連載 ある学徒兵の戦後(25)

           上尾 龍介

2004.8.1 239


 山に入って少し歩くと谷川があった。

 四メートル程はあろうかと思われる川には、丸太を縛り合わせたまだ新しい橋がかけられていた。橋を渡った向う岸は小高い岩になっていて、岩と岩との間を山道は通っている。

 次第にせり上りになってくる道を歩くにつれて、わずかずつ、両側から山が迫ってくる。

 道の左右には、どっしりと太い針葉樹が、枝一杯に雪をのせて伸びやかに聳え立っている。

 次第に深くなってくる雪に、靴はすっぽりと埋まってしまう。ぽっくりぽっくりと歩くのだが、膝がしらからくるぶしまで、羅紗のような生地の、固い防寒脚絆で、甲殻類のように覆われているので、靴の中まで雪が入り込むことはない。

 道は時に湾曲しながら、酸素に満ちた薄青い大気の中をどこまでも続いている。

 かなりの道を歩いた頃、

 「第三小隊、止まれ!」

という野太い声が前の方から聞こえ、ぞろぞろと歩いていた兵隊たちは、歩みを止め、めいめいが集まるように雪の上に腰を下ろすと、やがて髭の濃い小安軍曹が前に出て口を開いた。

 手短かに喋り終ると、軍曹の脇に立つガッシリした中年のロシヤ人と代った。

 紺のキルトの作業服を着た彼は、兵隊の持つ鋸を借りると、やたらと揺れたがる鋸を、なだめるかのように手際よく持って、それを兵隊たちに示しながら、

 「エト、ピラー」

と何度か言った。次に斧を手に取ると、

 「エト、タポール」

と同じように繰り返した。

 兵隊たちはざわざわと、タポールとかピラーとか言い合った。

 そのあと、彼は伐採の方法を教えた。一本の樹木の傍らに立つと上を見上げ、厚い手套をした手でパンパンと幹を叩きながら、先ず、その樹木が、どちらの方向に傾いて立っているかを見定めるように言った。

 それから、樹木の根もと近くに手を当てると、日本兵たちの方を向いて、

 「ここを鋸で挽くのだ」

という風に、鋸を挽くしぐさで、手を動かして見せた。

 次に、近くに居た日本兵を呼んで、鋸の一方の端を持たせ、自分がその反対の端を持つと、二人で実際に挽くしぐさをして見せた。しぐさをする彼の口から、ピリーチという言葉が何度も洩れた。

 説明が済むと、相棒の日本兵を促して、樹木の幹に鋸を当て、その歯を木の肌と直角に立てると、シャッシャッと、何度か挽いて見せた。

 それから、おもむろに、二人で挽き始めたのだが、日本兵は幾らも挽かぬうちに息を切らしてしまい、ロシヤ人の作業監督は、そのたびに挽く手を休めねばならなかった。

 作業は頓挫しながらも、幾らかずつ進んで行き、鋸の歯は少しずつ喰いこんでいった。

 辺りの雪の上には、柿の色の大鋸屑(おがくず)が散った。

 かれこれ二十糎ほども切り込んだだろうかと思われる頃、彼は挽く手を止めた。そして立ち上って腰を伸ばすと、疲れた様子の日本兵を促して、深く喰い込んだ鋸を、少しずつ引き抜いた。

 引き抜いた鋸を雪の上に置くと、今度は傍らの斧を握った。そして挽いたばかりの、新しい節目の線の、その少し上の辺りに手を当てると、何やら喋った。喋りながら、そこに斧を当てて見せ、やおら向き直ると、その斧を振り上げ、力をこめて斜めに振り下ろした。芯まで凍結したシベリヤの針葉樹は、鋭利な斧でハツられると、まるで氷の塊のように小気味よく木屑を飛ばした。

 斜めの切り込みは次第に深くなっていき、肌色の傷口は見る見る広くなっていった。

 雪の斜面に踏ん張った彼の両足は、弾みをつけて斧が振り下ろされるたびに、心なしかずりさがって行くように見えた。

 斧を使った斬り込みが終ると、樹木は、凍った幹にポッカリと大きな口をあけた。

 少し息を切らした監督は、木屑の散った雪の上に腰を下ろして暫く休んだが、やがて、樹木を倒す最後の作業についての説明を始めた。

 今まで、斧でハツってきた部分の反対側、ちょうど背中に当る部分に鋸を当て、今度は木が倒れるまで挽き続けるのだという。

 彼の説明によれば、斧でハツり取った欠落部分の、真反対側の、少し上に鋸を当てて挽くのだが、挽き進んで行くうちに、樹木の重心は、自然に、斧でハツり取られた側に移るようになる。そこを更に挽き進んで行くと、或る所まで来た時、樹木は自分の重みに耐えかねて、メリメリと音を立てながら傾きはじめ、自分から倒れていくのだ。

 というような話であった。

 彼の話は真に迫っていた。

 話はそこで終ったし、それは無論ロシヤ語であったのだが、身ぶりを交えたその話しぶりは兵隊たちの心に喰い込み、彼等はその言わんとする所をあらまし呑み込んだ。

 監督が説明した木を倒すまでの手順は図のようになる。

 作業の第一日めは、このようにして幾らか早めに終った。

 すべてが終ると、兵隊たちは、あたりに転がっている枯れた倒木を物色した。

 山には燃料になる大小の巧木が幾らでも転がっている。それを適当な長さに挽いて、二人が組になるとそれぞれに担いで、この日は収容所に戻った。

 僕たちが倒木を物色していた頃、あまり見なれぬ木切れの束を、さも大事そうに持ってくる古兵が居た。それは松の枯木の芯の部分だという。それは好い匂いがした。

 その幾らか透明感をもった物は、赤味がかった茶色に近い色で、木というより、どこか鉱物のような、少しばかり化石に近い物質のような、そんな感じを与える美しい物であった。

 古兵たちは、これを、四、五十糎の物差しのような細い棒にして、かかえていた。

 この美しい物は、恐らく倒れた松の木が枯れて行く過程で、その松脂が木の芯のあたりに凝集していって、その芯を、このような美しい物に変えていったのではないだろうか。などと、僕はその日想像した。

 この晩、兵隊たちの捕虜小屋には、ポッカリと灯りがともった。

 それはなつかしい色をした暖かいともし火であった。

 ウラジオストックの収容所では電燈の光の下で暮らしていたのだが、それ以来の待望の灯りであった。

 部屋の真中に築かれているペーチカの横に、それは置かれたのだが、昨日までの手探りの生活に較べると、この貧しい一本の灯りは、差し伸べられた神の暖かい手のように思われた。

 松の木の燃える芯のことを、古兵たちは「ジン」と呼んでいたが、その、わずかな熱を帯びたゆらめく光は、好い匂いを闇の中に漂わせながら、なつかしい色をにじませてこの夜燃え続けた。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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