連載 ある学徒兵の戦後(26)

          上尾 龍介

2004.9.1 240


 松の木のジンの燃える室内の闇の中で、何人かの古兵たちは、この夜、伐採のやりかたについて言い合っていた。

 「俺たちだったら、あんな妙な伐り方はしねえぜ」
と誰かが言う。

 「そうかい。・・・じゃあ、お前ならどうする」

 「俺だったらな、初めに切り込んだ方に楔(くさび)を打ち込むんだ。」

 「じゃあ、鋸はどうなるんだ」

 「そりぁなあ、おめえ、楔はサ、引抜いたあとに打たねばなんねえのサ」

 「なる程」

 「そしてな、その脇の方から切り込むんだ。・・・いいか。少し切り込んだら、楔をもっと打ち込む。・・・これを繰り返すんだ。」

 「そうか。・・・だがな、なぜそんな面倒なことやるんだ」

 「そりやぁおめえ。鋸って奴ぁな、切り込んで行けば行くほど重くなるんだ。しまいにやぁ喰い込んじまって、動かなくなっちまう」

 「なるほど、そうか」

 「おまけにな、脂(やに)が出るのサ、あの木はな」

 「脂が粘り着くんだな」

 「そうさ」

 「だけどな。露助の奴等、なぜあんなやり方するんだろうな」

 「なぜだか知らねえが、バカなんじゃねえのかい。露助って奴は」

というような話であった。

 軍隊という集団は、まことに雑多な人間の集まりであるが、自信ありげなこの古兵は、或いは伐採の経験を持っているのかも知れなかった。

 作業第一日めの夜は、久し振りにともされたささやかな灯りの中で、兵隊たちは幾らか饒舌であったが、身をさいなむひもじさの中で、兵隊たちの多くは、すでにぐったりと毛布にくるまっていた。

 兵隊たちは、やがて少しずつ作業に慣れていった。

 四キロばかりの雪道の往復にも、幾らか慣れた。吹雪が吹きつのって難儀するような日も、思うほど多くはなかった。

 斧は鋭く研がれているので、ともすると、あちこちに傷つけそうになる。この危険な道具を兵隊たちは持てあましたが、いつの頃からか、腰に紐を巻きつけて、ちょうど刀を差すような恰好で持ち歩く者が現れるようになった。

 この思い付きはすぐに広がって、さながら侍の集団のようになったが、中には、西南の役の薩摩の兵児のように、紐で縛った斧を、背中に背負った勇ましいのも現れるようになった。

 雨は降る降る

 人馬は濡るる

 越すに越されぬ田原坂

という古い唄を、歩きながら時どき思い出すことがあった。

 だが、さながら稚気に溢れて見える彼らの外見とは裏腹に、作業に出はじめた兵隊たちには、いきなり、終日をシベリヤの寒気の中に身を晒さねばならぬという試練が待っていたのだ。

 支給された真新らしい防寒帽の毛皮のついた「垂れ」を下ろして、すっぽりと頸から両頬まで蔽って、目と鼻だけを出しているのだが、さながら吹き込む隙間風のように、寒気が皮膚まで透るので、兵隊たちは、その痛さに耐えて歩かねばならなかった。

 ぎしぎしと鳴る雪の上を、足もとを見つめながら、一歩一歩と、兵たちは行者のように山間の道を歩いた。

 吐く息が凍結して誰の眉も真白になっている。吸い込む息が鼻に痛い。鼻の穴に、きせるの金具を突っ込むような痛さである。

 帽子もそうだが、外套も、手套も、靴も、そしてズボンを蔽う脚絆さえも「防寒」の二字を頭に冠した物ではあるのだが、そのどれもが、シベリヤの極寒に耐えられる代物ではないことを、兵隊たちは次第に知るようになっていた。

 防寒靴には、いつの頃からか、少しずつ水が浸み込むようになっていた。

 関東軍の防寒靴は、裏面は一面に毛皮で被われていて、長い毛足は、足を入れる履き口のあたりまで伸びていたし、その上に、羅紗かフェルトのような生地の、ごわごわとした防寒脚絆が、靴の甲を被せるように覆っていた。脚絆の下端には、小さな留め金付きの革ベルトが付いていて、靴の底を締めるようになっていたので、靴の上から雪が入り込むようなことは、まずなかった。と言ってよい。

 それが日本軍の防寒靴であった。

 しかしこの靴にはひそかな盲点があった。

 それは縫い目が多かったことである。

 足の甲を被う部分は、あらかたが厚いズックで造られており、それを補強するかたちで、部分的に革が用いられていた。この革と布とが、しっかりと縫い合わされていたことは言うまでもないが、足の甲の部分と底の部分とが、それにもまして、しっかりと縫い合わされていた。

 しかし、このように強固に頑丈に造り上げ、縫い上げられた靴ではあったのだが、縫い目の多いことが却って思わぬ弱点となっていたのだ。

 踏まれた雪の粉は、縫い目のどこかに潜んでいて、それは誰も気付かぬ間に、ひそかに糸を伝って、靴の裏まで沁み込んでいたのだった。

 それは、次第に靴裏の、刺すような湿気となって、兵隊たちの足指を襲うようになった。

 寒冷の地に暮らした経験を持たぬ兵隊たちの多くは、それが何であるかを知らなかったので、防禦の方法を知る筈もなかった。

 それに較べるとソ連兵の防寒具は、さすがにすぐれたものであった。

 日本兵を見張りながら伐採の現場までついて来る監視兵は、ほとんど脛まで隠れるような長い外套に、ゆったりと身を包んでいたが、その、とりわけ厚い大きな襟には、鼠色の、しっかりと目の詰まった毛皮が着けられていた。

 それは、見るからに高価な物に映った。

 だが、日本兵にとって更に珍らしかったのは、彼らの履く防寒靴であった。

 それは、僕たちが今まで見たことのない形の長靴であったし、それはどうやら革靴でもなかったし、布靴でもなかった。

 誰にもそれはわからなかったが、それはフェルトじゃないか。と言う者も居た。

 厚いフェルトを、靴の形に造型したものではないか、というのである。

 そう言えば、ソ連兵のものには、靴の後部に、かかとが着いていない。どこにも靴らしいアクセントのないのっぺらぼうの長靴なのである。これでは急に駈け出さねばならぬような時には、極めて不便であろうと思われるような鼠色をした長靴であった。

 だが、見かけによらず、嘘のように軽い靴なのかも知れない。それにフェルトという材質は、保温・保冷・防熱に適していると言われているし、どこにも縫目一つない造りであるから、水の浸透する透間が全くない。

 これが彼らの防寒靴であった。

 関東軍の、雪水の浸み込む防寒靴に、次第に苦しむようになっていた僕たちの眼には、それは十全な物に思えた。そして、もしかすると、ヒットラーやナポレオンの歴史的な敗北の底には、このような些細な事実が隠れていたのかも知れない。などと思ったりした。

 日が経つにつれて、兵隊たちは、小指やかかとを痛めるようになっていった。靴にこすれる傷口の痛みに耐えかねて、兵隊たちは泣き言を言った。そして、指は少しずつ腐爛していった。

 凍傷というものの恐ろしさを知るロシヤ人は、優先して手当をしてくれたが、足の痛みに苦しむ者の数は、次第に広がっていった。

 川守田が足指を失ったのは、正月が明けてかなりの日が過ぎた後のことであったし、僕の小指が靴の中で血と膿にまみれるようになったのは、それからまた、かなりの日が過ぎた頃であった。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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