連載 ある学徒兵の戦後(27)

          上尾 龍介

2004.10.1 241 


 作業が開始されてから初めての休養の日がめぐって来た十二月の十日頃までは、誰の足指もまだ大丈夫だった。

 だがこの頃になると、どの兵隊の体にも、無数の虱(しらみ)が湧くようになっていた。

 兵隊たちは、夜が来るとペーチカの近くに寄って来ては虱をとった。低い音を立てて燃えるペーチカの傍らで、彼らは真剣な顔をして、ピチピチと虱をつぶした。

 この虱という小動物には、シベリヤに居た間じゅう、ずっと苦しめられたものだ。

 毎日のノルマに苦しんでいて、山から帰るなりそのまま倒れ込んで、しばらくは起き上れないような日常だったために、着衣を脱ぐことさえあまりなかった。そんなことが虱の大量発生の原因の一つだったかも知れない。

 苦しい思いまでして、着物を脱いだり着たりするぐらいなら、このまま虱に食われて死んだほうがずっと楽だ。などと、あの頃の僕は次第に思うようになっていた。

 虱という動物は、念入りに潰していっても、小さな縫目の奥に潜んでいて、それがシャツの裏側に卵を産みつけるのである。

 卵というのは、うみほおずきのような形をしていて、明太子の粒のように微細なものであるが、それが縫目のあたりに、びっしりと産みつけられているのである。

 虱をつぶす時には、はじめに生きた奴を潰してしまうと、次に群生した卵の群をまとめて、親指の爪で圧しつぶすのだが、この卵というやつは潰してもほとんど手ごたえがないので、潰れたのかどうかよくわからないことが多い。

 虱ならば、潰すたびに「ピチッ」という音がして、爪に少し血が着くのでよくわかるのだが、卵の場合は、縫目の裏側に生みつけられていることもあり、糸くずの間に入りこむように生みつけられていることもあって、手ごたえがないのである。

 これは始末に負えない。

 そこで、爪で引っ掻くようにしてひとまとめに取ろうとするのだが、しっかりと生みつけられているので少々なことでは取れるものではない。

 これは煮沸するしかほかに方法はないのだと思われるが、山の中の収容所には、そんな設備はないし、第一、捕虜の身では着換えの衣料など有ろう筈もない。

 ウラジオストックに居た頃にも虱は居たが、まだそれほど猖獗(しょうけつ)を極めてはいなかったので、兵隊たちも、時どき虱とりをすることはあったが、虱に苦しめられるというほどのことはなかった。

 それでも、少しずつひどくなっていったので、伐採に移動する前に、一度、その駆除が行われたことがあった。

 それは、作業休みの日であった。その日、僕たちは隊列を作って、収容所から少し離れた場所まで駆除を受けに行った。兵隊たちは、それを「滅菌」と呼んでいた。

 滅菌場のささやかな施設は、くたびれたような弱い日の照る坂の上にあった。あたりには民家らしいものも格別ないような所であった。

 そこの簡便な建物の中で衣服を脱ぎ、それらを一括して吊るして、外から熱を加え、それで虱を殺す。という形式の、至って簡便な設備のように、それは見受けられた。

 これならば煮沸などと違って、濡らした物を乾かす手間が要らぬし、汗に濡れた物であってもカラカラに乾燥するので至って便利である。

 その日の帰り道の、一点の痒みも残っていないカラカラのシャツの肌触りを、僕は今でも覚えている。

 だが、伐採に入った山の収容所の生活は、そんなのんびりしたものではなかった。

 ここでは、虱という小昆虫との日常の戦いが、さながらゲリラ戦のように兵隊たちを待ち受けていたのだ。

 虱の大群の日夜をおかぬ襲撃は、たたでさえ衰弱し切った骨だけの体に、更に残酷な追い討ちをかけた。

 これは思わぬ伏兵であったし、執拗(しつよう)な手強い敵であった。

 はじめは、縫い目の間に隠れるように潜んでいた彼等だったが、次第にその数を増して、やがては、兵隊たちのシャツの裏側一面に、べったりと広がるようになった。

 兵隊たちは、夜になると虱退治を始めるのだが、最初のうちこそ、一匹、二匹と丁寧に潰していたけれども、次第に間に合わなくなって、脱いだものを裏返しにすると、そのまま爪を立てて、熊手のように引っ掻くようになった。

 背中の側にも胸の側にも、まるで塗りつけたように張り着いているので、爪で引っ掻くと、そこに、はっきりとした掻き跡のようなものができて、木綿のシャツの本来の地肌が、そこだけに顔を現すのである。

 兵隊たちは苦にがしげに、裏返しに広げたシャツに、何度も爪を立てた。

 そんな具合だったから、シャツには、まるで裏でも付けたような、一種の厚みがあった。

 だが虱という奴は、シャツの背中や腹にだけ居てくれるわけではない。それは当然なことだが、腕の中にまで生息範囲を広げるのである。

 腕の虱は取りにくかったが、兵隊たちは、すぐにそれに反応した。それはペーチカを利用することであった。

 部屋の真中では、毎日、低い唸りを上げてペーチカが燃えているが、そのペーチカにはめ込まれた鉄板は、灼熱した二つの円となって、捕虜小屋の闇の中に、なつかしい温もりを振りまいているのだが、そのペーチカの焼けた鉄板に眼をとめたのだった。

 ある晩、一人の古兵が、脱いだシャツを拡げて、鉄板の上であぶっていた。

 彼が、それを灼けた鉄板に近づけると、パチパチと一斉に胡麻のはぜるような音がして、少しばかり何かの焼ける匂いがした。

 次の男が、同じように鉄板に近づけると、同じようにはぜた。

 虱というのは熱に弱いのか、近づけると落ちてはぜたが、相当な高熱に焙(あぶ)られるのだから、これは煎(い)られるようなもので、瞬時に死んで鉄板に落ちたのに違いない。

 だが僕は、温められてすっかり好い気持になった虱たちが、うっかり手を離して地獄に落ちたのではないだろうか、などと、子供のようなことを思っていた。

 伐採の山から、こごえて帰ってくる日常だったので、そんなことを思う日もあったのかも知れない。

 シベリヤでの捕虜体験を持つ僕の世代の人ならば、恐らくすべての人が、虱との格闘の記憶を持っていると思われるが、それはまた、死との格闘の記憶であったと言ってもよいだろう。

 あの頃与えられた食糧というのは、何の調味料も入っていない、恐らくは塩さえも殆ど使われていない粥に近い高粱のメシだったし、飯盒に一本の、そのメシを、五人の兵隊で分けて食べねばならなかったから、一人分は、飯盒の蓋に摺(す)り切り一杯ずつしかなかった。

 これでは、普段の生活の場合でも足りないが、これだけで森林伐採を強制するのは、死を強制するのに等しいので、兵隊たちは、今日より明日、明日よりあさってと、目もりで量るように痩せていった。

 歩くだけでも息が切れるような体に虱がまでが巣くって、幾らも残ってはいない血液を吸うのであるから、さすがの屈強な兵隊たちも次つぎと死んでいった。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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