連載 ある学徒兵の戦後(24)

          上尾 龍介

2004.6.1 237 


 この日、襟に毛皮の附いた防寒外套が支給される。新兵の僕達にとっては初めて見る軍装である。古兵の話では関東軍の装備だという。

 ウラジオストツクですでに軍服を脱いで、満州の苦力(クーリー)の着る綿入れの労働服に着換えていたので、その上に外套を着ることになるのだが、綿入れ服が、だぶだぶの代物だったため、しっかりと着ぶくれした感じになる。

 明日から、いよいよ作業が始まるのである。棚の中に閉じこめられて一週間にもなると、外の自由な雪の中に出て行きたくなる。

 外に出してさえくれれば、また、あのきのこが取れるのではないかと、その時兵隊達は、何となく思っていたのだった。だがそれが虫のいい空想に過ぎなかったことを、僕達は次第に悟らされるようになっていく。

 収容所の四隅に造られた監視塔には、いつからかソ連兵が監視に立つようになっていた。彼らは灰色の長い外套を着て短い自動小銃を持っていた。肩から吊ったその小銃を、僕達はいつの頃からかマンドリンと呼ぶようになっていた。

 彼らのぼってりと厚い外套は、ほとんど脛のあたりまで覆う程に長かったが、夜の厳しい歩哨に立つ兵士は、その長い外套の上から、更にもう一着の極寒用と思われる外套を身に着けていたが、それは遠目には円筒形が立っているように見えた。

 その円筒の中から、顔の一部だけがのぞいているので、見えるのは前方だけではないかと思えたが、この異様な姿は、多分、毛皮の襟を立てて寒気から身を護っていたのだろう。

 歩哨の兵士は、それでも寒いのか、監視台の床の板を、拍子を取るように踏み鳴らす者も居たりした。

 昨日支給された防寒外套を着て、いよいよ作業が始まることになった。

 営内の広場に五列縦隊に整列すると、厳重な人員点呼が始まる。

 三人のソ連将校が寄って何か話している。二人は若い男、一人は女性の将校である。その甲ン高い声が、早朝の寒気の中に響く。

 やがて幅広い金モールの階級章を肩に着けた曹長が、右側の列の者の肩を、前から一人ずつ軽く叩くようにして、ゆっくりと人員をかぞえ始める。

 ペアーチ、ジェーシチ、ベトナーッツァチ、と、低い太い声が数えて行く。五、十、十五と数えているのだ。

 ウラジオストックでもそうだったが、彼等は掛け算で数えることをしない。もっとも、日本軍の場合、まず二列横隊に並んで先頭から番号をかけ、それを二倍すればよいので点呼が取りやすい、ということもあるし、そのまま、「右向ケ右」の号令で四列を作れば、それはそのまま行軍の隊形にもなるので、人員点呼には極めて都合よくできていた。至って合理的だと思えるのだが、ソ連兵がそれをやらないのは、もしかすると、日本の小学生が習う算数の九九の計算法を、知らないのではないかと、捕虜になっていた間じゅう、折に触れて思ったものだ。

 中には、ひどいのが居て、一、二、三、四・・・と数える兵隊も居た。

 こんな時に困るのは、点呼の終りの方で数えそこなった時であった。彼は最初に戻って、再び一、二、三とやり始める。零下三十度の早朝にこれを繰り返されると、日本兵達は死ぬ思いであった。このまま凍死するのではないかと恐れる者が居ても、それは当然であった。

 そんな時、兵隊たちは、顫える歯を噛みしめながら、ただ黙々と足踏みを続けた。そうするよりほかなかったからだ。

 作業が終って山から帰った時にも厳重な点呼があるのだが、この時にも、しばしば同じことがおこった。

 痩せ細って、眼も頬も堕ち窪んでしまった兵隊達は、骨に徹るほど飢えていたので、辛うじて、よろけるようにして収容所まで帰って来るのだったが、そのまま倒れそうになる体を、その時の彼等は、誰もが気力だけで支えていたのだ。ソ連兵たちは、そんな中で、しばしば数を間違った。

 彼等としてみれば、一人の逃亡者も出さず、やっとここまで監視して帰って来たのであるから、ここで数を間違えでもすれば、一日の仕事は水泡に帰するのかも知れなかったし、日本兵達にすれば、その時の誰の脳裏にも、わずかばかりの高粱のゆるい粥が、まるで豪華な晩餐のように揺れていたのだ。そして、ペーチカの燃える不潔な暗い捕虜小屋が、地上の楽園のように待ってくれてもいた。

 作業第一日めのこの朝、ソ連の曹長が点呼を取り終ると、兵隊達は五列縦隊で正門を出た。

 門を出て、北を流れる小川を渡る。丸太を並べた橋である。橋を渡ってそのまま進むと、五、六軒の小屋が思い思いの方角を向いて建っている。小屋はどこも丸太造りである。小屋の傍らの低い柵の中には仔豚が遊んでいる。木の柵は雪解の泥にまみれていて、わけもなく心が和む思いである。

 更に少し歩いて、道端の一軒の小屋の前に隊列は停まった。整列して待つと、中から一人の男が出て来て、監視の若いソ連兵と何やら話している。四十がらみの屈強な男である。

 話がすんだと見えて、その男は小屋の中に入って行ったが、暫くすると斧と鋸(のこぎり)を運び出して来た。彼が何度か往復して運び出したのは、八、九十本はあろうかと思われる斧と、巨大な鋸との山であった。

 それは小屋の前に積み重ねるように並べられた。

 兵隊達は、三人ずつの組に分けられ、それぞれの組に一個の鋸と二本の斧とが渡される。藤原一等兵と僕とは井上伍長の組に入った。

 藤原は同じ中隊の同年兵であったが、井上伍長という人は、抑留されてはじめて出会った人であった。

 北海道の苫小牧工業の卆業だというこの下士官は、二十四歳の好青年である。

 これまで全く知らなかったということは、多分中隊が違っていたのだと思うが、同じ中隊の下士官に、時に感じていたような、軍隊ずれした要領のよさや、上官風を吹かせるような所の全くない、すがすがしい感じの人だった。それは、彼がその風貌のどこかに少年の面影を残していたからばかりではない。

 彼を見た時、なぜか兄のような親しみを感じたものだが、恐らく藤原も同じような印象を抱いたに違いない。

 藤原が小屋の前で受取って来た二本の斧は鋭く研ぎ上げられていて、鉛筆を削るのに充分な程に鋭利であったし、鋸は一米半はあると思われる二人挽きの物で、両端には木の取っ手が着けられていた。

 鋸を一人が担ぎ、斧を二人が一本ずつ身に着けることになるのだが、鋭い刃にうっかりどこかを切らぬように注意せねばならない。だがそれよりも鋸の方は更に始末の悪い道具であった。これは肩に担がねばならないのだが、何しろ長過ぎるので、歩くたびにビヨンビヨンという感じで揺れるのである。揺れるたびに、尖った歯が首を引っ掻くのではないかと恐れながらの歩行である。自分の首ならまだしも、後の者の顔に触れはせぬかという心配さえ起こる。

 少し西へ歩くとソ連兵の宿舎がある。その横を通り抜けると、思ったより広い道が続いている。そこは小さな盆地といった地形の、かなりの広さの土地である。一面の雪がまぶしい。

 盆地の右も左も前方も山である。さほど大きな山ではない。その山の麓には、葉を落した静かな雑木林が、刷毛で刷いたように、薄茶色に広がっている。歩きながら、中学の頃読んだ狩人日記のことを思うともなく思っていた。

 五列の縦隊は、雑木林を抜け、低い丘を越えてぞろぞろと歩いて行く。

 二粁も歩いたかと思われる頃から、ひどく雪が深くなって、丈高い灌木の中の道が迫る。斧と鋸をもてあましながら歩き続けるこの奇妙な一団は、ふと気が付くと、いつの間にか長い二列になって歩いていた。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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