連載 ある学徒兵の戦後(29)

          上尾 龍介

2004.12.1 243  


 その頃になると、もう誰もが、中学の古美術教科書に見る餓鬼のような体になっていたので、伐採現場まで歩くのがやっとであったが、伐採が進むにつれて、山は次第に遠くなっていった。

 漸く山までたどり着くと、雪の深い急な斜面を、時には四つん這いになったり、立ち木に取りすがったりしながら、少しずつ登って行った。そして、登りながら、伐採できる木を、それぞれに物色したのである。

 山の傾斜には、雪の重さに耐え続けたような針葉樹が、様ざまな太さを見せて、地面から突き出すように、天に向って聳え立っている。

 兵隊たちは、なるべく太いのを選んで目星をつけ、それを三人が一組になって、伐り倒しにかかるのである。太い木でなければ、ノルマを達成することができないからである。少し小ぶりな木では、二本倒さなければならない。

 倒した木は枝を払って、六米か四米の木材に切り分ける。

 大木を伐り倒せば、根元に近い方から計って、まず六米の木材を切り出すことが出来る。その上の部分は、幾分細くなっているので、そこからは、四米の木材しか切り取れない。だが、うまく大きな木にめぐり会うと、四米物が、二本も取れたりする。

 この区別の基準は、根元に近い方の切り口の直径と、先端に近い方の直径とを計って決めるのであるが、先端寄りの切り口の直径が、一定の長さに足りないと、規格にはまらないので、それらは、すべて捨てられることになる。

 最初のうちは、ロシヤ人の作業監督が、切り口を計りに来て、これは六米で、これから先は四米。などと、具体的に指図して廻っていたが、次第に慣れてくると、三人組のめいめいの班で物差の棒を作って、それを当てて計り、大小の木材に切り分けるようになった。

 そんな作業を続ける中で、時どき「リューベ」という耳慣れぬ単語が、古兵の会話の中に混っているのに、気付くようになった。それは、どうやら外国語のようであった。

 英語かな。と思い、頭の中で単語帳をめくってみたが「リューベ」というのはどこにもない。ロシヤ語か。とも思ってみたが、監督の口から、そんな言葉を聞くことはついぞなかった。

 何だろう。という、さしたる意味もない小さな疑問は、不思議にずっと着きまとっていて、それはいつも、影のように浮かんでは消えていたのだが、或る日、もしかするとそれは、「立方米」の略語ではないだろうか。と、ふと思った。

 それに思い到ると、何とはなしの安心感が、その日から、心をおだやかにした。

 これはずっと後年、日本に帰ってからのことだが、土地の面積などを測る時の用語に、「ヘイベイ」という言い方のあることを知った。

 これが平方米の略であると聞いて、「やっぱり」と思い、膝を打つ思いで辞書を引いてみると、果して、そこにはシベリヤの「リューベ」の語があった。

 辞書はそれを「リューベイ」と表記し、「立方メートル」という語釈が附けられていた。

 苦難の日に、タイガの奥で抱いた疑問は、この時氷解した。

 そんな、小さな星のかけらのような疑問を抱かせたりした伐採作業であったのだが、その作業も、最初のうちは、物珍らしさと緊張から、何とか、その日をこなしていたのだったが、衰弱した体には、それは無理なことであった。

 作業は、片方の足を、木の根や岩の窪みに踏ん張って、それで体を支えながら、腰をかがめて、二人で交互に挽くのである。

 鋸(のこぎり)は木の芯に向って、地面と水平に挽かねばならないので、かがめた体を横に向けた姿勢で挽き進んで行かねばならないのだが、この無理な姿勢を保ちながらの労働は、兵隊たちの体を、まるで、何かで摺(す)り落としてでもいくように、容赦なく消耗させた。

 兵隊たちは、喘(あえ)ぎながらも、巨大な鋸を、来る日も、来る日も、力の限り挽いたのだが、彼等の眼窩(がんか)は、老人のように落ち窪んでいた。

 それは、この時の兵隊たちの体力の限界を、遥かに超えていた。

 彼らは、時に放心したように片膝をつき、眼前の大木に、ともするともたれかかろうとした。

 自動小銃を肩に掛けた監視兵は、そのような日本兵を見とがめると、きまって、

 「ダヴァイ! ヴィストレ!」

と怒鳴りつけた。

 若い監視兵は、何かと言えば「ダヴァイ、ダヴァイ」と怒鳴ったが、決して殴ったりはしなかったので、怒声に駆り立てられることはあっても、恐怖感を覚えるようなことはなかった。

 日本兵がその立場だったら、恐らく、かなりの兵隊が、にくにくしげに捕虜を殴りつけたに違いないと思うのだが、シベリヤのソ連兵は、その点、どの兵士も鷹揚であった。

 この年の、八月の敗戦の頃から九月頃の間、捕虜になったばかりの僕達は、朝鮮北部で、ソ連の兵士たちと初めて接触したのだったが、その頃出合った監視兵達も、至って穏やかで、日本の兵隊達と友好的でさえあった。その頃、時に手まねで、彼らと冗談を言ったりもしたのだったが、ウラジオストックへと送られて行った船の上でも、それは同様であった。

 しかし、シベリヤの監視兵は、仕事がのろいと言っては怒鳴り、歩き方が遅いと言っては怒鳴った。

 怒鳴りつけられながら、僕たちは、しぶしぶ仕事をしたのだったが、それは意識的に怠けたのではなかった。何を言われても、それ以上は体を動かすことができなかったのだ。

 冬の野外の寒さには耐えられないので、作業の間じゅう盛大に火を燃やし、時どき体を温めながら作業を続けた。

 シベリヤの広大なタイガでは、いくら燃やしても、燃料に事欠くようなことはないのだが、火を燃やすことには、別の意味があった。それは作業の手順の一つであったのだ。

 あの当時、僕たちが冬の間じゅう伐採し続けた針葉樹の名を、僕は遂に知らなかったが、それは、大きな枝を、大鷲の羽のように、四方にゆったりと拡げた真っすぐな樹木であった。

 その枝は、ともすると、大人の太もも程もあったので、伐り倒して木材にするには、その枝を、ともかく、すべて斧で切り落さねばならなかった。

 一本の木から切り落した大小の枝は、集めて積み上げると、大きな山になった。それは大人の背丈よりも高い山であった。

 作業が一段落すると、僕たちはそれを積み上げる作業に入った。翌日それに火を放つのである。

 マッチの小箱が班長に渡されていたので、井上伍長が火をつけることが多かったが、ロシヤのマッチは、どこにこすりつけても火が着いた。何という種類のマッチか、その呼び名を知らないが、それは、中国に居た頃使っていた物と同じ種類のマッチのようであった。

 マッチを擦って焚き付けた火を移す時、普通の生活の場であれば、新聞紙などを利用するのが一般的だが、シベリヤのタイガの奥で手頃な焚き付けになったのは、白樺の樹皮であった。

 山には、至る所に枯れた立木があったが、針葉樹に混じって、所どころに白樺の枯木があった。蒼暗なタイガの奥では、白樺はくっきりと目立つので、焚き付けは容易に手に入った。

 枯れた白樺の樹皮は、手で剥がすと、がばという感じで、大きく剥がれた。


かみお りゅうすけ/九州大学名誉教授

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