になって、次第に現実みを帯びて来たことを、誰もが感じ始めていた。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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